(株)カヌチャベイリゾート さま

2008年4月2〜4日

家族5人で、沖縄に旅行に行った最終日。

三女 紗代実が体調を崩してしまい、
その対応を頂いた宿泊先
「カヌチャベイリゾート」へ

御礼としてメールしたのだけど、

これまた、見習うべき顧客対応を頂いた。

私から送ったメール

(株)カヌチャベイリゾート さま

2008年4月2〜4日に、家族5人で、お世話になりました。

最終日、4日早朝、三女が嘔吐下痢を発症し、
近隣の診療所まで搬送いただくなど、細やかな配慮、
心からお礼申し上げます。

その後の経緯、感染症の内容など、
遅くなりましたが、簡単に報告差し上げます。

長文のため、ホームページ化しております。

記述の中に、原因と推測される要点を記述しておりますが、
決して、「誹謗中傷を目的」としている表現では無いことを、
ご了承下さい。

ご多忙中とは、存じますが、
なにかの御参考になれば、幸いです。

870-0817
大分市上春日町4組A
FAX:097-573-6090

山崎 雅治(やまさき まさはる)
TEL:090-3737-6512

amx@un-an.gr.jp

送付したレポート

詳細

2008年4月2〜4日の滞在で、最終日の早朝、
三女が、嘔吐下痢を発症しました。

しばらく、様子を見ておりましたが、
症状も変わらないため、フロントに問い合わせし、
医務室の有無を、おたずねしました。

医務室は無いが、診療所を紹介するとのことで、
移動の準備を始めておりましたところ、

ホテル側の案内に同乗し、搬送していただくことになりました。

その節は、大変お世話になりました。

久志診療所での診察では、緊急性を要する措置までには至らず、
大分までの移動に対して、危険性も示されませんでした。

その後、チェックアウトし、
予定通り、14時の飛行機で福岡に飛び、
陸路、大分に戻りました。

大分に到着後、かかりつけの小児科を受診したところ、
脱水症状のため、緊急入院となりました。

しかし、病院側の適切な処置で、三女は翌日に退院し、
その夜から、通常の生活に戻ることができました。

医師の診断によると、症状も小康状態で、
吐瀉物の生理検査でも検出が難しく、
原因菌の特定などはできないが、

症状からすると、
「なんらかの感染症」との診断でした。

その後、家族で、三女に、なんらか感染に至るような、
飲食や状況は無かったか、あれこれ検証してみました。

中日の4月3日は、

朝食を、ホテルバイキングで済ませ、
食事は、そこのみです。

ホテル出発後、美ら海水族館に14時まで滞在しましたが、
その間、飲食は、コンビニ等で購入した、
市販のドリンク・スナック類です。

ホテルまでの移動途中に、

ナゴパイナップルパークに立ち寄り、
生パイナップルを、数切れ食べました。

ホテルに到着して、沖縄料理「くすくす」で
食事をしております。

注文品は、伝票の記録の通りです。

食事後、土産物購入と、
コンビニでアイスクリームを購入しております。

部屋に戻り、

私(父)は、残って、
母・子供3人は、屋内プールへ出かけました。

プールから、帰って、三女は、
先ほどホテル内コンビニで購入した、
アイスクリームを、1カップ食べ、就寝します。

そして、翌日早朝の嘔吐下痢につながります。

この中で、感染に至る可能性があるのは、

「屋内プール」という考えが上がってきました。

小児用の浮き輪を付けて、楽しんだようですが、
なんどか、水に沈み込む事もあり、
プールの水を飲むことがあったとのこと。

また、これは、率直な感想ではありますが、

他の利用者も、もちろん、私どもも、
プール入水前に、シャワーを使うことが無く、
入館して、すぐにプールに入ったと聞いております。

当然、プールの衛生管理は、万全だと思いますが、
家内の、見たままの感想からすると、

なんらか、プールの水に、幾ばくかの成分が存在し、
旅行で、体力を消耗していた三女が、
反応したのではないか、と、感じております。

プールに入っていない私は、当然症状が有りませんが、

家内と長女は、那覇空港を離れる時点くらいで、
腹痛を感じており、大分到着後、受診しております。

次女は、なにも症状を訴えていないので、
プールが原因ではないのかもしれませんが、

今回の旅行で、5人が別行動をとったのは、
屋内プールの利用時だけであり、

何らかの関連があるのではないか、と考えた次第です。

報告は、以上です。

決して、カヌチャの屋内プールの衛生状態に、
問題点云々ということではありません。

今後の運営の参考につながればと、記述しております。

不躾な表現がございましたら、お詫び申し上げます。

今回の滞在、子供達も、たいへん素晴らしい思い出となった、
沖縄旅行で、大切な宿泊の場を、カヌチャベイリゾートで
過ごせたことは、一生の宝物と感じているようです。

いくつものご配慮いただきました今回の滞在が、
子供達の旅行のスタンダードとなるなら、
毎回、このクラスのクオリティーを求められれば
親として、幾ばくか負担をも感じております。

また、後になって
「沖縄で行きたいリゾートNo1」であることや
「要人利用」の品質を持つリゾートだと知り、
驚いております。

もし、また機会がありましたら、
ビーチや、カルチャー施設を楽しめるような
滞在にしたいと考えております。

以上です。

=================

END

頂いた回答

山崎 雅治 様

先日はカヌチャベイホテル&ヴィラズへお越しいただきまして誠にありがとうございます。
ご丁寧にメールをお送りくださいましたこと、心より感謝申し上げます。
ご宿泊の際にはお嬢様が体調を崩され、ご心配されたかとお察し致します。
大事に至らず、ご快復されたとのこと、安心致しました。
山崎様から頂きました内容は各部署に伝え、今後の運営に活かさせて頂きたきたく存じます。
また、嬉しいお言葉も頂戴し、大変恐縮いたしております。
私共スタッフ一同にとって日々の業務の励みとなり、より一層頑張って参る所存でございます。
是非またカヌチャへお帰り下さいませ。心よりお待ち致しております。
貴地におかれましてもこれから暑くなるかと存じますが、お体ご自愛の上、ご多幸をお祈りいたしまして略儀ながらメールにて御礼申し上げます。

カヌチャベイホテル&ヴィラズ
コンシェルジュマネージャー
三京直子

一家全員の「沖縄美ら海水族館へ旅行」

最初で最後のお泊まり県外旅行

多忙の合間をぬって実現

当然ながら、
盛りだくさんの旅行となった.....。

小学校入学前旅行

思えば、2006年4月

長女 詩音が小学校入学直前の春休みの事。

半ば業務ではあったが、父娘二人で2日がかりの旅行に、出かけた。

今年、2008年4月は、次女 真凪が小学校入学となる。

別に、小学校入学前の旅行を恒例化する気もないのだが、
なにか、真凪に遠出のネタがないものか、と考えていた。

・雅治の生地である、北九州まで、父娘二人旅
・鹿児島平川動物公園にコアラ見学
・大阪海遊館
・長崎ペンギン水族館

などなど、考えていたが、なかなか、コレといったモノは浮かばず。

動物園や水族館にいくとなれば、他の面々より、
私たちも連れて行けと、異議が出されるだろう。

昨年くらいから、TV番組の影響で、子供たちの中に、
どこか遠くにお出かけして行きたいところ、といえば、

・沖縄美ら海水族館
・北海道旭山動物園

の2択があったようだ。

父娘二人旅ではなく、一家全員旅行となるとして、いずれを選ぶかしばらく考えた。

父娘二人で2日がかりの旅行

選択権は、パパが行使

雅治・佐和子の業務のスケジュールやら、周辺事情なども含めると、
なかなか日程も決まらず、話だけ盛り上げて、その気にさせて、
「都合付かず中止」、はかわいそうだと、

「旅行の実現」をひた隠しながら、

日々の会話のなかで、
美ら海 or 旭山、の選択を子供たちにインタビューする。

「さよみちゃん、動物すき?」
「イルカさん!」
「なるほど」

「まなぎさん、サファリとうみたまご、どっちがすき?」
「うみたまご!」
「そっかー」

「うたねさん、美ら海と旭山、どっちがいい?」
「うーん、・・・・・・、どっちも!」
「ダメ、却下!」
※長女にはストレートに質問する
なぜなら、長女は、その質問の先に旅の実現が含まれているなど
感づいたりしないからだ、次女ならば察するけど.....。
あるいは、日頃から、まじめな顔してウソつく私であるから、
詩音が私の話を信用してない事もあるかもしれない。

いろいろと選定理由を考えてみたが、どちらにするか、私が決定した。

迷うことなく、美ら海水族館に確定。

その理由は、
「厚さ60cmのアクリル水槽を見てみたい」
と、思ったのが、決定理由。

旭山動物園にも、おおいに期待はある。

しかし、ガラス管を泳ぐアザラシや、飛び込むホッキョクグマなど、
TVで取り上げられて部分は、おもしろくても、
基本的には、ごく普通の動物園だ、という感想も(ネット上には)多い。

動物園は、九州管内で十分だと思っている。

どちらか選べと言われたら「私は美ら海水族館を選んだ」ということ。

旅行見積もり

そこで、佐和子に、沖縄旅行にいけるか、打診をする。

漠然な話なので、費用やら所要時間など、はっきりせねば、
特に年度変わり時期なので、何とも言えないと言う。

そりゃそうだ、私も、やみくもに論ずるのは、キライなので、
2月25日、アメリカンキスプレスのツアーコンシェルジェにプラン作成を依頼した。

「あのー、すみません、沖縄美ら海水族館まで旅行を考えております」
「はい、では山崎さまのご希望をお聞かせください」
「あのー、電話ではお伝えきれないので、FAXでいいですか?」
「え?・・・・はい、どうぞどうぞ」

FAXには、
人数・年齢・5人1部屋・朝食夕食の要否・水族館が主であること、
A4に2ページびっしり希望を書いて、送った。

折り返し、TELが入り、
「山崎さま、FAXいただきました、細かい希望がお有りのようなので、
しっかりとお調べして、明日になりますが、お返事いたします」

約束通り、翌日の夕方、
航空券・宿泊先・レンタカーやタクシーなど、
こちらの希望を含めた旅行プランをFAXで返ってきた。

飛行機の空席状況などを確認するため、仮に3月26〜28日の予定としたが、
この時点では、実施決定ではないので、ツアーデスクにも、
無駄な仕事をさせる場合もある、と伝えてあった。

受け取ったツアープランを元に、
しばらくは、実現性の検討と、現地の様子や
「実際のところ、美ら海水族館ってどうよ?」
って話をネットからかき集める。

気候や移動距離、混み具合、費用、体力、業務などなど、
膨大な事実関係から、うちの一家にあった旅程を考えていった。

数日後、ツアーデスクから、「その後は?」と、電話をもらい、
「今回いただいた、3月26日出発はむずかしく、
4月に入って、もしくは、夏休みシーズンにでも、
また、取り組みさせてください」
と、3月出発案をお断りをした。

断念というワケではないが、ひとまず無かった事と考え、
日常の生活の中で、時折、旅行計画の詳細について疑問点を埋めていく。

例えば、
・自動車道と国道58号線、どちらが移動が早いか?楽しい事があるのか?
・道路渋滞時の逃げ道はあるのか?
・沖縄の歴史や名護市の位置はどう?
・ホテル内で、どういう生活になるのか?
などなど

3月に入って、そろそろ決断の時期。
※航空券の早割の日数期限がある

今年2008年春は、
・真凪の、大分市立西の台小学校 新入学
・紗代実の、やまばと幼稚園 新入園
が控えており、その準備や体調作りなども、考慮せねばならず。

そこで、土日を避ける事や、春休みのその他の日程も考慮し、
2008年4月2〜4日 2泊3日の旅程に決定した。

3月12日、さっそく、前回プランを立ててくれたツアーデスク担当者に
再度連絡を入れ、4月2日に実施であることに加え、
前回提案してもらったプランにこちらの希望修正をしてもらい、
最終のツアープランを、再度、確定した。

ツアーデスクの担当範囲は、
・福岡<=>那覇 飛行機予約&チケット
・現地レンタカー 予約&クーポン
・宿泊(カヌチャベイリゾート) 予約&クーポン
これらの費用、291,878円

3月16日、正式に発注して、
2日後、18日午前中、航空券やクーポンが配達証明で、届く。

子供らに計画公開

いよいよ、3月18日夜、子供たちに沖縄美ら海水族館旅行を発表する。

しかし、ただ「行くよ」というのは、ナニなので、
我が家装備のアンパンマンクレーンゲームを用いた。

カプセルに、
「沖縄美ら海水族館」と書いた当たり券をいれて、

「当たり券が入ったカプセルを取ろう」とだけ言って、
それ以上の説明せず、3人のお嬢さんたちに挑んでもらう。

一人、6枚のコイン(6回チャンス)が与えられた。

当たりカプセルは5個、ハズレは1つ「コイン2枚追加券」があった。

最初に引き当てたのは、次女真凪
カプセルをあけて、折り畳んであった紙を広げると、
青い「美ら海水族館のホームページロゴ」の紙がでてきた。

「うわー!」
と、叫んだのは真凪ではなく、
まだ1つも取れていない、長女詩音だった。

その「うわー!」は、自分が当たって無くて、おいて行かれる事への叫びだ。

しばらく、大騒ぎのなか、3人とも、アタリを引き当て、
この当たり券の詳細について、パパから発表する。

「えー、春休み、みんなで、沖縄美ら海水族館に行きます」

その日から、おねえちゃん二人は、美ら海水族館一色の
待ち遠しい生活となる。

なお、三女紗代実は、先日パパと行ったばかりの、
東京タワーとしながわ水族館の区別があやしくて、
また東京タワーに行くと感じていた時期もあったようだ。

※あとで聞いた話だが、この当たり券、入場時に必要だとおもい、
詩音・真凪は、自分の財布に入れて現地まで大切に持って行ってたそうだ。
確かに「この当たり券を無くした人は連れて行きません」と私は言った。

雅治&紗代実の「東京日帰り小旅行」

旅行準備

衝撃の発表の日から、指折り数える中で、準備を進めた。

3月20日、イオングループ、パークプレイスにて、5%offの日、
旅行用のスーツケースを購入、75サイズで、1万円弱。

3月30日、
私は、旅行中の様子を記録するコンパクトデジカメを
購入するつもりで、市内のヤマダ電機に赴いた。

事前に、ネットで下調べはしたものの、
実際、店頭には多数の機種が並べられており、
大いに悩んだ。

欲しかった、IXYデジタルの新機種は、
この日には、まだ発売されておらず、
旧機種を買うのか、大いに悩んだ。

店員さんが、いろいろと説明をしてくれて、
「当店のお勧め」を、見せてくれた。

自動的に、露出の違う数枚を瞬時に撮ってくれるとか、
笑顔キャッチとか、あれこれ便利?機能が山盛りになっている機種ばかり。

あー、悩むなー。

しばらく、多くの商品を手にしながら考え、

結論として、きっぱり、買わないことにした。

3万円程度が、もったいないと感じた。

このちょっとした積み重ねが、総費用に影響するだろうと考えた。

さて、出発前夜、4月1日深夜から、現地の気象状況などを確認し、
再度、道路マップなど、下調べ資料集に追加した。

出発当日、朝

そして、4月2日 6:00
皆、それぞれ起き出して、出発の準備を進める。

家を出る直前まで、あれこれあわただしいが、
車に乗り込み出発したら、もう、後戻りはなし!

まずは、大分自動車道をつかって、大分IC(7:55)=>福岡太宰府IC(9:03)まで、
途中、SAに寄り道もせず、一気に走る。

福岡都市高速に入り、
そのまま、一気に福岡空港国内線ターミナルに乗り付ける。

4人と荷物を降ろして、
私は、車を民間駐車場に預けるため、単独行動。

駐車料金 2泊3日で、2400円

民間駐車場はたくさんあるけど、一番、近い所が、ここだった。

他の民間駐車場は、離れている所だと、送迎ワゴンがあるんだが、
帰り着いたとき、大荷物と子供を抱えて、違う車に乗り換えなんて、
ちと、メンドウだなー、っておもって、帰着時、私だけ車を取りに行き、
皆で乗り込んだら、家まで乗り換え無しで、OKなのが、今回のポイント。

空港から搭乗・飛行

SN340343

私が、もどって来て、再度、5人、あつまったところで、記念写真。

いよいよか、どうなることやら。

実は、私、極度の下痢だった。

別に感染症ではないんだろうけど、ときどき、ひどい下痢がある。

さすがに、旅行中止の空気ではないし、なんとかなるだろう、って

空港のドラッグストアで、下痢止めを購入。
まあ、それでピタリとおさまった。

福岡空港のショップに、以前から気に掛けていた、
北海道土産の「まりもっこり」があって、購入を迷った。

今から沖縄に行くわけだし、北海道土産を、福岡で買うか?

まあ、帰りにまた考えるか、とそのまま。

3Fフードコートで、しばらく時間つぶし。

出発まで、時間の余裕もあるが、早めにチェックゲートを通過して、
搭乗口前のシートで、待つことに。

おじょうさんたちは、すでに、ヒマヒマで、折り紙開始。

私は、なんどもトイレ。

本日の飛行機、JAL3607便
中型の機体なので、3席2列。

三女紗代実は無料扱いで、母の付属品?として搭乗する。
つまり、5人に4席。

ツアーデスクの配慮で、
3席シートの窓側2席の前後を予約されており、
もし、隣に誰も座らなければ、一番下のお子さんも、
通路側空席を使って、ゆっくり座ってとの事であった。

しかし、搭乗機は満席だったので、どなたかが隣に座る。

エコノミーにぎちぎちが、キライな私。
ずっと我慢の90分だった。

クラスJ、にすべきだったか?

当然、窓際のおじょうちゃんたちは、
トイレに立つし、そのたび、お隣さんに立ってもらう。

ああ、気をつかうの、ヤダよー。

約90分程度の飛行。

着陸降下開始のアナウンスがあったが、空港の順番待ちでしばらく降りられず、
当初予定より、30分ほど、予定ずれこみが、確定、うう。

那覇空港着

空港に入り、手荷物を待つが、貨物コンテナが遅れているらしく、
ここでも15分ほど、ただなにもなく、待ち。

荷物を待つ間、美ら海水族館の水槽看板を見学の3人

「ああ、またずれ込む・・・」

私が気にしていたのは、
このまま、夕方の美ら海水族館に入館したかったのだ。

それも、17時のジンベエザメの餌付けを見たかった。

空港から美ら海水族館まで、推定100キロ
公式には、自動車で3時間となっている。

土地勘のある大分で、さらに自分の車であれば、
距離だけで所用時間の推測ができるが、ここは異国の地。

時間が下がることに、ヤキモキしながら、ようやく手荷物がでてきた。

レンタカーの誤算

さて、次はレンタカーの手配。

予約済みなので、お迎えバスに乗るだけだ。

大分空港のレンタカー手続きの様子から想像していた私、
2組くらい別の客がいて、それらと同乗で配車場にいくんだろう、
なんて、勝手な想像をしていた。

が、お迎えバスの乗車場をみて、驚く。

1000人近くが、待っている。

何十ものレンタカー屋の送迎バスが、錯交して、
その目的の送迎バスを待つ人の列が、大混雑。

そして、その乗降場は、はば150mくらいあろう中央分離帯にあり、
お迎えの一般車両や大型バスが行き交う道路の向こう側だ。

渡らねばならないけど、両端にしか、横断歩道はなく、
その中央にいた私たちはぐるりとどちらかに歩くことになった。
ああ、目の前に、日産レンタカーの旗があるのに。

細かな時間のロスを積み重ねながら、
レンタカーバスの受付で「予約の山崎様」を確認してもらい、
事務手続き上のミスは無くて、少し落ち着く。

日産レンタカー送迎バス乗り場のおにいさん

その後、雑多なマイクロバスに乗せられて、

空港から離れた場所にある、日産レンタカー那覇空港営業所へ

沖縄観光はレンタカーが主な手段であると、知らなかった。

那覇市を離れると公共交通の便が悪い沖縄の観光は、レンタカーが当たり前(らしい)。

那覇市内だけなら、モノレールやバスでもなんとかなるが、
美ら海水族館がある海洋博公園は、沖縄本島の中部であり、
公共交通機関も運行数が少なく、観光目的には自由度に欠ける。
タクシーだと、1日3万円くらいだとか。

旅行計画中、ツアーデスクに、「慣れない土地なので移動はタクシー」でと言ったが
あまりに高額になるので、レンタカーを薦められた。

日産レンタカー3日間で、35,070円+チャイルドシート1050円
「日産セレナ」

 

手続きをまつ3人

 

今回、日産セレナを使用

 

お世話してくれた、レンタカー配車のおねえさん

いよいよ沖縄の地を走る

車に乗り込み、県道331号線を走り出す。

最初の目的地は、沖縄自動車道終点の先、国道58号線道の駅「許田」
ここに、美ら海水族館の割引販売があり、割引率が高いという情報があったためだ。

渋滞もなく、お天気も良くて、気温22度くらい、
大分に比べ「ちょい暖か」というくらいかな。

沖縄自動車道に乗るべく、県道に沿って進む。

途中、曲がり損ねて、迂回したが、
空港道路=>沖縄自動車道と接続し、
なんとか無事に予定のコースで安定走行開始。

沖縄自動車道 西原ジャンクション通過、14:45

沖縄の町並みは、台風対策の歴史もあって、風を流すスリットが多く、
小さな箱を積み上げたようなモノが多く目に付く。

那覇の町並みを過ぎれば、ミドリの多い自動車道を北上。

時間が下がったので、予定していた中城PA(なかぐすく)には立ち寄らず走行継続。

走行している、約半数が、レンタカー(わナンバー)だ。

しばらくすると、嘉手納基地を左に、そして太平洋が右に開けてくる。

この辺りまで来ると、走行台数も少なくなってきて、
前後、自分たちだけというタイミングも、けっこう有った。

大分自動車道、宮河内IC・臼杵ICの間みたいだ。

15:00、
沖縄自動車道、唯一のサービスエリア、伊芸SA(いげい)に立ち寄る。

沖縄っぽさアリアリのSA

ここで、美ら海水族館の入場券が、割引で売っていた。
通常1800円=>1620円

事前情報では、自動車道をでて、国道58号線に入ったところにある道の駅に、
ここにしかない、美ら海水族館の割引チケットがあるとの情報だったが、
実際は、コンビニや、ちょっとしたショップにも割引券は置いてあるようだ。

ご一行様は、このSAで、トイレやお菓子など買い物をして、再び、走行を開始。

伊芸SAは、沖縄自動車道57キロ中、37キロ地点なので、
ほどなく、終点、許田IC(きょだ)に到着し、国道58号線に出る。

この時点で、15:28

自動車道走行時間は、約43分
もちろん、平均速度は、標識の指示を大きく上回っての所要時間である。

もしかすると、このまま順調にいけば、17時前に美ら海水族館に到着し、
念願の「ジンベエザメの餌付け」を見ることが可能になるかも知れない。

道の駅「許田」に近づいたが、先ほど伊芸SAで、割引入場券を購入済みなので、
時間のロスをしてまで立ち寄る必要もなく、パス。

名護市に入り、国道58号線沿いに、名護市役所など横目に走行する。

名護市役所庁舎には、大多数のシーサーが搭載されていた。

左に東シナ海を位置して、車は、国道58号から県道449号線へ

沿道には、琉球セメントの採石場があったり、沖縄独特の墓地が道にそって続いている。

沖縄海洋博記念公園

そして、県道449号線「浦崎の交差点」を左に曲がると、
沖縄記念公園、そして海洋博公園の敷地が続く。

第1駐車場・第2・第3と、通り過ぎた先、

右手に第6駐車場があるが、それを過ぎた所に、
第7駐車場と、美ら海水族館がある。

広い広い4階建ての第7立体駐車場(無料)に車を入れる。

気持ちは、あせるが、「走るな」と大声をあげながら、
広大な芝生の遊具公園の向こう側に、
目的地、「美ら海水族館」があった。

入り口にあった、マンタの模型と記念写真

館内のレイアウトは、同館のホームページをご覧ください。
「美ら海水族館」

この記念撮影のマンタの模型の後ろに、上から見える珊瑚のプールがあって、
実は、それは、館内3Fの熱帯水槽の上部だった。

4F構造の同館、入り口は、3F。

すでに、入場券は購入済みなので、そのまま駅の改札ゲートみたいなところを通過。
券をいれれば、シャッターが開いて通れるのだが、
無料対象者の真凪・紗代実が、ぞろぞろ付いて歩いても閉じることはない。

※JRや都営線の改札なら、どこかで見てるのか?と思うほど、
正確に「バシーン」と閉められるのに.....。

入館して、最初にあるのは、タッチプール。

多くの水族館のように、大型のタライにヒトデとウニくらいなものでなく、
ジオラマになっており、たいそう大きいプール。

「美ら海水族館」

SN340346

最初の水槽は、「サンゴの海」

その後、熱帯・サンゴ・珊瑚礁・貝類・甲殻類・シアターなどが続く。

各展示水槽も、キレイだが、今日は、パス

初日の目的は「ジンベエザメ」だと先を急ぐ。

目的は、「黒潮の海」水槽

世界最大の展示水槽のギネス認定証と私たち

SN340370
SN340370
SN340370

この巨大な水槽は、いろんな情報で、ご存じと思うが、
単一窓として、世界最大の、横22.5m × 縦8.2mは、さすがにでかい。

だが、正直な感想というと「まあ、こんなもんだろうな」って感じ。

ジンベエザメの餌付け

予定通り、17時から、「ジンベエザメの餌付け」が始まった。

プールの上部から、小エビ・オキアミなどを投入すると、

TVなどで、ご存じの通り、大きな身体をゆっくり動かし、近づいて、
「ゴボッ」と、吸い込む。

館内のアナウンスによると、ひと吸い100リッターらしい。

見所の、立ち泳ぎ食い

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「黒潮の海」は、ジンベエザメの他にも、マグロやサメ・エイ・クエなども、居る。

もう1つ、ここにしか居ないのが、「マンタ(オニイトマキエイ)」

口の前に、ミトン(手袋)をつけた手のようなものが、ひらひらとしている。

SN340350

この黒潮の海水槽の周囲に、
水槽を目の前に出来る座席を設けたレストランがある。
カフェ「オーシャンブルー」

私たちは、その1席を陣取って、軽く飲食しながら水槽を眺めて、
時折、レストランの外まで出て、大きな水槽を眺め、
また軽食のため席に戻り、と繰り返して、しばらくすごした。

レストランというが、フードコートのようなイメージ。
なので、入店退出という感じではなかったが....。

※今思えば、これは二度と出来ない体験だったかもしれない。

ジンベエザメのいる黒潮の海を満喫したので、
先ほど素通りした、いくつかの水槽に戻ってみた。

熱帯の水槽では、ウツボがひらひらと泳ぐ姿をみた。

伊勢エビの水槽には、体長1mくらいありそうな、
大きなモノが居た。

ハイビジョンシアターを通りがかったとき、
丁度良く、上映時間だったので、観覧する。

沖縄の歴史と海について15分程度の映像にしてあって、おもしろかった。

上映後の仕掛けも、びっくり。

館内の順路を守っていれば、
もうちっと感激度は上がったかな?

ジンベエザメもデカイけど、
オオメジロザメも、デカイのが居る。

「サメ博士の部屋」と言う、サメだけの展示室がある。

実際に捕獲されたホホジロザメの皮

1989年8月15日、場所:伊江島沖、性別:メス、全長:508cm、体重:1325kg

模型:古代ザメ(カルカロドン・メガロドン)の歯(体長16m)

SN340373

「サメ博士の部屋」をでて、通路を降り、
「黒潮の海」を左にいくと、

巨大水槽のアクリルパネルの見本がある。

世界最大の水槽は、アクリルパネルを何枚も接着剤で貼り合わせ、
厚さ60cmとなっている。

紗代実の大きさとくらべてみた

その先に「黒潮の海」の底部側面を見上げることができる「アクアルーム」がある。

この先は、深海と冷水系があって、終わり。

SN340408

最後にショップで、おみやげと自分用を、大量購入。

詩音は、事前に知った「ジンベエザメのクッション」を外さない。
なぜか、真凪も紗代実も、そして雅治も、手にした。

もう1つ大きなサイズもあったが、
今回購入のコイツがかわいい。

その他、アロハやTシャツ・文具、
定番のちんすこうや紅芋関係をごっそり購入。

ここのおみやげだけで、49,192円

翌日も来館の予定だったが、もし来館しない場合もあろうかと、
今日は今日で、必要なおみやげを完了した結果ではある。

大量のおみやげを抱えて退館すると、
初日(4/2)の美ら海水族館、外はもう暗くなっていた。

カヌチャベイリゾート

朝から、ずっと移動ばかりで、
館内も走り回った一同、最後の力を出して、駐車場まで歩く。

19:15、動きだしだ車が、公園内を出て、一般道を走る頃には、
3人のお嬢さんは静かになっていた。

海洋博公園を離れ、84号線・50号線・329号線・331号線と走って、
本日宿泊の「カヌチャベイリゾート」に向かう。

2000年沖縄サミットの際、各国の要人を受け入れたとか、
沖縄県最大級のリゾートホテルだとか、なかなか手の届かない所であるとか、
噂はいろいろあるんだけど。

私に言わせれば、ハワイもグアムも沖縄も、「佐賀関」という事で。

「カヌチャベイリゾート」

チェックインの手続き待ち

入室が20時だったので、施設内のステーキレストランで、今日の晩ご飯。

ドリンクについてきた、お花を飾っての二人

ステーキレストランなので、ステーキを頼む。

お約束?で、佐和子は「なのに、ロブスター」を注文。

紅芋フライドポテトは、おいしかったが、
ステーキについては、辛口評価の私どもなので.......。

それでも、お会計、22,117円

SN340400

レストランは宿泊棟の1Fだったので、そのまま歩いて、部屋に。

お部屋は、イーストタワー(8F建)の7F

パームエグゼクティブツイン

ツアーデスクの予約内容とちがって、無償アップグレードされていた。
金額で言うと、倍以上?

確かに、太平洋側に水平線を望める、いい部屋だ。

バルコニーにジェットバス・ジャグジーがあるということで、
女ども、夜の水遊びを、4人で楽しんだようだ。

でも、バルコニーのジャグジーって、外から丸見えだし、
ジャグジーって、露天風呂じゃないでしょうに?

お風呂も終わって、部屋着に着替えて、
興奮さめやらぬ一同、4ベッドなので、それぞれに別れ、

私は、モバイル一式で、到着メールの返事をだすなど、業務時間。

みな、静かになって、
私も、移動の任務に疲れて、酒も飲まず、寝てしまう。

イーストタワー(8F建)

二日目、4月3日

4月3日(予定)

06:00 起床

06:18 日の出

07:30 カヌチャ出発

08:30  美ら海水族館 着

12:00  美ら海水族館 撤収 下記3カ所のいずれかに行く?
・今帰仁村(なきじんそん)城跡
・不思議なジャングルやんばる亜熱帯園
・ナゴパイナップルパーク

13:30  カヌチャ到着
・プールなど、ホテルで過ごす

19:00 晩ご飯

6:00、携帯のアラームがなる。

気象庁の予報で、日の出が、6:18

それを、見ようと、待ちかまえたが、あいにくの雨。
つまり、曇り空。

なんとなくな起床となってしまい、ぐだぐだ。

7:00過ぎに、バイキング形式の朝食へ。

施設内は、ともかく広大なので、歩いて移動は不可能。

15分おきに、各施設間を結ぶ上下線のバスがあるので、
それで、飲食施設街に向かう。

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朝食会場のプールサイドにつながるイタリアンレストラン

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お嬢さん3人とも、食う食う。

7時に入ったから、すいていて、ゆっくりの朝食だったが、
帰り際、8時を過ぎたら、この朝食会場も長蛇の列。

30人ほど、テーブル待ちで、列を成していた。

そんなに、このリゾート内、客がいるんだ、と驚く。

プールデッキのお花のそばで

朝食後、バス待ちの二人

沖縄のあちこちで見かける巨大なゼンマイ(正式名「ヒカゲヘゴ」)

昨夜の到着時は見えなかったが、宿泊棟にも、シーサーがいた。

9時前、朝食後、しばらくは部屋で、ダラダラ。

予定では、8:30前に、美ら海水族館に入るはずだったが、
なんとなくな起床だったので、どうもエンジンかからず。

8:30到着は、その時刻から、団体客が入るため、
その前に水族館内に入らねば、身動きがとれない、という情報を、
事前に得ていたためだった。

しかし、昨夜、ほぼ貸し切り状態で、楽しんだ私たちは、
いまさら混んでいる場所に、また行くか?と、ちと疑問。

かといって、このリゾート内で、過ごすのもなんだか、イヤ。

やはり、予定通り、美ら海水族館に行くことにした。

9時過ぎ、さっさと身支度して、車に乗り込み、出発。

前夜、暗い中で走ってきた道路を、走る。

カヌチャリゾートがあるところは、
本当に、大分県の佐賀関の沿岸部のようなところで、
コンビニもないし、人通りもない。

集落部には、「共同売店」という謎のショップ?があるんだけど?!

※共同売店
現在沖縄本島の農山村地域と、離島の一部に存在し、
字(集落)ごとを単位に、字の全住民の出資によって運営されている商店
引用:沖縄と波照間の共同売店

今日の目的地は、美ら海水族館だけだから、
昨夜、水族館からホテルに移動した、そのままを逆に走る。

県道331号線・329号線を走って、
東シナ海側に出てくる。

その交差点の先に、ローソンがあったので、
車中のドリンクや、美ら海水族館の割引入場券を購入。

もう、沖縄の道路事情にもなれてきたので、カーナビのルート案内は未使用。

ローソンの前は、国道58号線。

シーサー一杯の名護市役所を過ぎて、そのまま58号線を走る。

郊外型ショップが林立する交差点を左に、昨夜も通った県道84号線に入る。

この県道84号線は、そば店が多いことで有名らしい、
「沖縄そば街道」と呼ばれている。

山間の道、人工植林が無い地域なので、左右の緑は、原生種が多いとか。

きいろい花を咲かせた、コガネノウゼンが目立つ。

2回目の美ら海水族館

11:00、
順調な走行で、一行は、海洋博公園に到着。

ところが、楽々の昨日とはちがって、

P1〜P7まである、駐車場、
すでに満車の看板が道沿いに並ぶ。

「あらら、もしや、混雑?」

昨日と同じ、P7に向かうと、車が数台並んでいるが、
動きがあるので、最後尾に並ぶ。

待つこともなく、ゆっくりだけど、無事、駐車場の3Fに留めた。

さて、2回目の、美ら海水族館。

この海洋博公園は、駐車場も、
イルカショーやマナティー館・ウミガメ館・イルカラグーン
すべて、無料。

水族館の館内に入らなければ、一切お金はいらないのである。
※公園内のシャトルバスや、飲食は有料ですよ。

水族館内は、昨日、貸し切り状態で楽しんだので、
2日目の今日は、主に、屋外施設・公園内を回る。

狙いは「イルカショー」。

実は、11:00のショー時間をねらって移動したのだけど、
入場者の車の流れなど、予測できなかった時間ロスが積み重なって、

イルカショーの会場には、10分遅れで到着。

1回のショーが、15分なので、途中から見るって状況でもなし。

じゃあ次回って、それは、2時間後、13:00開始、うう遠いなー。

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水族館をバックに。

この水族館にいる、イルカのフジ。

シッポを失って、泳げないところを、
人工のヒレをつけて、泳いでいます。

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人工のヒレ

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クジラのシッポの模型

さて、外回りも、すませ、12:30

イルカショーに向けて、早めに会場に座ったが、どうやら雨。
屋外なので、ベンチもびっしょり。

しばらくは、待ってみたけど、ひどくなるし、気温も下がるし。

あきらめて、館内に移動。

長いエスカレーターで、3Fの入り口を通って、入館して、びっくり。

昨日の、ゆったり感が、当たり前と思っていたら、
どの水槽に近づけないほどの人だかり。

そう、やはり人気の水族館って、まともに見られないんだ。

入場後、最初のサンゴの水槽がある場所で、作戦立て直しの、私たち。

偵察隊に、長女詩音が、ジンベエザメの居る、黒潮の水槽エリアを見に行った。

残りのメンバーは、まもなく始まる
「熱帯魚の海」での餌付けを待っていた。

程なく、迷うことなく、偵察にいった、詩音が戻ってきた。

彼女曰く
「あのね真ん中に砂糖をおいて、それの周りにアリがいるくらいだった」
と、たとえ話をしてくれた。

うーん、表現がどうかってことより、「昨日とは違う」って事だけはわかった。

留まるも行くも混雑なら、このまま「餌付け」を待つことに。

13:00から始まった熱帯魚の海の餌付け、とても面白かった。

1つの水槽にいろいろな生き物がいるけど、
確かに、どの生き物に共通する食べ物は無いわけだ。

草食・プランクトン・小動物・エビ・イカ・小魚など、
種によって大きさによって、エサも違う。

この水槽の餌付けは、その違いを順を追って投入することで、
種によるエサの違いを見事にわけて解説していた。

※私の水族館の師匠である、
故高松史郎氏(旧マリーンパレス元館長)の言葉通り、
「環境と生態は組み合わせ」というのを思い出した。

さて、いよいよ、黒潮の海に行ってみることにした。

昨日は、貸し切り状態だったが、
長女詩音のレポート通り、砂糖に群がるアリのようなのか?

たしかに、通路は身動きできない程だった。

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そして、昨日、余裕の出入りだった、水槽が見えるレストランも、
長蛇の列で空席待ちの人達が、ずっと連なっていた。

テーブルを陣取って、見て回るなんて、不可能。

館内の移動も、困難なので、私たちは、早々に退館を決定。

冷水系・深海系を、おさらいしながら、ショップに。

佐和子は、再度、おみやげの補充にショップに分け入る。
当然、ショップも、大混雑で、レジも長蛇の列。

わくわくアクアラボ

私と、お子様3人は、アクアラボと呼ばれる学習ブースに参加。

丁度、ジンベエザメの解説をしていた。

私にダッコされていた紗代実が、
「おなかすいた」という。

そりゃそうだろうな、と、思ったが、食べるものも持ってない。

「何食べたい?」と、聞くと、
「パン食べたい」と、おっしゃる。

ともかく、ここを出なければ、なんともならず。

ジンベエザメの解説を聞いていた、おねえちゃん二人の横に座る。

「ジンベエザメの歯と皮」を、カウンターにいる解説のおねえさんが、
次々と出してきた。

ジンベエザメの歯や皮に触れるため、カウンターに群がる、姉二人。

紗代実も、自分で駆け寄って、触っていた。

戻ってきて、私に言う。
「おねえさんに、パンありますか、って聞いて」

このカウンター、生き物の実験もあるようで、水道が付いている。
ちょっと見たところ、ファーストフードかドリンクカウンターに見える。

紗代実は、自分の空腹のあまり、フードショップに見えたのだろうか?
出発時、福岡空港のフードコートは、確かに、こんな感じで、
おねえさんが立っていて、水道があった。

「紗代実ちゃん、ごめんね、パンはないみたいよ」
「えー、たべたいー」

そんな事をいいながら、レジに並ぶ佐和子を待たず、
私らは、退館ロビーに出た。

全員そろって、外に出たら、もう14時を回っていた。

帰り際
切りかきがあったので、記念撮影。

公園内に、ミストがでる場所があって、そこに駆け込む3人

駐車場に戻り、ホテルに向けて出発。

車内では、お菓子を食べるだ、ジュースをこぼしただ、大騒ぎ。

私は、淡々と、車を進める。

さて、水族館だけでは、なんなので、もう1カ所くらいは、観光地へ。

ナゴパイナップルパーク

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結果、移動途中にある、ナゴパイナップルパークにいった。

「ナゴパイナップルパーク」

自動操縦のカートにのって、熱帯植物の解説が聞ける。

大分市佐野植物園のようなところを、この無人カートで走って、
車載のFMラジオから、解説が流れてくる。

約10分ほど走って、降ろされたら、同じようなコースを歩く。

その次は、なぜか貝類展示館。
これでもか、ってくらい、貝殻が分類されて展示してある。

パイナップルと貝との接点がわからないままだ。

その後、稼働してない、パイナップルワイン工場と缶詰工場を抜けて、
おみやげコーナーへ、強制的に順路となる。

パイナップルに関連した、おみやげがズラリと並ぶ。

運転があるので、パイナップルワインは飲めないが、ジュースはおいしい。
シークヮーサーは、苦い。

そこを過ぎると、第2おみやげコーナー。

その前に、「パイナップル食べ放題」がある。

確かに、食べ放題だ。

しかし、時折、施設のオヤジが
「あまり食べ過ぎると、酸で口が痛くなるから、食べ過ぎないように」
と、食べ放題を制止に動く。

第2おみやげコーナーは、沖縄全般商品。

なので、首里城やら、泡盛やら、満載。

お嬢さんたちは、ムームーを購入。

外に出て、車を走らせたら、もう16時を過ぎていた。

2日目の行動を終えて、ホテルに戻ってきた。

このリゾート内は、自分の車で、施設内は、原則移動禁止。

なので、外から帰ってきたら、共同駐車場に車を停めて、
フロントから出発するバスで、部屋に移動する。

昨日から、今朝にかけて、リゾート内の移動に、
バスでは、あまりに不便だと、私らもカートを借りた。

通常24時間、5000円だが、宿泊特典で、2500円

ゴルフ場にある、アレだ。

ひとまず、一度、部屋に戻り、夕食に出かける。

今日は、沖縄料理を堪能しようと、
リゾート施設内の、沖縄居酒屋にきた。

沖縄そば・ソーキそば・フーチャンプルーなどなど、楽しんだ。

お会計、8,891円

さて、女どもは、このリゾートで、プール利用を計画していた。

部屋に戻り、水着あれこれを用意して、大騒ぎで出て行った。

私は、部屋に残り、シャワーして、マッサージを呼ぶのに内線を鳴らす。

ずっと話し中で、1時間くらいして、ようやくつながった。

しかし、「本日、予約で一杯です」って、そりゃそうだろうな。

朝食会場が、あんなに混雑するんだから、ムリだろう。

沖縄オリオンビールを飲みながら、一眠り。

プールご一行様は、帰ってきて、シャワーして、
小腹が空いたのか、お菓子やら、アイスクリームやら、食べる。

皆、寝付いたので、ルームサービスで、シャンパンとサンドイッチをオーダー。

30分ほどで、届く。

お会計、8,875円

佐和子とお疲れ様乾杯して、私は、メールチェックなど、業務に。

みなが、寝静まった部屋で、シャンパンを頂きながら、眠りについた。

3日目、4月4日

4月4日(予定)

10:00  カヌチャリゾート 出発

11:00  沖縄自動車道 許田IC通過

11:20  沖縄自動車道 伊芸SA立ち寄り
12:00 沖縄自動車道 中城PA立ち寄り

12:30 日産レンタカー 返却

13:00 日産レンタカー送迎バスで空港へ

13:10 チェックイン・買い物などなど

14:10 ANA486便 那覇空港発

15:45 福岡空港着

16:15  荷物受け取り後・ロビーに集合

16:30  車取りに駐車場へ(雅治単独)

16:45 全員乗車 大分へ

18:45 上春日着

夜明け前、紗代実が調子悪く、ベッドに嘔吐した。

寝る前に食べた、アイスクリームが、おなかに悪かったのか。

グズリはせず、眠ってしまったので、そのまま様子見にする。

夜が明けて、お姉ちゃん達も起きてきた。

なんどか、空腹のまま、嘔吐する紗代実。

朝食の時間だが、紗代実はムリみたい。

パパ・紗代実は部屋に残り、
佐和子・詩音・真凪が、昨日と同じ、朝食バイキングに。

紗代実は、気分悪そうだが、眠いのが勝り、寝ていた。

SN340409

沖縄の地方紙「沖縄タイムス」

私も、添い寝の合間に、新聞に目を通す。

丁度、沖縄尚学が、春の選抜高校野球で決勝に残った日だ。

その沖縄タイムスの中で、お悔やみの欄がすごい

子・兄弟・孫・ひ孫・区長さんまで、名を連ねる。

朝食チームが帰ってきた。

どうも、紗代実の回復が見えないので、フロントに連絡し、
医務室はないか、問い合わせ。

医療部署は無いが、近くの診療所へ案内するという。

丁重な扱いだな、と、思った。

そうか、施設内が原因の嘔吐であるなら、大問題。

リゾート側も、原因には気を遣うのだろう。

すぐに、フロントから、お迎えがきて、佐和子と紗代実が診療所に向かった。

(株)カヌチャベイリゾート さま

久志診療所(くししんりょうじょ)

ここの医者の娘さんが、大分県に嫁いだと、
大分から来た私たちに親近感を感じて頂いた。

原因は不明だが、対処薬をもらって、帰ってきた。

点滴も可能だったが、帰りの飛行機の時間もあるので、
ひとまず、大分に戻ることを優先にした。
※良い判断だったのだろうか?

荷物をまとめ、大量のおみやげも別送することなく、出発準備ができた。

借りたカートがある間に、荷物をレンタカーに運ぶことにした。

出発前に、まとめた荷物を、レンタカーに運び込む。

紗代実の体調も気になるが、ここのリゾートの内容も見ておこうと、
海岸線まで、行ってみた。

天候や時間の都合がいろいろあって、いけなかったビーチ

部屋に戻り、全員でフロントへ。

借りたカートを返却し、滞在中にツケで買った支払いを済ませて、
カヌチャリゾートを後にする。

ともかく、那覇空港へ移動する。

自動車道を走り、那覇空港へ、女4人を降ろして、
私は、レンタカーの返却手続きに行く。

返却は、ガソリン満タンだけで、
傷のチェックとか、なにもなく、
空港行き送迎バスに乗り込んだ。

空港について、みなと合流すると、紗代実はかなり悪い。

飛行機の状況を見ると、また満席。

紗代実の嘔吐が続くようなら、何度かトイレに駆け込んだり、
衣服の着替えなどで、周囲にご迷惑をおかけするかも知れず。

発券カウンターに行き、プレミアムーシートの空き状況を聞く。

「子供が調子悪くて」と事情を話す。

せめて、1席と、思っていたら、4席確保できるとのこと。

「では、全員、プレミアムーシートにアップグレードで」
と、変更を告げる。

お金の問題ではないけど、びっくり。

「では、お一人、7,000円の追加になります」

てことは、4席で、28,000円?

まあ、しょうがないか。

優先搭乗で、手荷物も最初に出てくるし。
広めのシートで、紗代実ダッコでも、大丈夫だし。

手荷物を預け、Priorityシールを貼られる。

沖縄離れる直前の、おねえちゃんたち

出発まで、そう時間も無いが、そば屋で、食事をして、

私と紗代実は、搭乗口に移動し、休むことに、
佐和子・詩音・真凪は、最後のおみやげ物色。

紗代実をだっこしたまま、ぼんやり搭乗案内を見ていたら、

ANH486 14:10 出発遅れ
と、あった、私たちが乗る機体だ。

あれ?

フライトは、14:30と思っていた、私。

気がつけば、14時過ぎ、佐和子達に、ウソ言ってしまった。

すると、14:30は、間違いと気づいて、
おみやげ隊は早めに移動していた。

さらに搭乗口も、35番から33番に変更されていた。

飛行機も、到着が遅れて、折り返しの出発が、15分遅れ。

5人そろったところで、33番搭乗口に行くと、
乗り込み客が並んでいた。

たくさんの人が並んでいる中をかき分けて、
プレミアムーシート優先搭乗で、一足先に機内へ。

機内は、大きいシートで4席確保。

紗代実は、私に抱きかかえられたまま。

アップグレード時、子供が調子悪いと、言っていたので、
キャビンアテンダントさんが、様子を見に来た。

「なにか必要なモノがあれば、言ってください」
「はい、いまのところ、落ち着いています」
「隣の席は、未使用ですから、お子様にお使いいただいてもいいですよ」
「上空で安定したら、考えます」

空港カウンターから、山崎様の状況が連絡がいってた様ですな。

那覇空港は、混雑していて、しばらく機体は停止したまま。

紗代実が、少しでも横になれるように、クッションやブランケットをつかって、
私のヒザと、ヒジ置きの上に横になる。

10分遅れくらいで、動き出した。

離着陸のGが好きな紗代実が、気がつくこともなく、機体は飛び立った。

上空で水平飛行になると、機内食サービスが始まる。

出発前、空港で、ざるそばを食べた一行、
空腹ではないけど、始めて体験のお姉ちゃん達は、トライ。

実物と若干違うけど、サンド・ケーキ・フルーツのBoxだった

ごそごそやっていると、紗代実が目を覚ました。

すると、機内食のツナサンドを食べたいという。

食欲があるのなら、「良いこと」だと思い、食べさせた。
※イケナイ事だった。

1カットと半分くらいを食べ、お茶を飲んで、また眠りについた。

「食欲があるのなら回復してきたのかな」
なんて、安易に思っていた。

隣に座る詩音と、食事を済ませ、片付けをする。

紗代実の体制を整えるのに、少しクッションを動かした。

すると、「ごほん・げほん」と、咳き込んだ。
その拍子に、先ほど食べたモノとお茶を、一気に吐き戻す。

タオルと、私のシャツで、首元を支えていたので、
それに出して、落ち着き、また眠った。

髪がすこし汚れてしまったが、まあ仕方ない。

消化も何もしていないのが、そのまま出てきたから、
臭いもせず、周囲の方にご迷惑をおかけすることは無かった。

ただ、早く着けと、あまり機内を楽しむこともなく、ヤキモキの約90分

全日本空輸株式会社 さま

無事に、福岡空港へ着陸

プライオリティーバゲージで、最初に手荷物が出てきた。

これから大分まで走るので、みなトイレに行く。

私は、4人を残して、民間駐車場に車を取りに行く。

駐車料金、2400円を払って、4人の待つ到着口16番ポイントへ。

丁度、他の車が居なかったので、車を寄せて、皆を呼ぶ。

この待ち時間にも、また紗代実は吐き戻したようだ。

スーツケースと、大量のちんすこう、そしてジンベエザメのクッションを
車のトランクに詰め込んで、紗代実は佐和子がダッコで出発。

いつのまにか、自分の車の前に、BMW7シリーズが停車しており、
一見、その筋の方々が立っていた。

そうだ、以前、福岡空港でタクシーの運ちゃんに、
「17番は、ヤクザ屋さんたちの専用なので近づくなよ」
って、言われた事があったが、忘れていた。

お偉いさんのお迎えに来ていたのかな。

5人、そろったところで、車は大分に向けて走り出す。

16:57 太宰府ICを通過

ともかく、走る走る、走る走る。

紗代実の主治医である、大分健生病院小児科 酒井誠先生に診察を依頼するため、

大分市古ヶ鶴へ、ひた走る。

大分健生病院小児科

18:13 大分米良ICを出る。

米良有料道路を経て、19時前、大分健生病院小児科に到着。

夜間診療だが、4月4日は、金曜日で、酒井先生が当番だ。

事情を簡単に話をして、
佐和子も詩音も調子が悪いと、3人が診察室に入る。

私と真凪は、待合室で、待つ。

沖縄のホテルで、ルームキーを勝手に操作したことについて、
真凪を諭す、彼女は悪いと思っていたようで、号泣....。

時間もかかるようなので、真凪は「牛乳屋さんのコーヒー」を購入。

そういえば、2005年10月24日の事

前夜から真凪は調子悪くて、あまり食べて無く、
朝、起きても、フニャフニャ。

幼稚園に行けるようではないので、
早朝から、私と真凪は、大分健生病院小児科に。

すると、脱水症状だと言われ、そのまま点滴開始。

尿検査を続け、数値回復を待つ事になったが、
10時間ほど、かかって、ようやく解放された。

当然、真凪は、幼稚園はお休みで、私と二人で、
朝からずっと、病院で過ごしたことがある。

そんな事もあったねー、と、真凪と二人で、診察結果を待つ。

紗代実入院

しばらくして、佐和子・詩音は、特別な処置はないが、
紗代実は、やはり点滴が必要だった。

しっかりと、ダッコする必要があるので、私にダッコを交代。

紗代実は、会話できる程度ではあるが、ぐったり。

処置室で、採血と点滴の留置針を構成する。
ちいさな手に、針が刺さる。

静脈も細いだろうに、言われたとおり、しっかりと拳を握って我慢する。

試験管2本程度の採血後、500mlパックにブドウ糖やら
吐き気止めを加え、点滴開始。

500mlだと、5時間かなー、なんて思って、
「今夜中には帰れるか」と、安易な想像をしていた。

小児科の夜間診療が終わり、一般夜間外来の方へ、移動する。

だれも居ない処置室奥のベッドで、紗代実と二人で、
ただ時間が過ぎるのを待つ。

しばらくして、酒井先生が所見説明に来た。

「嘔吐の原因は不明ですが、脱水症状が重いです、
松竹梅でいうと、一番悪いという位、
このまま点滴を続け、尿検査を繰り返し、
数値が回復するのを待ちましょう」

先生の「松竹梅」の話のオチを探しながら、

「先生、どのくらいで、先が見えますか?」
「うーん、それは本人次第なんですが、
今日は、このままで、明日にはなんとか判るでしょう」

「てことは?」
「今夜は泊まってもらいますので、入院手続きをしています」

なんてこったい!!、紗代実は緊急入院するほど、悪かったのか?

諸手続を済ませ、佐和子とお姉ちゃん達が、紗代実の所にきた。

いずれにしても、全員で、ここに居るわけにもいかず、
私が紗代実と病院に残り、他は、旅行の後始末に、帰宅した。

しばらくして、看護師さんが、病室に案内してくれた。

原因がはっきりしてない段階での入院なので、
他の患者への感染を懸念し、個室になった。

入り口には「面会謝絶」と貼られる。

簡易トイレが持ち込まれ、
「おしっこが出たら取ってください」
と、プラカップを10個ほど、渡される。

SN340402

入院直後、不安で一杯の紗代実

なんせ、初めての小児入院

大分健生病院では、小児入院は、完全付き添いが基本。
当然ではあろうけど、医療行為以外のお世話はなくて、
それらを任務する付き添いが、誰か24時間居なくてはならない。

ひとまず、お父さん用の布団も貸し出してくれて、
入院に必要なものを書いた資料をもらった。

ブドウ糖注入で、すこし元気が出てきた紗代実、
今度は、ヒマとの戦い。

TVは、あるが、プリペイドカードが必要。
なんども、部屋を出入りして、そういうものを集めてくるところから始まった。

途中、酒井先生が、様子を見に来た。

先生の問いかけに、答える紗代実の様子に、少し安心していたようだ。

先生は、しきりに、おなかに触診する。

「おなかがなにか?」と、私が聞くと。

「消化器系の機能停止」について簡単に話をしてくれた。

脱水症状が起こると、いろんな弊害が全身に出てくるが、
子供に多いのが、消化器系の機能停止というのがあるとのこと。

後日、私なりに調べた事をまとめると、
嘔吐下痢による脱水症状の場合、胃の中が空になってしまう。

そうすると、口から水や食べ物を受け付けなくなり、
さらに増してに、水分がとれなくなってしまう。

その結果、不思議なことに、
「拒否反応で受け付けられない」はずなのに、
食べ物や飲み物が入ってこない事に準じて、

消化器官の機能を、自ら停止してしまう。

そうすると、分泌液も停止し、伸縮運動も停止する。
やがて、臓器自体が石灰化して、固まってしまうとのこと。

そうすると、死に至る。

小児用点滴針が、開発されたのは最近、
それまで、小児脱水は、死ぬ事が当然の時代もあった。

また、石灰化が始まるような状況で、助かったとしても、
小腸の絨毛が、退化して短くなって、栄養を取れなくなる事もある。

その時の酒井先生の話では、
「紗代実ちゃんのおなかは固くなってないけど、止まっています」
ということだった。

いまになって、酒井先生の言った
「松竹梅でいうと、一番悪いという位」
との表現に、悪化の程度が感じられる。

また、調べた中で、小児脱水の対処は、
乳児用イオン飲料が必要だということ

アクエリアスやポカリは、大人に合わせて作られており、
小児の電解質成分のバランスでは無いらしい。

未発達な肝臓・腎臓では、失われる電解質が多く、
乳児用イオン飲料は、そこを強化している。

そして、脱水症状の子供に、自分でゴクゴク飲ませてはいけない。

なぜ、点滴が、60ml/hなのか、理由があるのだ。

いまになって「大変恐ろしい状況」だったと感じる。

沖縄の診療所で、診察を受けた時、
帰りの移動を中止し、点滴を受けるべきだったのではないか?

そんな判断も、有事の際は、許せなくなったであろう。

私の主義である「予定通り」に事を進め、
紗代実に二度と笑顔が戻らない事になったら、と思うと、
自分の主義に疑問と恐怖を抱く。

宛のない時間を、ただ待つ。

紗代実は、折り紙をすると言うので、出す。

いつも、何となくだが、折り込んだブツを作ってくれる。

しかし、今日は、うまく折れないようで、イラついている。

そう、左手を点滴されているからだ。
動かないように、添え木を付けられ、指と共に包帯されている。

しばらくは器用に、添え木の端を指先のようにして、折っていたが、
どうも、思い通りにやれないので、「パパ、折って」と選手交代。

「なんだよ、オレが折ったら、暇つぶしの意味ないじゃないか」
「いいの、折って」

なので、鶴を折る。

その後、点滴が1本終わって、深夜。

旅行の片付けに一段落した佐和子が、交代にやってきた。
着替えなど、入院に必要なモノが、ようやくそろった。

交代で私は、上春日に戻る。

3日間、家を空けたのは、詩音の誕生以来、初めてではないだろうか。

業務関係・郵便物、その他、滞りを整理して、休んだ。

入院翌日、病院朝食に戸惑う紗代実

衝撃の緊急入院から翌日、4月5日 9時前
佐和子と交代で、私が付き添いに。

病院食がダメらしく、カレーワゴン薄辛を持って行く。

お昼前に、酒井先生が、診察に見えた。

「先生、泊まりですか?」
「いえいえ、寝坊して、いま来た所です」

酒井先生が、紗代実のおなかを聴診し、
触診して言った。

「ああ、動き出しましたね、もう大丈夫かな」

私は、安心した。

「朝ご飯どうでしたか?」
「ちょっと、ムリみたいでした」

「普段、いいもの食べてらっしゃるから?」
「またぁ、そんなことじゃないです」

「おとうさん、おなかが動くと、当然、空腹を感じます、
なにか食べたいというなら、なんでも食べさせてあげてください」
「はい、わかりました」

今日も、TVみて、ごろごろしてるだけかなー。

リクエストに応じて、鶴を折る。

ご機嫌もいいみたいなので、
「さよみちゃん、コーヒー牛乳飲む?」
みどりのラクトコーヒー90mlを持って行ってた。

飲む、と言うので、飲ませてみた。

なんと、一気に、飲みきってしまった。

「おなか、大丈夫?」

大丈夫と、うなずいた。

私は、紗代実が快方に向かっていることを実感し、うれしくなった。

やがて、お昼になって、病院食が、やってくる。

おかゆと、かぼちゃの煮物、刻み野菜のサラダ、なぞのゼリー

おかゆに、カレーを少しかけて、1/4くらい食べたけど、後はNG

リクエストに応じて、鶴を折る。

お昼から、おしっこの頻度も増えてきて、
そのたびに、ナースコールで検査をしてもらう。

改善に向かっているけど、数値の上下があるらしい。

15時くらい、
「何か食べたい?」と聞いた。

すると、「おっとっと食べたい」と、おっしゃる。

「えー、でも、無いよー」
「いやだ、いるー」

さて、どうしたものか.....。

病院の近所に、スーパーがあるのは、知っている。

でも、紗代実をひとりにして、いかがなものか?

「紗代実ちゃん、おっとっと買ってくるけど、ひとりで大丈夫?」
「大丈夫、おっとっと、いる」

そこまで言うなら、ちょっと駆け足で行ってくるか。

病院の前のスーパーに、買い物に走る。

そういえば、私、昨日の機内食以来、あまり食べてない。

自分用のレタス巻きなど、ざっざと買って、病室に戻った。

紗代実は、おとなしく、TVを見ながら、ベッドの上で、待っていた。

入院キットの中の、器に、おっとっと、1袋出して、食べ始めた。

病院内で購入した、イチゴオレも、どんどん進む。

16時過ぎ、おなかもふくれて、することもないので、寝てしまう。

私も、横で寝てしまう。

やがて、夕食の時間

同じく、おかゆだ。
焼き魚、温麺、フルーツ、プリン。

お昼と一緒で、カレーを少しかけて、ちっとだけ食べる。

18時過ぎ、酒井先生が来る。

尿検査の数値などから、ほぼ大丈夫かな、という所見。

めどを知りたい私は、
「先生、あのですね、大人の事情なんですが・・・・」
「はい?、ああ、なんでしょ?」

「私、飲食業してまして、明日の日曜日は営業日なんです、
で、入院が、まだ続くようなら、それはそれでかまわないんですが、
明日、休業にするなら、今夜の仕込みとか、ありまして、
それを無駄にするのもなんなので、明日までかかるのなら、
いろんなこと、ストップしようと思うんです」

しばらく、考えたあと、
「おしっこが、点滴量と同じくらいでているようなので、
ほぼ、合格というところです、
もう一日、様子を見るというのは、急変に対する対処を考えてまして、
ああ、でも、もう大丈夫かなー、帰った方がいいですか?」

「ええ、姉妹3人そろってないと、3人とも元気でないようで、
面会も出来ないので、お姉ちゃんたちも、キツイみたいです」

酒井先生は、紗代実の顔をじっと見つめて、
「よし、合格にしましょう、いまかかっている点滴が終わったら、
お帰りください、ナースセンターにそう言っておきます」
「ありがとうございます」

酒井先生は、合格にしてくれたが、私に不安があった。

まだ、うんちが出てない。

もちろん、ずっと食べてないから、固形物はでないだろうけど、
うんちが出て、はじめて、消化器系の合格では無かろうか?
と、そう思っていた。

とはいえ、帰れるとなれば、広げた荷物を整理しなくては。

点滴が終われば帰れる

「点滴が終われば帰れる」

それだけを気力に、紗代実と私は、したたり落ちるしずくを見つめていた。

あと30分くらいの時だった。

「パパー、うんち」
「ええ?、うんち出るの?」

大急ぎで、簡易トイレに座らせる。

すると、立派なのが出た。

紗代実の消化器は生死の境まで行っていた、
もしかすると二度と見ることが出来なかったかも知れない、うんち。

うんちをみて、二人で抱き合って喜んだ。

紗代実のおなかが、元気になった、物理的証拠。

さすがに記念に持って帰るとまでは、しなかったけど....。

病院側から、退院の手続きや、精算などを言われて、
病室やら受付やら、あちこち行って、
室内のゴミの整理などを、ばたばたとする。

荷物もまとめて、撤収準備完了!!

それから、点滴が終わるまで、
私と紗代実は、病院のベッドの上で、正座して、そのときを待つ。

20時過ぎ、
点滴ポンプの赤いランプが点灯、ナースコールを押す!

しばらくして、看護師さんがきて、点滴を外してくれる。

最後、針を抜く時、泣いてしまう紗代実。

ずっと、ずっと耐えてきたのが、一気に崩壊。

ようやく、入院生活から解放されて、1Fのロビーに立つ、私たち。

紗代実を、ロビーに残し、私は、タクシーを手配しに、病棟北側へ走る。

「ああ、すんません、退院なんで、玄関まで車回してください」

そういって、紗代実の待つロビーへ。

紗代実は、しっかりと立って待っていた。

「さあ、紗代実ちゃん、お家へ帰ろう」

全員帰宅

タクシーは、スムーズに、上春日へと走った。

家の前で、ママのお迎えを受け、
部屋に入ると、おねえちゃん二人と、感動の再会。

自分なりに、大きな事を成し遂げた紗代実は、
無言で笑顔のまま、部屋の奥に進んだ。

そして、全員が、帰宅し、沖縄旅行は、終了した。

To Be Continued…….. Thank you!!

雅治&紗代実の「東京日帰り小旅行」

我が家、恒例「満3歳直前東京旅行」

満3歳前日まで、交通機関や各施設入場料が無料だから
と、そんな理由で、詩音の時代からはじまったこの企画。

次女、真凪も、例外なく実施した。

つまりは、三女、紗代実も、当然実施することとなる。

この旅行の意味

私には、3人の姫について、人生を賭けた恒例ネタがあるが、

わかりやすい例で言うと、「同じ年齢時期に同じ場所で撮影する」手法がある。

これは、3人が約1歳半くらいの時に、大分市城址公園の特定の場所で撮影した3枚+1

6年ちかくかけて、実現した3人の比較写真である。

3人のそれぞれの個性は、すでにこの頃から出ていたのかな、
と、改めて、同時期の比較を実現し、感じるところである。

さて、さすがに東京日帰り小旅行も3回目ともなると、実施は当然という流れの中で、

「さて、いつにするよ?」という判断が必要だった。

三女、紗代実は、4月18日生まれなのだが、
この4月から、幼稚園に通園を始めるため、

長女・次女とちがって、「お気楽平日旅行」が、できないのである。

かといって、人混みが苦手は私は、土日は絶対に避けたい。
また、春休みシーズンも、避けたい。

結果、2008年3月10日、となった。

※実は、3月11日を予定し、航空券の手配まで済ませていたのだが、
目的地の1つである、しながわ水族館が、休館に当たり、急遽10日に繰り上げ実施。

さて、前日3月9日

これまた恒例により、緊急用携帯電話を紗代実に装着する練習。
詩音・真凪の時も、おなじ装備を持たせた。
※残念ながら、機種変により、同一機体ではない。

機体に「この子を保護した方は090-・・・へご連絡下さい」
と、これまた、恒例のシールが貼られているのだ。

結局、この作戦、これまでも、今回も実用されたことがなく、効果は不明のままである。

さて、3月10日、6時前に、紗代実は起こされた。

多少の身支度をして、ママ・ふたりのお姉ちゃんから、
盛大なお見送りを受けて、6:15タクシーにて、大分ホーバーへ。

紗代実は、着替えパンツなど、ご自慢の赤いテントウムシのリュックを持つ。

真凪と違い、「パパー、重たいからパパもって」とは、言わず。

「オシャレには負担は付きもの」と、捉えているのだろうか?

大分ホーバー

SN340297

6:30には、ホーバー基地に到着。

ホーバー乗船出発は、6:45なので、しばらく待機する。

紗代実の、トイレ対応や、乗船券購入で、多少館内うろうろ。

今日最初のタダ乗り、ホーバークラフト 大人2980円

SN340299

出港時刻が近づくにつれて、いつのまにか、待合室は混雑。

6:40、乗船開始。

1番に、船内に入り、「右舷窓側最前列」に治まる。

見送りが有る場合は、「左舷窓側」にするのだが、
今回は、他のご家族にお譲りする。

約100名の定員、ほぼ満席

最前列は、運転席ワイパーがあり、運航中も外が見渡せるため、いつも最前列に座る。

出港し、海に入った時、右側の緑地帯から、
大量の鳥が、ホーバーの音によって、飛び上がり、空を覆った。

そして、出港間もなく、ホーバー基地から、運転席に無線連絡が。

私たちは、最前列に居たので、聞こえた。

「駐車場にライトが付いたままの車があります、
大分・・・・のボルボ、船内にいれば、
鍵を預かって、戻ってきてください、
その際、キーは事務所で預かりますので、
お客さんの帰りの予定を聞いておいてください」

そんな話だ。

さっそく、航海長?が、船内放送で
「大分・・・・のボルボを駐車場にお停めになったお客様いらっしゃいますか?」
と、問いかけると、該当者がいたようだ。

しばらくして、航海長は、キーをもって戻ってきたので、
予定通りの交渉となったのだろう。

なんだか、人間味あふれる対応だなー、なんて感心した、
でも、ホーバーも、船だとするなら、アリかな?

船乗りはそうなのかしら?

四国行きのフェリーに間に合わなかったが、
事務所に泣きついたら、出港済みを戻ってくれた、
なんて事を、友人から聞いたことがある。

私は、ほのぼのとしながら、そんな事を考えていた。

が、紗代実は、音楽も無くて、大きなエンジン音に恐怖を感じ
「こわいー」と、私の懐に潜り込んだまま。

波もなく、無事、大分空港ホーバー基地に到着。

真凪の時は、このホーバー基地ロビーに、亀がいたのだが、居なかった。

うーん、そりゃ、5年前の話か?

大分空港出発

私と紗代実、淡々と、動く歩道で、JALカウンターへ。

ネット予約済みのクレジットカードを、係に手渡し、
3歳未満の同伴者がいる事を告げ、手続きをしてもらう。

本日2番目の、タダ乗り、大分東京航空券(大人は30,000円)

二人分の搭乗券を受け取り、2Fの出発ロビーに向かい、まずチッコ。

真凪の時と一緒だ、
私もなれたもんで、さっさと抱えて、男性トイレ洋式に駆け込み
スルスル、ほい!、・・・、デタ、はい、ジャー、と....。

トイレ後、ゲームコーナーで、お金を使わず、見学だけして、移動。

フライトまで1時間あるので、ふたりで、朝食。
3Fのレストランで、和朝食を。

紗代実は、毎朝のバナナミルクが少なかったのか、
和朝食のごはんと、卵焼き、バク付き。

私は、焼き魚と昆布をいただく。

しばらく、ふたりで、朝食を取り、くつろぐ。

SN340301

レストランをでて、トイレを済ませ、時間があるので展望デッキへ。

先に出発する、ANA便を見送った。

2Fに降り、それぞれ搭乗券を持って、ボディーチェックに。

もちろん、ノープロブレム

すでに、機内への案内が始まっていたので、そのままゲートへ。

上り飛行機

SN340302

本日の搭乗機を後ろに記念撮影。

SN340014

機体は、B767、座席は42A 後方左窓側
富士山が見える側だが、むずかしそう。

ごそごぞ、写真とっていたら、
「携帯電話はお切りください」って怒られた。
電波OFFモードだったんだけど、まあ、こちらが悪い。

ダッコ前提の無料搭乗なので、建前上、ダッコして、出発を待つ。

月曜日なので、多めの機内ではあるが、
一人客は、一人で座れているみたいだった。

やがて、機体が動き、滑走路へ。

離陸の加速がはじまると、
「わー、飛んでる?、パパ、飛んでるの?」
「うん、ほら、外みて」

といっても、ちょっと、難しかったかな。

海上にいた船が、どんどん遠ざかっていくので、
少しは、速度感を得たみたい。

水平飛行に移り、機内サービスが始まってすぐに、お子様グッズが届く。

以前は、JALだと、ディズニーなのだけど、
経営再建中のJAL、おまけは、ファミレスのおまけっぽい。

なにやら、変身ロボ系のブロックを選ぶ、女の子でした。

隣の席は、空席だというので、紗代実をダッコから外して、
一人で座らせる。

機内サービスの準備で、行き来するCA

紗代実のもっていた、テントウムシのリュックに、CAが興味を示す。

「これ、機内でお買い上げになったんですか?」
「は、や、いえ、違う、と、思います」返答の怪しいお父様

「あ、そうですか、2月の機内販売で、こういうのがあったので」

しばし、CAと紗代実がお話をしていたが、
紗代実の髪のゴムにも、テントウムシだとCAが気がつく。

紗代実も、リュックもゴムも、テントウムシであることが、
今日のファッションポイントだったので、大喜び。

いやあ、オシャレには厳しい三女です。

アップルジュースをもらって、しばらくご機嫌な、紗代実。

結局、ちょっぴり、うとうとした程度で、眠ることなく、羽田に。

羽田空港到着

SN340305

現地は、大雨だった。

09:50、東京の人となった二人。

到着の一報を、ママにメール。

モノレール

本日3番目のタダ乗り、モノレール、大人470円

ホームに行くと、各駅と快速の、選択肢

快速まで、7分あったので、その間に、トイレだ!

と、個室にはいり、紗代実を座らせた。

ところが、「も、もれたー」と、おっしゃる。

見てみると、パンツの下げ方が足らず、パンツびしょ濡れ。

あっちゃー!!

これは、パパのミス、到着早々、これだ。

もちろん、換えを入れてもらっているので、さっと交換。

持ってきた、バナナミルクも、機内の温度で、劣化が懸念され、ここで処分。

ホームにもどると、所要時間、8分。

あー、快速、出てしまった。

パパの判断ミスで、快速を逃すし、パンツをダメにするし。

まあ、でも、紗代実は、怒ってないみたいなので、
次のモノレールを待って、乗り込む。

地下を走る間、外はまっくらなので、自分がなにをされているのか、
判らなかったようだが、天空橋駅を超えたら、外に出る。

「あー、飛行機のところやー」

しばらく、地上・地下と繰り返す。

SN340306

なんだか、表情が硬いので、

「紗代実ちゃん、怒っちょんの?」と、聞くと。
「ちがうの、ほっぺが赤いだけ」と、おっしゃる。

外向きの座席で、大きな窓の景色は、移り変わる。

途中、ボーリング場のピンを発見したり、
川を航行する貨物船に、大はしゃぎ。

10:30、JR浜松町駅に到着した。

東京タワー

世界貿易センタービル1Fのタクシー乗り場から、東京タワーへ。

滑走路は土砂降りだったのに、浜松町では、傘要らずの雨。

タワーに到着し、250m特別展望台付きチケットを購入。

お姉ちゃん二人と違い、起きたまま東京タワーに到着した。

だから、東京タワービル中2階トイレ前のベンチでは、寝てない紗代実だ。

さっそく、私たちふたりは展望台エレベーターに。

真凪の時は、夏休みだったので、大混雑だったが、
今日は、エレベータ、10人程度だった。

本日4番目の、タダ乗り、東京タワー展望台(大人は1,420円)

SN340307

150m、展望台窓際。

あまりおもしろくなかったかな、反応なし....。

SN340310

旧式100円の望遠鏡。

結局、盛り上がりにかけるまま、250m特別展望台に。

詩音の時と同じく、待ち無しであがれた、シラけた雰囲気の特別展望台だったが

上りエレベーターホールで、もめている、60代くらいの、ご夫婦。

「ここでもいやなのに、なんで、250mまで行かなならんのか」
と、もめている。

詳細は不明だが、高いところが苦手な旦那様が、
なんとか150mまできたのだが、
セットで買った250mチケットがもったいないと言う奥様

それで、モメているみたい。

見かねた、エレベーターホールの案内のおにいちゃんが
「払い戻し、いたしますよ」と、なだめた。

結果、250mから下りてきた客に混じり、ご夫婦は、去っていった。

さて、250m

このエレベータ、もちろん、外にあるわけだ。
で、詩音の時もそうだったが、雨漏りがする。

そして、今日も、雨漏りだ。

何年も経つのに、修理しないのか?

SN340311

上がったけど。展望台窓際で、写真を撮って、すぐ降りる。

特別展望台は、狭いしなにもない。

ママにコール

SN340312

再び、150mまで降りてきて、カフェで、休憩。

紗代実は、バニラソフトクリームだと譲らず、

私は、コーンだと、落としたり、こぼすから、
それはダメだと、タワーサンデーを、薦めるが、

紗代実は、こういう事は、ぜったいに譲らない。

 

そこで、販売のおねえちゃんに、

「あのー、すいません、ソフトクリーム、コーンでなくて、カップで、とか?」
「いいですよ」

なんだ、いいのか。

てことで、ソフトクリーム実現。
私は、アイスコーヒー。

11:03、ここで、恒例、ママに電話。

SN340314

その後、「透明の床」を発見したので、記念撮影。

※床に伏せているのを、上から撮っています。

さて、今回は、パパの仕事先訪問は、一切なし。

なので、次は、しながわ水族館に移動だ。

エレベーターで、地上ビル4Fに到着し、
そこは、トリュックアートギャラリー。

「あー、あそこやー」叫ぶ紗代実。

そう、先日、家族で、豊後高田のトリュックアートギャラリーに行ったばかり。
大分に有った「大きな口に食べられてしまう絵」が、あったので、

紗代実は、それを思い出したようだ。

でも、今日は、行かない。

さっさと、1Fに、降りた。

真凪の時のように、東京タワーキャラ「のっぽん」は、居なかった。

再び、流しのタクシーに乗り、JR浜松町へ。

京浜東北線

SN340315

JR浜松町駅から、京浜東北線:大森駅に移動する。

本日5番目のタダ乗り、京浜東北線、大人160円

JR浜松町4番乗り場で、しばし待つ。

SN340316

あまり、待つこともなく、列車が到着し、乗り込む。

座席もゆっくりで、座ったまま移動。

列車内、暖房で、すごく暑い。

「さよみちゃん、ジャンバー脱ぐ?」と聞くが、

絶対に、脱がない。

彼女にとって、今回のトータルコーディネートのアイテムなのだろう。

「おしゃれだからね、暑くても・・・ね」ってところなのか。

大森駅に到着し、駅ビルとなっているアトレ大森の中を通る。

ジャスコのような所なので、お買い物に来たかと思ったのか、

「お魚にはいかないの?」と、不安になる紗代実。

大森駅から、タクシーで、しながわ水族館に。

しながわ水族館

4年ぶりか、NISMO本社横を抜け、品川区民公園。

公園を通り抜け、水族館へ。

水族館の前に、レストランがある。

そろそろ、おなかがすくのでは?と、
「なにか食べる?」と、聞いた。

でも、サンプルみて、
「いらない」と、おっしゃる。

しながわ水族館は、館内に食べるところは無いのだ。
※もちろん、当日だったら、何度出入りしても、OK

まあ、いいや、まずは、入ろう。

自動販売機で、チケットを購入。

本日6番目のタダ乗り、しながわ水族館、大人1300円

入ってすぐ、淡水の水槽で、大喜びの紗代実。

SN340319

詩音・真凪がお気に入りだった「東京湾のさかな」水槽に
体長30センチくらいのエイが、今もいた。

垂直にこちらに手を振るように泳いでいる水槽がある。

同じく、大変気に入ったみたいで、しばらく離れなかった。

でも、紗代実は、エイの口やエラあたりの、
ごにょごにょ動いているのが、気に入ったようで。
「なによこれー」と、言ってた。

13:00から、イルカショーだと、Webで調査済み。

ゆっくり館内を見て回る。

SN340324

トンネル水槽を上から見える場所で、大きなウミガメを発見。

横の階段から、降りていくと、トンネル水槽だ。
白いクエも健在、大きなエイも健在だった。

SN340325

冷水系にいた、タカアシガニで、止まる。

うしろにいた、孫同伴のおばあちゃんが、
大騒ぎで、割り込んできて、紗代実、トーンダウン。

SN340326

特別展示のテッポウウオ

でも、ぴゅっとはしないので、ただの熱帯魚にしかみえず。

SN340328

珊瑚礁の展示は、カラフルだけに、紗代実も、↑気分。

SN340330

さて、毎回、疑問に残る、淡水系。

薄暗く、雷のおとがしており両生類誕生の地球の再現だろうが、
小さい子供は、爆泣きが必ず、1〜2名いた。

紗代実も、泣きはしないが、順路を戻って、逃げてしまった。

12:30、イルカショーまで、あとすこし。

今回は、新設の「ベンギン・アザラシ館」に行ってみた。

ペンギンは、なんとなく岩肌を模したプールに、
直立不動してただけで、水のにおいが気になるだけだった。

アザラシ館も、1F・2Fと、つながった回遊水槽で、
3頭くらいが、泳いでいる。

でも、トンネル水槽の接合が屈折してて、
変な形に見えたり、旭山動物園みたいな事ではなく、
いまいちな施設であった。

そうこうしていると、13時も近いだろうと、イルカプールに行く。

SN340332

イルカプール入り口にある、ペンギンのモニュメント

SN340333

まだ、誰もいないが、プールには、出演者の2頭が泳いでいた。

止まることなく、くるくると、プール内を泳ぎ回るイルカたち。

ところが、紗代実が、プールサイドに行くと、
1頭が、紗代実の前に止まってくれた。

SN340334

そして、「ケケケ」と、鳴いてみたり、
紗代実が言うには「ウインク」してくれた、とのこと。

しばらくは、紗代実の手を振るのに合わせて、動いてみたり、
じーっと、紗代実の目線に、自分の目線を合わせていた。

なにか、会話でもしてたのかな?

13:00と思っていたショーは、13:30と知り、

なんだか、疲れてしまって、そのまま、ショー会場のベンチに座っていた。
時折、平和島の競艇の音が、鳴り響く。

13:30になり、会場も観客が増えてきた。

ショーは、
イルカ2頭が、小道具を使ったものや、
わくぐり・フラフープ・高速遊泳

で、ジャンプのバリエーション。

紗代実は、水面から顔をだして、ぐるぐると回るわざと、
高い位置にあるボールをつくのが気に入ったみたい。

もちろん、フラフープマニアとしては、それも見逃さなかった。

イルカショーのあと、アシカショーが予定されていたが、
紗代実も飽きてみたみたいだし、帰りの飛行機の時間もあるので、
水族館を後にする。

外のショップで、おみやげを買うが、

最初の3つだけ、詩音・真凪・ママで、
それ以降は「さよみちゃんの」ということだった。

自分のは、しっかり、選んで買ってた。

SN340317

真凪思い出の、屋外の「クジラのヒレ」モニュメントで記念撮影。

帰り、公園を抜けて、通りにでて、タクシーで、スムーズに空港に。

羽田空港出発

タクシー内で寝てしまったが、空港に着いて、
荷物の整理に、ベンチに置いたら、起きてしまった。

時刻は、15時前。

羽田第1ターミナル南ウイングレストラン街に、
「築地 寿司岩」がある。

築地に本店がある、寿司屋で、

私が、電通の関係の仕事をやっていたとき、
なんどか、連れて行ってもらっていた。

「ごはんが食べたい」と、紗代実の希望で、寿司に。

お子様セット、1980円

エビ・まぐろ赤身・玉子・いくら軍艦・吸い物・おもちゃ
ってところだ。

細かいところで、1カンを半分に切ってある。
ちと、感心した。

頼まずに、半分に切ってくる寿司屋、初めてだ。

サービスというのは、こうでなくてはならない。

子供用なのに、1カンそのまま出したり、高級素材を使うべきと、
エンガワを子供に出すような寿司屋は、ダメでしょう。

あるいは、大トロを子供に出して、スジをノドに詰まらせたら、どうすんのよ。

きっと、この店舗、全国の食通の子供に揉まれてきたんだろうな、
なんて、お察しします。

そんな「子供のため」の寿司を出してきた、板長と支配人

なにも臆することなく、イクラをつぶさずに1粒箸で食べる子供、
聞けば、3歳前、つまり2歳と知り、驚愕。

私は、おいしいところのセット、3980円を、頂く。

ふたりとも、おなかがふくれて、おみやげ、お買い物に。

あれこれしてると、15:20

ボディーチェックで、携帯などひとまとめにして、通過

さっさと、行ってしまった、おじょうちゃん。
ジャンバーの金具が、ひっかかり、再検査。

無事、通過。

少し、時間があるので、クレジットカード提供のラウンジへ。

本人と同伴ひとりまで無料で、ドリンク飲み放題。
※以前は、サンドイッチとかケーキとかアイスも無料だったのに。

ここで、事件発生。

会員制ラウンジなので、トイレもキレイなのだけど、
それをねらって、おしっこに行かせた。

そして、朝と同じく、パンツの下げ方が不十分で、びしゃぬれ。

「パパがした」と、攻められる。

もう、換えがないので、
「さよみちゃん、もう、そのままズボンだ」
と、ぬれたパンツだけ、脱がせて、ズボンをはかせる。

しかし、ズボンも濡れていたようだ。

広い、ラウンジのソファーの戻ると、
じゃんじゃんズボン脱いで、オシリ丸出しになる女子、1名。

あわてて、引き上げ、換えズボンもって、再度トイレへ。

※このラウンジ、常時、係が何人もいるので、
ソファに、手荷物を放置したまま、トイレにいっても大丈夫。
もちろん、事故の際、保証をしてくれるとは限らないけど。

SN340336

すっきり着替えて、ようやく、二人で落ち着いて、飲み物を頂く。

お菓子食べたい、とおっしゃるので、ラウンジを撤収し、搭乗口まで移動する。

東京ばなな関係を購入し、じゃがりこを購入。

搭乗口にいくと、もう機内への案内だった。

下り飛行機

本日7番目の、タダ乗り、東京大分航空券(大人は30,000円)

右窓側中部の座席、本来なら、富士山なのになー。

滑走路に居る間は、いろいろ言ってたが、
上昇し、水平飛行になったので、一人座りにした。

そしてら、寝てしまった。

私も、途中、うとうとして、気がつけば、降下体制。

「さよみちゃん」と、声を掛けると、起きた。

一人座りしてたので、着陸用だっこにする。

無事、着陸し、機体も停止した。

大分空港到着

後部のひとを先に行かせ、最後に、機体をでる。

身支度は、とうぜん、テントウムシのリュックを背負っている。

階段をおりる途中、ママの姿をみて、そちらに走る。

自分が買ったおみやげを、ロビーで紹介する。

これも、3人同じ言動だな。

我が家恒例の「満3歳直前東京旅行:紗代実編」無事終了。

あー、長距離自動車旅行は、恒例にならないのか?

To Be Continued…….. Thank you!!

 

2008年に向けて

☆2007年 44点

2007年頭に公言したキーワードは2つ

・飲食業
・40歳

・飲食業

引用:「カレーワゴンNo2mas」

がんばって、続いています。

車体などの投資的な部分を、別にすると、
原材料費などは、なんとか、まかなえる程度で
売り上げもあり、運営できております。

まあ、しかし、それで「職として成立」しなければ、
評価に値せず、あるいは評価の対象にも上がらず。

もうちっと、実績をまとめたい所。

カレーワゴンNo2mas

そして、IT屋の私は、当然の様に「ネット通販」を企画・実施。

引用:「おこのみハビング」
を、2007年8月に立ち上げたのであります。

これも、起業当初は、身内知人からの注文ばかりでしたが、
検索エンジンへの登録の普及や、いくつか営業活動の効果なのか、
見ず知らずの人から、注文が出てきつつあります。

もちろん、権利関係の扱いは、大スキですから、商標登録申請もぬかりなく。

カレーワゴン
【出願番号】 商標出願2007−37046

おこのみハビング
【出願番号】 商標出願2007−89851

素肌ソース
【出願番号】 商標出願2007−89863

おこのみハビング

カレーワゴンマーク
【【出願番号】 商標出願2007−37044

博多の居酒屋みたいなの始めようかと、画策してみたけど、
保健所の許可が望めず、企画倒れ。

メニューもつくったのに。

 

 

 

・40歳

2007年10月15日、40歳になりました。

通常なら、40歳の誕生日を迎え、数日以内にみなさんへ、

「40歳になって」

の所信表明をだすのだけど、相手があることだったりで、
いろいろと整理が付かず、2008年に持ち越し。

20代から30歳になるときと同じく、
なにも変わらない夜明けでありましたが、

生活習慣病検診で、いくつもボーダーオーバーが出てきたり、

日々の生活の中で、

「あれ?、ど忘れ・・」
「おっ、取り落とし」

その他、筋肉のゆるみやら、
体調回復の遅れやら、あれこれ、経年変化に、
40代に入った事の手応えを感じています。

さて、
結果の44点は、公式記録?で、史上最低....。

特に、この1年の出来事を振り返ると、
「なんとなく」過ごした1年だったと思います。

昨年2006年、大きな転換の多い1年であったゆえ、

今年2007年は、その整理に費やした部分もありますが、
かといって、積極的に整理に勤しんだ記憶もないし。

判断ポイントに、それぞれ違う思いの当事者が複雑に絡む事もおおく、
それらの対応に失笑の繰り返し。

40歳、今年は行けるかとおもいつつ、
未だ「日の出を制する」には至らず・・・・・

 

☆総合評価44点

1年のメール:・・・・・・

SPAM対策を「激しく」したので、
正確な数字は、分からないが、
分類された(正規な相手)のメール本数は。

8,438本

ちなみに、SPAMを含めると

1,960,445本

約200万本って、切手貼ってだしてたら、

郵便事業、億の売り上げじゃないか........。

カレー通販も、SPAMで行くか?

それじゃ、あの韓国海苔屋と、いっしょか。

 

☆カレーワゴンNo2mas

車で移動販売が専業の「カレーワゴンNo2mas」

2006年9月に開業し、いまだ続いています。

カレーワゴン事業、
基本的に、広告活動はしない方針でありますが、
費用の発生しない「取材は、お受けする」シブイ方針です、

2007年2月、大分地元民放「テレビ大分」週末の地域情報番組に出演したところ、
問い合わせや来店が急激に増え、メディア露出の手応えを得ました。
引用:ハロー大分「たかすぅいの熱血食堂」

このTV出演で、2〜3月の販売量の増加を見ると、
確かにメディアの効果はアリです。

思えば、私の事業活動の中で、
「IT系コンサルタント」や、「サーバー管理者」など、
大分のそこいらでは、遭遇するのが困難な職種とはちがい、

めずらしく、
「なにをやっているのかわかりやすい(カレー屋:飲食業)」
ですから、私を知らぬ一般の方にも、わかりやすいようです。

世の中のみなさん、いまさら、
カレーなど、「食べ飽きてるだろうに?」と私は思うけど、
大分市内も、わざわざ大分市外からも、TVを見たからと、
来ていただいた方もいらっしゃいました。

TV出演は、すごいもんだ、と感心する私。

でも......。

それ以来、TVの出演もなく、販売数は、低位安定。

ゼロじゃないってのが、これまた、ねー。

ありがたいのか、特殊事例なのか、

・2006年10月の「CATV出演を見た」から。
・以前掲載してもらった」City情報雑誌を見た」から。

大事に情報を暖めて、訪ねてきていただく来店もあり。

そんな中で、めずらしい問い合わせは、

製造所(自宅)の上春日販売ポイントの近くにある、

「大分県立女子高(現:西高校)」の卒業生で、
「上春日」という住所がなつかしく、
電話を差し上げました。

と、大分県内国東市国見町に在住の女性から。

そして2007年、遠方出店や出店依頼も、ちらちら.....。

・大分市上田町 マンションのママさんたち
・大分市大南 PTAお別れ会
・大分市大道町 医療関係ビル
・大分県中津市 ノースFM(FM中津)
・大分市敷戸街 M’S CLUB(パチンコ・スロット)
・大分市城原 日本文理大学(チアリーディング部)
・大分市中判田 やまばと幼稚園イベント
・大分市西大分 海辺のクリスマスパーティー2007
などなど

不成立だった出店依頼

・大分市下郡 ゲームアメリカ下郡店新店舗オープンイベント
イベントの規模や出店場所の調整ができず消滅。

・大分県日田市上津江町 スーパーバイクレース
カレーワゴン側に、予約同日先約があったため断念。

 

2007年、お休みすることもなく、
なんとか、終えることができました。

もちろん、ちいさいけど、
商品入れ忘れやら、お釣りの間違いなど、
事件がなかったわけではありませぬ。

ちょっとだけ、まだ後ろ髪引かれているのが、

カレーワゴンちょろQ の制作

予算が合わず、経営的に無駄との判断。
※最低ロット、4000個。

でも、あきらめきれず,,,,,,。

その他で予算確保してでも、ぜひ実現を!!

いろいろ、あったような、なかったような、

やっているのか、やってないのか、
忘れた頃に、思い出してしまう、

私の「存在そのもの」のような、カレーワゴン運営でした。

2008年も、このままで、いきます。

 

☆ネット通販開始(おこのみハビング)

この1年、
移動販売で、全体の5%が「ルーだけ購入」でした。

たしかに、市中の弁当屋でも、ルーだけ販売は、
存在しますが、そんな需要もあるのかと、改めて認識しました。

私、もともと、IT屋ですから....。

もちろん、ネット通販を画策。

「おこのみハビング」
を、立ち上げたのであります。

2006年9月の開業以来、友人へ、
ときおり、ルーのみを、
プラ容器に4〜5人分の単位で、
送ってあげていた事もあって、

ルーの個食販売の対応もアリだろうと、考えました。

2007年5月くらいから、

真空パックの技術や理論を調査・学習し、

TVショップであるような家庭用の真空機を導入。

試したところ、真空パックっぽい物が出来なくもないが、
あまりにショボイので、不採用。

結局、業務機を導入。

外装やら、パッケージやら、シールやら、
ある程度、自分が思い描いていた製品イメージに到達したので、
ワゴン販売以外を、本格開始。

その1段が、前述、ネット販売です。

結果、家族の寛大な理解のもと、自宅に、大人が3人くらい入るような
大きな冷凍ストッカーが、やってきたり、
1000個もの出荷用段ボール箱在庫が、1部屋占拠しました。

また、よそさまのwebシステムは多数手がけてきましたが
自分のものとなると、スペックにキリもなく、
いつもの馬場ちっくな、シンプルな画面の裏には、
分析に必要となる緻密な稼働記録や、高度なセキュリティー対策が
随所に施されています。

そして、そういうことへのエネルギーは、商品を選ぶ人側にとって
「なにもメリットがない」というのも、いつものオチであります。

事実、開発したシステムは、月間10万BOXの処理も楽々な
スペックでありますが、

現実問題、10万個の段ボールに、私ひとりでガムテープ張るのか?
10万BOXって、60トン近いのに、一ヶ月でそんなにルー作れないよ。

これまた、システム屋にありがちな、数値ありき、上限値ありき、
机上の空論からくるダメ傾向ですね。

まあ、SQLデータベースから見ると、
1個でも、4億個でも、一緒なんですが。

クロネコヤマトも、知らぬ間に、高度なシステム化がほどこされ、
こちらのシステムから、さらりとデータを移行し、
レーザープリンタで、じゃんじゃん送り状を出してくれます。

ボールペンでゴリゴリ書く必要など、まったく無し!

また、割り当てられた送り状コードも、こちらのシステムに吸い上げて
ほぼノータッチで、お客様にお知らせできるのであります。

やー、すげー世の中ですね。

今回の、通販立ち上げには、めずらしく、多くの人の意見をもらいまして、

BBブランチでお世話になっております、「けーこ先生」やら、
「東京中野区のママさんたち」などなど、

協力してくれたモニターさんたちに感謝感謝です。

その成果物のクオリティーには、賛否有りますが、
私としては「これが良い」との判断でございます。

通販開始から、半年が経過して。

見ず知らずの人からの注文も、事実、あります。

驚きとともに、なにやら、責任も感じています。

商品の拡充と、許認可と、あれこれ複雑な世の中の仕組みに、

ひとつ1つ、取り組みをしながらの通販事業となりそうです。

 

☆高額歯科治療(インプラント手術)

数万年の進化の過程にある、私の頭蓋骨は、原人に比べ、小さくて、
人類の身体構成の規定通り、32本の歯が生えるのに、無理がありました。

歯並びが悪い上、
幼少の頃、当時の常識は「虫歯は伝染病」とは考えられて無く、
プラークコントロールなんて、おしゃれな言葉も無かった。

結局、歯磨きが幼稚のまま、大きくなり、
対処的歯科治療の繰り返しで、この歳に。

つまりは、削って、埋めて、差して、抜いて、
そんな事を、繰り返している間に、
左側上下とも、なにもなし、になりました。

20年近い、お付き合いの、明野古澤歯科の院長から、
「いよいよ安心して入れられる技術になった」
と、左側の歯の再建に取り組んだのです。

・インプラント

歯の根がなくなった人に対する歯科技術でして、

あごの骨・頭蓋骨に、金属の土台を埋め込み、
人工の歯の根をつくります。

そこを基礎として、義歯を設置する。

私の場合、左下に1カ所、左上に2カ所、
チタン製の金属を、埋め込みました。

体に、なにかを埋め込むなんて、
ペースメーカーを埋めるとか、考えてしまったけど、
手術自体は、親知らずを抜くより、簡単。

とはいえ、下の歯の埋め込み位置には、
下あごや味覚(舌)に関わる重要な神経があるし、

上の歯の埋め込み位置のすぐさきは、
頭蓋骨の空洞があって。

上下とも、数ミリ先には、
顔面のしびれとか、頭蓋骨ぶちぬき、
なんて、ミスは許されない場所であります。

今回は、明野古澤歯科の紹介で、
大分市岡病院
引用:マキシロフェイシャルユニット
で手術。

あご・顔面に関する、特殊診療のチームだとか。

まずは、問診

およその話は、明野古澤歯科から連絡がいっているけど、
骨の様子などを調べるため、レントゲン・CTとったりなど
結構大がかり。

それよりも、大切なのが、歯磨き。

せっかく、インプラント装着して、歯を作っても、
歯磨きが正しくできてないと、
人工物なので、汚れからばい菌が付き、
感染して根が弱り、だめになってしまう。

1回目:問診と現状の歯の型どり
歯磨き指導
2回目:型から作ったマウスピースをつけてCT
歯磨き指導
3回目:手術スケジュールの策定
歯磨き検定?、合格なので、手術を決断。

4回目:下のあごに、1個、埋め込み手術
ここで、上のあごに問題発生
残っている歯の根に、腫れを発見、
そのため、上は後日に延期

5回目:下の縫合抜糸と、上の腫れの治療(切開除去)
6回目:上の縫合抜糸
7回目:上のあごに、2個、埋め込み手術
8回目:上の縫合抜糸

で、今年は終わり。

これから、4〜6ヶ月、経過観察して、
インプラントが、骨とくっつくか確認する。

2008年5月くらいに、次の段階へ。

埋めたチタンは、直径5ミリくらいの管。
その内穴に、芯となる「コア」を作るのが、2次工事?。

最後の3次工事が、セラミックの歯を、そのコアに取り付ける。

以後、年に2〜3回、メインテナンスがある。

あー、うまく、根付けばいいな、なんておもっています。

マキシロフェイシャルユニット

歯の話なので、関連して。

うちの娘達、

アゴの大きさから、多分に、歯並びにムリがあります。

歯科矯正の要否、悩み中。

友人知人の女性たち、あるいは歯科強制経験の女性たちに、

「歯科矯正の是非」について、多くの意見をもらっています。

みなさんの意見を総合すると、

100%「実施すべし」

との結果。

でも、神経的にキツイとか、口内炎との戦いとか、
装着当初の飲食制限など、どうなんかなー、って、悩み中。

女の子だからなー、
10代のキラキラ時期前に、済ませておくべきなのかなー。

実施するなら、長女は、たぶん2008年が決断。

 

☆Xマスツリー

三信工業に立っていた、大きな木

毎年、電飾を付けて、Xマスツリーにしておりました。

それが、中止。

そして、木も撤去しました。

2001年に、植樹し、点灯式もその12月に始めました。

当時、三信工業の非常勤取締役として、
ようやく、すこしづつ出入りをさせてもらっていました。

その頃、いただいてた役員報酬は、
1円も使わず、貯めていました。

そのお金は、三信のために使うべきと、思って。

その使い道が「Xマスツリーをやろう」って、
突然言い出した私に、社員のみなさんが、
どう思ったのか、いまとなってはわかりませんけど。

私の祖父 山崎正巳が、大切にしてきた

・人の笑顔
・人が集うこと

を、こういう形で守っていければいいな、
そんな思いから、始めました。

その山崎正巳の生誕100周年が、2017年になります。

そこまで、三信工業を持たせるぞ、との決意もあって。

計画を、正巳に話すと、無駄だと、反対されました。

あらゆる手段をつかって、説得にかかりました。

正巳:雅治対決の1つでした。

結局、土下座まではしなかったけど、
それに準ずる私の決意に、正巳が折れたわけです。

乗ったら、賛同してくれた正巳。

サンタになれといえば、サンタに扮し、

トナカイになれと言えば、トナカイとなって、
若手社員の先頭にたって、ソリを引いてくれました。

毎年、点灯の瞬間、敷地が笑顔で埋め尽くされます。

怒っている人なんて、一人もいませんでした。

私が、2005年、IT事業部長を逃げ出す際、
総務部長と相談をし、

「これは、私の個人所有物なので、
引き上げましょうか?」
と、申し出ましたが、

「そのままでよい」、との、お答え。

2006年は、三信工業の新役員さんが、
大きな金のネクタイをつけて、大演説をするなど、
この木の意義をすっかり受け入れてくれた物と感じており、
2007年も、円滑に実施するのかと思っていました。

期日近くになって、

会場で流す音楽の貸し出し問い合わせを、社員の方から頂き、
責任者同士の実施の意思確認を求めました。

新体制となり、社の方針が、
「すべて社長決裁」であると、
総務部長から聞いていたので、

社員さん(社員親睦会)からの依頼では、
会社としての総意と勝手に解釈するわけにも行かず、
「直接の意思確認」を、求めたわけです。

その真意は、

・木の所有者である私
・会場の責任者
・共催者のやまばと幼稚園の責任者

それぞれが、意思確認をすべきと思っています。

というのが、このXマス点灯式は、
近隣の方々をお招きをし、地域の行事として受け入れられ、
多くの方に参加していただいていました。

なので、会場は、社員だけではないわけです。

もし、万が一、電球が破裂して、人の目に入る事故があった場合

主催者責任・共催者責任・所有者責任
それぞれが問われることになります。

損害賠償となれば、

主催者である三信工業が追うべきだろうし、
それを、「社員の企画」だと、逃げるわけにもいかず。
※船場吉兆みたいに、パートの責任にする?

人を招いて、イベントを起こすのには、
それ相応の責任と覚悟が必要と、私は考えています。

ただの意思確認だったのに。

結果、当事者のひとりは責任のテーブルに着くことがなく、
責任の所存が確認できない以上、
開催できない結果となりました。

それが、三信工業の新体制の方針であるのなら、
しかたがないですけど。

一部で流布されている、私が意図的に中止に追い込んだ
みたいな、話は、いかがなものか、とも思います。

点灯式を楽しみにしていた、やまばと幼稚園の園児に

SN340277

なんとか、楽しんでもらおうと、12月8日に仕込み、

12月11日、点灯式を、実施することができました。

木は、やまばと幼稚園に移設しました。

2001年に、創業者山崎正巳の生誕100周年を祝う
「2017年タイムカプセル」を、木の根元に埋めていたんですが、
それも、やまばと幼稚園に移設しました。

このタイムカプセルは、
私の関係者のみならず、社員さんたちやそのご家族
そして、近隣や趣旨に賛同していただいた多くの方に
2017年に向けてのメッセージをいれてもらいました。

※もう、移転することはないと思いますが、
同園の運営と私との接点には、根拠がないので、
私の私物を置くことを、問題視する意見がでる可能性もあるし。

田室町にあった時、たいへん目立つ木でしたので、
「無くなったこと」に心配や不安を感じる方も
いらっしゃるだろうと、考え、告知を計画しています。

新聞掲載などで、告知を考えています。

しかし、三信工業から、不思議な禁止事項を頂いておりますので、
これに応じるか否かは別として、
表現が曖昧な掲載になるかもしれません。

 

☆あの件

昨年2006年、山崎2大星が、天に帰って、

2007年は、その後を決める重要な1年であったと思います。

率直、「意志の不在」が気になるところ。

これは、約10年前、私が山崎を名乗った時から、
この一族へ、有言無言に問い続けたことでもあるんだけど。

まあ、現状が、その結果であるなら、しょうがないな、と思っています。

さて、このページをごらんの皆さんは

私にとって「あの件」とは、説明するまでもないでしょう。

新体制さんも、がんばっているようです。

なんだか、doクラフトを起業した時を思い出します。

結果を出すことに夢中になり、
社長として周囲からナメられないように言動したり、
意味不明の広告出稿とか、
コストを考えない人員拡大とか、
ほめてくれる人には近づき、
否定する人から遠ざかり、
収支のバランスもわかったフリで、
社員は社長に従うものだと誤解して、

ともかく、勘違いヤローだった、私。

会社経営は、
In・Process・Outのシステムであり、
方程式が間違っていなければ、うまく機能する。

なんて、私は思っていました。

薬屋さんとか、
電気屋さんとか、
不動産関係さんとか、
製造業さんとか、
卸さんとか、
※オレは入ってないって書き忘れている人?、ごめんなさい!

たくさんの、よい人に恵まれたなー、って思います。

でも、共感する言葉をいただけたのは、
「創業者」である経営者さんだったかな。

いまでも、忘れず
「馬場君は、なぜdoクラフト始めたの?、
社長になるためや社員のためじゃないでしょ、
やりたいことがあって、手段として会社があります」

まあ、たしかに。

それと、山崎正巳・山崎立子という、二人の経営者との出会い。

これも、いまの自分にとって、大きい。

なにも、学んではいないんだけど、
この二人が、貫いた事は、ごく当たり前で、自然で、
でも、以外と成すには困難。

この二人のようになりたいとは、おもわないけど、
判断材料としては、最適最高。

なにか役に立てればよかったな、とも思う。

いろんな事あって、三信工業に移動の際、
あれこれ縮小したので、doクラフトも休眠状態。

前述の影響ではありませんが、

「やりたいことをやる」日々を過ごしています。

でも、
「身の丈にあった範囲」かな。

一時期は、三信工業の代表を引き受ける準備もしたので、
自分の努力以外の所で、足を引っ張られたり、
長年積み重ねた先送りの問題とか、
世論からつっこまれたら一瞬で破壊される弱点など、
問題が大きくなっては困るよー、と思い、

同社の物も人も、良い点悪い点、いろんな事を調べ上げ、
万全の体制を構えたけど。

結果、私が逃げ出したわけ。

本来なら、新体制さんに、そのネタ、引き継ぎすべきなんだろうけど、

「逃げる・ウソ付く・ひとのせいにする、どなる」状態では、ムリ。

でも、人のふんどし借りて相撲とってるんなら、
それ相応の態度もあろうかとおもうんだけど、

特に創業家に対して........。

まあ、創業家の意志決定も、中途半端だから仕方ない。

サンネット21

社員の協力で2年かけ、作り上げた、三信工業の社内システム。

2008年に駆逐されてしまいます。

今から、数千万円掛けて、同じ物を、OECに委託。

経営上ものすごい欠損出してて、どこにそんな余裕があるのかしら?
産みの苦しみみたいな事で説明になるのかしら?

システムリプレースの根底には、
サンネット21がある限り、アンクルアンティークとの
関係が切れないため、現システムを破棄する。

あーあ、って感じです。

方針なら、仕方がない。

ところで、OECが、現システムの調査だと、
あれこれ質問があるみたいだけど、

どうも、アンクルアンティークと直接話をしたくないようで、
「管理者に無断で管理情報を教えてくれ」
みたいな、非常識な態度を取っております。

公式に質問してくれれば、こちらもビジネスなので
対応するのに、コソコソした態度は、いかがなものか。

それが、大分のIT業界の常識なのかしら?

セキュリティーのシステムトラップが起動する前に、
円満な関係になれるといいんだけど。

就職サイトなど、うろうろしていた時、

偶然に、三信工業の事を書いていると思われる
公開情報に遭遇。

引用:もっと教えて! 建設・住宅・不動産の会社で働く|仕事白書を編集する

記述者のお名前や、経緯や、記述されている「親」の様子などから、
どうも、三信工業の事と思われるし、

同名の方が、現在、三信工業に在籍なのは、事実。

しかし、下段
メッセージの記述は、どう考えても許せない。

仮に三信工業の事を言ってるとするなら、
この仕事を下に見ているとしか思えない。

この記述者のことを、褒め称え、
未来の三信工業の後継者だと言う人が、たった一人いる。

三信工業の未来は、みんなでDJになるわけか。

創業家に、三信工業という名称の使用を禁止する前に、
自制すべき点があると思うのですが.......。

方針なら仕方ない。

失笑....。

 

☆SPAMと戦った

SPAMの話の前に、

最近、やたらと、SEO対策コンサルタントを目にします。

SEO = Search Engine Optimization (検索エンジン最適化)

簡単にいうと、
「あんたとこのホームページ、グーグルで検索したら何番目にでますか?
やっぱ、1番にでないと、効果ないでっせ、
私に任せとけば、1番最初にでるようにしてあげるさかい、
300万円用意して、待ってってんか」

という、コンサルタントビジネスです。

やたらと、目にするし、ちんけなIT系記事に、
IT系プロフェッショナルの代名詞みたいに紹介されています。

現状、これらのコンサルタントの多くは、
グーグルの関係者ではなく、素人が自分の経験で、
あれこれやってきたことで、上位にもってくる、
ページの作り方とか、リンクの張り方で商売しています。

つまり、その手法に、根拠は無し!

「枯れ木に花を咲かせましょう」ビジネスですな。

彼らが取った手法を、グーグルが「無視」という処理を入れるだけで
その瞬間から、効果が消滅します。

あやしい商売だこと。

何をやってるのか、試しに、グーグルで、

カレーワゴン

といれて、検索してみましょう。
たぶん、上位に出てくるでしょう。

この話をすると、

「へー、どうやってやるん?」と聞かれます。

私は、
「じゃ、300万円用意して、待ってってんか」
と、答えます。

私も、IT系コンサルタントなので。

わはは

さて、SPAMメールと戦ってみました

みなさまも、不必要なメールの処分に、
無駄な時間を取られている事と思います。

ずっと、SPAMの対策って、どうなのかな?

と、おもっておりましたが、2007年5月の連休中に、
ふと、思い立って、SPAMの現状を把握しようと立ち上がりました。

ところで SPAMって、缶詰だった、ってご存じ?
+++++++++++++
なぜ、迷惑メールがSPAM?か、調べると、
Hormel Foods社(実在)が販売するハムに似たランチョンミートの缶詰である。

最近、近所の食材店にあったので、買ってみた、600円くらい。

俗説ですが、それにまつわる話。

「この缶詰会社の商品についての逸話で、
この商品を材料とするメニューしか置いてないレストランの出来事、
ある客が、SPAM商品しかない事に、抗議をする様子をみていた他の団体客が、
その講義の会話の内容に、SPAM・SPAMと連呼されているのに乗じ、
SPAM.SPAMと歌い出したところ、その歌い声で、抗議をしていた人が、
自分の声をかき消されたため、会話が不能になった」という話があります。

つまり、自分の会話をかき消すほどの大量の発言(歌)や、
本来の会話を邪魔することから、

本来の目的のメール交換を、邪魔するメールや、大量に発せられるメールを、
SPAMと呼ぶようになった、とのこと。

さて、状況把握の第1歩

ひとまず、発送者拒否と内容拒否の2つがあります。

ともに、郵便物に例えるなら、自宅のポスト前に立ち
配達に来た配達員を、その場で待たせたまま

1つ
・送り主をみて判断し、不要ならポストに入れさせず持ち帰らせる

もう1つは、
・その場で開封し、中身を見てから、不要物は持ち帰らせる

の2種類です。

結果、2007年度末で、200万通に迫るメールが跳ね返し対象になっています。

もちろん、これだけの記録があつまると、傾向も見えてきて、

・CANADIAN PHARMACYは、善意の販売社で、
名前を悪用されているとか。

・添付ファイルが広告主体で、メールの内容は
CNNなどからの抜粋とか。

・また、発信者側も、特定のキーワードを決定しにくいように
不規則に内容を変化させてきます。

・バイアグラが、人気ですが、
最近、ヨーロッパの方からローンのオススメが多くなりました。

さらには、SPAMの主催者と
発信者アドレスとは、無関係であることが多いのも事実です。

SPAMに決定的な対策ができないのが、
受け取らねば、SPAMであるか、判断できない事にあります。

ゴルフをしない、私にとっては、
激安ゴルフクラブの案内は、SPAMなのです。

では、GOLFというキーワードで跳ねていきます。

フランスには、メール交換をする友人がいませんから、
メールアドレスの終わりが、

.fr で終わるドメインは、拒否します。

そうやって、積み重ねてきたのが、現在のブラックリストです。

でも、やりすぎて、添付ファイルの一部が拒否となり、
任務に支障を及ぼした事も、あったりで、いやはや。

まるで、自宅の防犯対策の行き過ぎで、
自分が入れないってオチみたいですな。

そんな事を、5月から、ずっとやってみました。

結論からすると、「決定的な対策は無し」となりました。

現実の生活でも、
ポストに入る手配りのチラシやら
不要なDMも、対策はないし。

そうそう、2006年に無くなった祖父のところに
先日、「会長様へ夏のセールの御案内を」
と、訪問してくる、大分地場のメガネ屋は、
どんな営業趣旨なんでしょう??

話は、戻って、

もちろん、SPAMは、海外物だけに限らず、
国内でも存在し、風俗系の案内がおおいですね。

最近の特徴では、
メールのやりとりのような文章がおおく、

「千葉営業所の加藤です、先日の出張、お疲れ様でした」
なんて、はじまって、一緒にいった風俗店の誰がイイだの
そのコンパニオンが、DVDを出したけど、内容がイイだの、
まあ、さも、ありがちな文章で攻めてきます。

私、出張に行かないのを、周囲が知っているから平気だけど、
出張が多い人なら、行動を疑われそうだなー、なんて、思ってみています。

自分自身が、SPAM側に立ってみるとどこまでできるかしら?
とは、思いますが、いまのところ、予定無いなー。

12月末日まで、

200万件近い、SPAMの記録から見えてきたSPAM世相があります。
公開の予定はないですが、時間を見て、ちくちく書いております。

添付画像のギャラリーなんて、おもしろいですよ。

 

☆生と死2007

生と死を、考えることが、いくつかあった。

2006年、大好きだった、祖父母を亡くし、
残された事実の大きさに、エネルギーを費やした事も、
無関係ではないかもしれないが...。

なぜ、死へのプロセスがあるのか?

死というゴールは1つなのに、
そこに至るまでの道筋の数は、ほぼ無限。

なぜ、生後の選択肢があるのか?

生は、1つなのに、その先の道の選択肢は、これまた、ほぼ無限。

ずっと、きになっていたのですな。

友人の、佐藤太一氏の、義理の父が、

「消化器系の問題」を見いだしたらしく、

めずらしく太一氏は、弱気な面持ちで、
わたしのカレーワゴンに訪れた。

大分県下では、その症例の第一施設とも言える場に入院し、
そこで、率直な状況を聞かされたと。

時計の針で言うなら、22時か23時、そんな空気...。

私には、この症例で、父を亡くした友人?が数人居た。

無神経な事だったかもしれないけど、
この症例について
「あなたが把握してからENDまで体験し思ったこと」
あるいは、
「施設の選択・課程・要点」を、率直に聞いた。

その友人は、手短に、でも隠しも誇張もせず、
事実と心情を教えてくれた。

※おしえてくれた、あなた、ありがとう。

その内容を、そのまま、太一氏に、渡した。

それらを含め、ご家族の中には、ある覚悟もあったようだ。

そして、現在(2007年末)、

夏頃の大きな手術(摘出)を経て、元通りとは行かずとも、
義父が義父であった位置に、再び居るようである。

昭和生まれの寿命をみていると、

80歳を超えるような、ご長寿さんって、
あまりみないですね。

仮に、80歳が昭和生まれの寿命なら、
きっちり、半分の位置にいる、自分。

死も、人ごとではない。

誰だったか忘れたけど、現代美術家の名言

「死体は他人」

確かに、

自分が見ることができる死体は、他人だ。

妙に納得して、頭から離れず、とても気に入っています。

急に、自分が居なくなったら、こまるだろうな、

って、サーバーのパスワードやら、
会社の運営の停止の仕方とか、

結構、あるなー、って思って。

生前の意思って、結局、死後勝手に解釈されて、
解体されていく様をみていると、準備は要らないのかな、

なんてのも、おもったわけです。

生は、止められない。

今後のカレーワゴンの活動の1つ

「施設にカレーご試食訪問」

というのがあります。

まずは、老人・子供施設ってことになるのかな。
※当面、食事制限や介助のすくない分野でと考えています。

老人施設は、いったこと、たくさんあるので、
子供施設に、行ってみた。

熊本の赤ちゃんポストの話とか、
連日のように流れてくる、子供の虐待・殺害、
いかがなもんかなー、と思っていました。

赤ちゃんが、「捨てられる」という事、

手塚治虫漫画
ブラックジャック4巻35話「赤ちゃんのバラード」を
目にしてから、脳裏に残っているのかもしれない。

赤ちゃんを捨てるのは、コインロッカーだ、って。

幸い、私は、3姫に恵まれて、
それぞれ、両親のどこかに似通った表現を見て、
日々、新しい発見と驚きの毎日だけど。

いま、自分の生活環境って、世のパパたちからすると
かなり「レアケース」と、思っています。

一日中、家にいて、たらたらとしていて。

トイレトレーニングに付き合える、お父さんは、
なかなか、居ないだろー。

未体験の、子供の施設の見学をしてみようと思い、

早速、12月17日(月)、その1つに行ってきました。

興味を持ったのは、
引用:この記事
が、大分合同新聞に載っていた時。

場所は、
大分県別府市の荘園(別府市の斜面の中腹あたり)

結構な大きな敷地(5000坪)で、

0〜2歳までの、乳児院
3〜18歳までの、児童養護施設

今回、見学行ったのは、乳児院のほう。

18名の子供が、入所しているとのこと。

大分県では、老舗?の施設ゆえ
歴史的な話や、創設者については、
著書や、報道資料も、けっこうあります。

この記事

さて、調べた住所に近づくと、

一見、自衛隊の訓練施設っぽい、
ひろい運動場と、宿舎っぽい建物がある、
フェンス囲いの広大な敷地でした。

2カ所ある、入り口(通用門?)には

「立ち入り禁止」

と、かかれているので、
ちょっと、引きそうになったけど、

「まあ、攻撃されたりはせんだろう」
※自衛隊じゃないって。

と、敷地内を車で横切り、管理棟らしき建物へ。

管理棟に近づく段階で、
事務所から、発見され、入り口に導かれる。

「あのー、すいません、新聞で、ここの話を知りまして
ちょっと、見学に来たんですが」
「はい、わかりました、おまちください」

丁寧な対応です。

あ、もしかして?

「子供に困って、預かって欲しいと、相談に来た、お父さん」
に、みえたかしら?

しばらく、担当に電話連絡をするが、不在で。

ここ、職員を先生とは呼ばないらしく、
「にいさん」「ねえさん」と呼ぶみたい。
※理由は、創設者の著書にあるようだ。

うたねねえさん、まなぎねええさん、って感じ。

芸人さんの上下関係みたい。

ほどなく、乳児院の職員さんが、管理棟まで迎えに来てくれた。

あ、そうそう、どうでもいいのかもしれないけど、

「いま、担当者が、参ります」
「いま、担当者が、ご案内します」

ではなくて、

「いま、担当者が、お迎えにきます」
と言われた。

「お迎え」って言葉に、
なにか意味を感じるような、無いような。

お迎えの職員さん、1歳くらいの女の子、おんぶ中。

「あーすみません、突然、
私、大分市の方で、飲食業をやっていまして、
新聞で、乳児院の事を知りまして、
興味本位ではないんですが、
どういうところなのか、見学させていただきたくて、

あの、なので、相談とか入所希望ではないです」

「ええ、わかりました」

まあ、比較的、第一印象が良い?、私は、怪しまれもせず。

管理棟から50mほど離れた所に、
平屋で、ちょうどよい大きさの建物。

玄関に回され、施錠が解かれて入室する。

入り口で、手の消毒をして、室内へ。

生活と医療が、すべてまかなえるようになっている。

乳児院は、0〜2歳までの子供が生活する場で、

子供たちの個室は、ベビーベッドが1人に1台。
訪問時は、16人いるって言ってた。

新生児は、別部屋で、2名
ベッドには、心拍音のセンサーがあり、
寝ているときの心停止を監視する。

医務室・感染症の子供の隔離室
お風呂・食堂・厨房

で、プレイルーム

さらに、全室、監視カメラがあり、
宿直室?にて、モニター可能。

なんだか、IT屋営業の準備して、
ネットワーク型監視カメラの資料もって、出直そうかな?

一通り、施設案内して貰って、談話室で、お話を伺う。

まず、自己紹介せねば、
このままでは、あまりに、怪しすぎる私。

「私は、大分市の方で、コンピュータ系と飲食業をやっていまして、
差し上げた名刺のような車で、移動販売しています。

どこからお話すればいいかな、

こちらを知ったのは、先日、大分合同新聞に
大分県で1つしかない、乳児院だと言うことを知り、
また、昨今、熊本の赤ちゃんポスト、などの話も
気になっていました。

私、3人の娘がいますが、
よそのお父さんと比べまして、仕事は自宅でして、
出産から、ずっと一緒に居られました。

私の友人パパたちの、子供への関与の度合いとか、
赤ちゃんポストとか、こちらの事を知って、
自分やうちの子供たちは、レアケースだと思っております。

だからといって、どうしようとかないんですが。

事実として、乳児院があって、
そこで生活する子供たちが居て、

いま、自分になにか、お手伝いできることなどが
あるのか、ないのか、見学に来たのです」

なんて、自己紹介したと思う。

なんとか、職員の方も、
で、私自身も、ここに来た理由がわかってきた。

いくつか、私から質問をした......
※回答側の表現は、若干私の補足があります。

Q:2歳を超えたら?
A:敷地内にある児童養護施設へ移動
しかし、法改正で、年齢制限の垣根は無くなった

Q:ここに居る子はいつごろからここに?
A:諸事情があって来るが、最短、生後産科からここに直行もある

Q:なぜここに入所するのか?
A:まず、大分県で乳児を受け入れるのはここだけ
理由は様々だが、出産後シングルマザーが病気入院、
貧困による育児困難も無くならない、
育児放棄や育児ストレスによる虐待からの保護もある、
なので、親が居て、ここに居る子もある

Q:そういう場合、いずれ実母の元へ帰るのか?
A:残念だが、ほぼ、無い

Q:一般と、ここの子供に差があるか?
A:一人の子供に接してあげられる時間の関係か、
言葉や反応の発達の遅れは見受けられる

Q:里親については?
A:子供に恵まれない夫婦の登録が多い

Q:どうやってベアを決めるのか?
A:子供がなつくかを最優先に考える
あとは夫婦が本当に受け入れられるか
ペアの決定要素は様々。

Q:私は実子でも実感を得るのに時間がかかった、
他人の子供となると、男性側は受け入れがたいのでは?
A:やはり奥様が熱心なケースが多い

Q:賢い子や(みために)かわいい子が人気とか?
A:そういう感覚も否定できないが、
最終的には、いっしょにいられるかを見る
「鳴き声を聞いて、手をさしのべるか拒否か」、
それが里子成功の相性判断のポイントかもしれない。
あと、「お互いの体臭」も、判断になる。

Q:なにか私や一般の人にできることはあるか?
A:「だっこボランティア」がある
施設に来ていただき、子供たちをだっこして貰う。
1時間程度のことだが、特別に何をする必要もない、
職員で手が回らない部分を手伝いしていただく、
「ただ、だっこしてくれれば」ありがたい。
里親希望者も、だっこボランティアから入って貰う。

Q:カレーワゴンは、接点があるだろうか?
A:ここ(乳児院・児童院)の子供たちは、
あまり、外に出る事がない。
だから、外から来るモノに、すごく興味がある。
例えば、週1のゴミ収集車でも、大喜びする。
見たことがない車がきたら、
それだけで、子供たちは、大喜びする。

Q:カレーを提供するのは、たやすいが、予定を考えるのに休日とか?
A:ここにいる子供たちは、帰る所は無い。
だから、正月でも祝日でも関係ない。
私たち職員は、勤務として通っているモノも居るが、
ここが住居である子供達の家である以上、
施設側の都合で、休館などは、ありえない。

今回の訪問で、1つ、私の中に誤解があったことは、

現在の、乳児院・児童養護施設は、

昔のイメージの「捨て子の家」ではない、という事。

核家族化が進む影響だと言うが、

・出産後、母親の病気入院あるいは死亡
・親の刑事事件で、育児が困難
・断れない長期出張中の、ショートステイ
・両親の協力が無い10代の出産育児支援
・ストレスによる母親の精神疾患
・家庭内暴力からの一時避難

などがあって、終戦直後の「孤児院」から
内容が変遷してきた要因だと聞いた。

それに関連して、いろいろと子供の生きていく環境について
あれこれ調べてみた。

引用:愛着障害

乳幼児期に、あまり人と接してないと、PTSDになる。

「にげる、うそつく、ひとのせいにする、どなる」大人をみると、
乳児期になにかあったのか、考えてしまう。

愛着障害

社会保険の生活習慣病検診で、

「ピロリ菌」が発見された。

生まれて初めて、内視鏡検診を受けた。

もっと、カメラケーブルは細いのかと思っていたのに、予想外。

ノドの麻酔を、シューのタイミングに吸ってしまい、
大きくむせ込んで、その後は、まあなんとかなる。

若干、紅潮気味だが、キレイな胃壁。

2カ所ほど、口内炎のようなもの、発見。

これが、ピロリ菌の仕業だと説明を受ける。
生体検査で、試薬が紫に。

陽性反応で、そのまま内科外来に行く。

「ヘリコバクターピロリ菌」
おもしろい説明を受けた。

ピロリ菌は、4歳までの感染があって、体内に宿るらしい。

4歳を超えると、ピロリ菌が体内にはいった段階で、
嘔吐下痢など、拒否反応がはたらいて、住み着けない。

その拒否機能が働く前の4歳までに、感染しなければ、
いま、大人になって発見されないとのこと。

医者の説明では、
「親から、口移し喫食を受けた時、
親が保菌者だと、感染の可能性が高まる」

あるいは
「肥だめ肥料の野菜などから感染した時代もある」

うーん、なんとドラマチックな話だ。

なんだ、じゃあ、仮に、私のピロリ菌は、親から来たとして、
40年ちかく、私の胃にいたわけだ?

で、この20年くらい、強烈なアルコールの浴びせかけにも
耐えて生き延び来た分けか?

ちと、感激。

抗生剤で、対処したが、

2008年2月、完全駆逐できたか、再検診。

 

☆食に関し

飲食に関連して、

食から、体の応援ができないモノか?

なんて、考えたりしてみた。

身近に、人工透析を必要とする人がいて、
その食生活に、驚かされた。

私自身、2歳のころに、腎炎を患い、無塩食だった。

が、あまり覚えていない。

食とは、そういうモノだと思っていた。

しかし、健常の両親や兄は、それに付き合わされた食生活。

父兄は、ふたりで市街の食堂に通ったと聞く、
また、母は私が寝静まるまで、食を控え、
入院ベッドの下に隠れて、食事をしていた。
※私は知っていた。

人工透析というモノ自体、あまり理解してなかった。

腎臓の機能を、人工的に行うモノだ、ていど。

体験談を聞き、あるいは自分で文献などを調べて知ると、
なにも気にせず、普通に、おしっこが出る、って
「すばらしいこと」だと、あらためて自分の健康に感謝。

・水分の摂取コントロール
・カリウム(生野菜など)摂取の抑制
などなど。

もし、「食べることが第一」の人が、
この食事制限を受けたら、死にたくなると思う。

そして、それを支える家族も、大きくリズムは変わってしまう。

管理栄養士などの専門知識があるわけではないが、

知り得た範囲で、人工透析者でもオッケーな献立を考えてみた。

すると、私の得意料理は、ほぼNG。

多くの方に評判のスープ類は、野菜のうまみが凝縮されて、
たいへんウマイのである。

しかし、
人工透析者に「野菜のうまみの凝縮」は、NGなのである。

そうして、消去法で、得意メニューを判断すると、
あっという間に、「持ちネタ無し」となる。

「なんだよー、オレ、なにひとつ、飯作れないじゃん」
と、思うのである。

自分は結構、「なんでも出来る」と、常々思ってきたけれど、

その自信には、「前提条件が必ず付帯する」と言うこと。

健常者のための調理って、
「成功して当たり前の仕事」と思う。

ウマイ・マズイの前、
すぐ隣には、まったく違う世界がある。

世の中、いろんな事があるなー。

2007年2月

毎年恒例の東京方面、年始あいさつ周りの際、
築地の市場に出かけた。

そこで、マグロを仕入れるための店を開拓し、

いま、FAX1つで、いいところ、を送ってもらえるようになった。

4人の姫たち、
未成年の姫達は、魚が大好きで、マグロも大好き。
※成人の姫は、魚食べない。

皿に出すと、あっという間に、無くなる。

「おまえらー、それ1枚なんぼするとおもっとんじゃー」
言ってもわからんか....。

マグロもスキだけど、

大分市内のスーパー、
中島マルショクに、対面の鮮魚店がある。

ここも懇意にしてもらっていて、
「いいもの」を、出してくれる。

なので、「いいもの」が無いときは、
目の前に、たくさん魚たちが並んでいても
「旦那さんには売れん」
と、出してもらえない。

養殖モノもダメ、
天然でも囲いモノはダメ、

もちろん、合格で出てきたモノは、おいしいんだけどねーー。

食育のためとかではないけど、

この魚屋のおやじさんが言っていること、
理論で説明できないか、研究中。

天然と養殖の違いとか、
パック販売と対面販売の違いとか、

鮮度や、日持ちとか、異臭とか、ドロップとか、味とか。

システムチックに分類してみたら、
いろいろ見えてきた。

うまい・まずい、とは別に、

物理的に違い、がある。

そのレポートは、またいずれ。

あまり、人のレシピを参考にしないんだけど、

おもしろそうだったので、

「ジョエル・ロブション」
のレシピDVDを、そろえた。

ジョエル・ロブションさん
フレンチの料理人で、日本にも店がある。

2007年年末に話題になった
「ミシュランガイド東京」にも☆付きで紹介されている。

そのジョエル・ロブションさんが、
材料と手順を紹介するTV番組のDVDBOXだ。

春夏秋冬の4BOXで、季節の素材をテーマに、
約600品目くらいが、収録されているが、
どれも、家庭で再現できるようになっている。

特殊な機器も、アクロバティックな手順もない。

・鶏のホワイトソース煮
・スープ ヴィソワーズ
なんてのは、再現が簡単で、おいしい。

しかし、お国柄か、疑問もある。

・豚の腎臓
を、「おー、すばらしい、食欲をそそられる」
って、かなー?

・米を素材とした料理
「米料理と言えば、デザートですね」
えー?

人のレシピを受け入れるのは、私には難しい。

 

☆4人の姫たち

うちの、4人?の姫たち

2007年、大きな事故もなく、無事に過ごしました。

==========

長女は、小学校2年

住居の移転にもかかわらず、そのまま荷揚町小学校へ通学。

すこしづつだけど、クラスメートの個性に、
感情を左右されることがでてきたみたい。

いつもフレンドリーな彼女自身も、
自分と相手との距離感は多様であることを得て、

しかるべき対応を身につけつつあるみたいです。

さて、疑問が1つ

4月下旬の家庭訪問

予定時刻を、いくらまっても、現れず、

こちらが校区外通学ゆえ、
なにか多大な負担を、担任の先生に強いていたのでは?
と、不安も覚えて待つ。

日没となり、あまりに時間がさがったので、
小学校に問い合わせをすると、

「個々の訪問に時間がかかり遅れている」
とのこと。

私が、待っていたのは、30分程度の事ではない。

一般的に考えるなら、
「後日に予定組み直し」という程の、時間変更である。

それを、こちらが問い合わせするまで、
状況が把握できないとは、いかがなものなのか?

小学校は、サービス業ではないのかもしれないが、

「約束」の時間を守ることや、
「相手の事を考える」ことは、

学校という社会教育の場でも、
大切にされるべきではないだろうか?

「先生は、常に正しい」
なんて事は、無くなったのかな?

まあ、
「親が正しい」
という部分、自分に向けて考えると、
他人は疑問を持つのかもしれないし、

それと一緒か? ん?

次女も、元気だ。

数手先まで読んで、行動はするものの、
最後の詰めで、集中力を無くし、
「オッパッピー」な結果が多い点は残念だ。

彼女の通う幼稚園に、大きな竹藪があり、

そこから、1本、竹を頂いてきた。

竹藪は、見上げるような急斜面で、
そこに、ノコとナタをもって分け入った。

自分が小学校の頃、自宅付近の山で、駆け回っていた頃を思い出し、
特に、装備をすることもなく、山に入る。

もちろん、自分の体重に見合った枝振りの木や竹をつかみ、
急斜面を、目的の竹の位置まで進む。

しかし、人が入らない、その場の土壌は柔らかで、
82Kgの私を支えるには、あまりに弱々しい。

まして、急斜面。

不安定な位置で、目的の竹の根元に、
幾度とナタを振り下ろし、ノコで切り離した。

大きく倒れた竹は、下の駐車場まで届き、
下で引っ張ればとれそうになった。

しかし、登った急斜面、下りに窮する私。

いくつか斜面には切り取られた竹の鋭利な切り株が天を向いている。

その切り株に体重をかけようものなら大惨事。

踏みしめる土壌も怪しい。

私は、一気に、斜面を駆け下りた。

こけた.....。

下の駐車場の砂利まで、転げ落ちた。

大きなケガは無かったけど、
左腕に、打ち身と擦り傷を作った。

半年たって、いま、打ち身のアトは完治せず。

あー、小学校のころは、こんな山間、
まったく平気だったのに。

でも....、あのころの体重の2倍の今、
フットワークも衰えますがな。

でも、ノコ引く力は、大人なので、作業も早い。

子供のフットワークをとるか、大人の作業効率をとるか。

で、その竹は、

「そうめん流し」
をするためのモノでありまして。

パパの夏休みの工作で、

次女真凪の誕生会にあわせて、
そうめん流し大会が行われたのであります。

ちと、折り返し部分の精度が、イマイチで、
そうめんのスイッチバックが、滞り気味だった。

改良のポイントは、分かっているので、
次回があるなら、大きくて複雑なの作ろう。

三女、2歳

秋口から、
トイレトレーニング
を始めた。

紙おむつだと、後処理が廃棄なので簡単だが、
パンツに、うんちをやられると、捨てるわけに行かず、
ブツを処理して、すすぎ洗いして、洗濯に回して、
と、いろいろと面倒。

また、2時間おきくらいに
「トイレ行く?」
と、習慣づけをするわけだ、

出来たら出来たで、
「スーパーほめてあげる」
事も、大切。

紗代実は、
自分の体から、うんちが出てくる様子を、
「生まれて初めて見て」
悪いことが体に起こっている?
と、不安を感じていた様だったが、

「よかったねー」と
接してあげるうちに、
「良いこと」だと認識し、

たくさん排出時は「大物がでた」と、
自慢ネタに変わってくる。

トイレトレーニングが始まったと同時期、

一番大きな、「妻という姫」に
出張が増えて、家を空けることが多い。

結局、
三女と過ごす時間の多い私は、
「パパー、しっこー」「よし、トイレいこー」
「パパー、うんち、でた」(過去形?)「はいはい、じゃ、お風呂」

デモノハレモノ・・・・

こちらの都合は関係なしに、
「パパー」
と、お誘いがやってくる。

電話中だろうが、
調理中だろうが、

カレー仕込み中だと、いちど調理場を出ることになり、
また、全身消毒からやり直しなので、
(かんべんしちくりー)だけど。

まあ、しょうがない。

こちらが寝たきりになったら
「さよみー、うんち、でたー」
って、言ってやろう。

でも、相手してもらえるとは限らんか......。

引用:人体の不思議展
が、大分であった。

本当の死体を、樹脂化して、保存処理したあと、

医学的・学術的な資料として、切断、分解
あるいは、再構築をおこなった標本展である。

1997年夏に、福岡で公開されていたのを、
当時手がけていたTV番組の取材で目にして、
福岡で開催のたびに、赴いていた。

いつか大分に来ないかなー、と思っていた。

※1997年当時に人体の不思議展を大分の人に紹介したのは、
私のTV番組が最初だろう、と根拠のない自慢アリ!

大分の会場は、場所の関係か、
展示数もすくなくて、ちょっとがっかり。

うちの姫たちは、こういうの大好きで、
体の構造のイラストなどを見る度に、「人体」という。

もちろん、私、プレゼンが本職の1つであるので、
会場の展示を、子供にわかりやすく説明してあげる、
だから、おもしろかったと思う。

パパの解説付き動物園も、盛り上がりますな。
「くじゃくは、オシリがメインなんでー」
なんて。

人体の不思議展

事件といえば、事件アリ

長女が、市営のプールの水泳教室に通い始めた。

念願の「習い事」なわけです。

初日、帰ってきて、驚く。

なんと、プール教室参加者の名簿を持って帰ってきた。

氏名・連絡先などが、書かれている。

あれだけ、個人情報の問題が、世の中を賑わしているのに、
こんな事をする施設が、まだあるのか?

それが、市営のプールで、行われているのか?

さすが、「お役所仕事」と、思った。

早速、プールの事務局に問い合わせをすると、

・参加者同士の親睦のため
・連絡網のため
だと、言う。

また、個人情報保護の意識を問うと、
・住所は通称名までにとどめ、番地まで書いていない

あのねー、特定できたら、アウトでしょ?

あまりに、幼稚な運営なので、名簿の回収を依頼。

もちろん、そんな幼稚な事務局だ、
回収結果の報告など、受けていない。

2007年から、施設管理者制度の基づく、
運営外注が、同プールでも、始まり、
民間の会社が、運営を行っている。

つまり、お役所の話ではなく、この民間会社の資質の問題。

そして、この民間会社は、「あの件」とも結びつくわけで、

この会社を知る私としては、思いも複雑。

もともと、リテール業務なんて、
まともにやったことが無いから、
ノウハウもないわけです。

バブル期、銀行が、消費者金融に手を出して、
ノウハウが無かったから、大やけどして、
撤退したの思い出します。

いずれにしても、この個人情報流出事件は、
なにも解決していないので、2008年も引き続き、
整理に向けて、行かねば。

経過は、また、別途。

 

☆その他

黒子として、舞台に立ち

1月に行われた、
引用:後藤智江舞踊公演
での、出来事。

後藤智江舞踊公演

華麗な毛氈さばきに、観客が魅了される。

いまのところ、ハリウッドからのオファーは、無いですけど。

6月6日 別府市を中心に地震が続いた。

結構、日本では有名な断層があるとのことで、
怖いなー、って思っています。

カレー屋のおかげで、結構な食料ストックができています。

有事の際は、しばらくは避難生活できそう。

だけど、困った人達のところに、タダで持って行くんだろなー、私。

年金記録

話題の年金記録、ネット問い合わせしてみました。

日鉄コンピュータから始まって、
現アンクルアンティークまで、
8回の転籍でも、ヌケなし。

ヌケがある場合って、どんな場合なんだろう?

Macを買い換え

仕事から、Windowsも使うけど

主力は、ずっと、Macintosh

CPUの構成が大きく変わり、
買い換え時期をずっと、見守り続けて、
たぶん7年ぶりの新機種。

iMac 20 2.4 CoreDuo2 4G 750G Leopard

ずっと教員採用試験を落ち続けていた友人が、

2007年秋、合格になった。

家族・友人に、とても大きな変化があっても、それを支え続け、
自身も大きく疲労する時期もあったのに、

あきらめず、勝ち得たのは、すばらしいな。

私も、あきらめず、ロト6を続けようと思う。

doクラフト開業から、毎年12月25日は

Xマス&忘年会を行ってきた。

昨年だけは、会場の消滅と、こちらの移転で、
実施出来なかった。

みんなに会いたくなって、お誘いをだすと、
懐かしい顔が集まってくれた。

倉庫が集会場だったときは、30人くらいでも
平気だったけど、今回は自宅会場なので、
幾ばくか、声を掛ける範囲を調整した。

皆、おっさんになったし、
放浪者状態(私も含め)がパパになった。

しかし、根底は、変わらず。

みな、現状と理想に、思いがあり....。

 

☆2008年のキーワード

今年のキーワードは2つ

・事実確認
・居場所探し

・事実確認

自分の目で見て、耳で聞いて、味わって、触れて。

1985年解禁のパソコン通信から数えると、
20年以上、通信による情報教授をしています。

こと、インターネットの普及で、
「ネットに聞く」事で、多くの疑問が解決してしまいます。

ネット検索で、いくつか回答を得られるモノの、
それが事実かどうかの確認は、怠っています。

その社会現象に警鐘を鳴らすのが、
「Google八分」

検索エンジンは、Google と Yahooが有名ですが、
それらの蓄積情報が正しい情報なのか、異論を唱えた話。

機械的に自動的に収集された情報を
ある規則に基づき分類し、公平にランク付けして
表示をしている、とする大手検索エンジン運営会社。

しかしながら、政治・宗教・アダルト・犯罪
そして、自社との利害関係者の情報は、
意図的に操作されているという現象を

日本の風習「村八分」になぞらえ、
「Google八分」と呼ばれています。

大げさなことではない、
例えば、「すきやきの作り方」と検索し、
最初に表示されたレシピと、
20位後、次のページのレシピは、ちがうでしょう。

でも、その上位結果表示が「世の常識」と受け止められ、
閲覧者の記憶に残ります。

そうであるなら、ネットを利用した、
意図的な思想の流布が可能であり、
また流出情報の訂正は、ほぼ不可能となります。

すでに、マスメディアとして、
ネット情報の操作は、始まっており、
ネット従事者として、気になっています。

ネットに限らず、
普段の生活の中でも、

小学校の保険だより

「スポーツドリンクは2倍に薄めて飲んでください」という記事。

根拠も前提条件も曖昧で、
しかし、学校の保険担当という立場が、
書面で明記してあることに、ちと異論。

2008年の楽しみの1つ。

人の噂話とか、聞き伝えたネタとか、
言い伝えとか、民間療法とか、家訓とか

意図とか必要性とか、緊急性など。

しっかりと、自身で事実を把握した上で、取り組みたいと思っています。

・居場所探し

後継者指名から離脱し、
その他の事業の関係も計画になく、
そろそろ、今の場での役目も一段落になりそうと感じています。

相手に合わせて中途半端な対応の積み重ねが、
この10年、たくさんあるみたいで、

あの件に関連し、その立場を守るべきと、
主義に反するのにNoと言わなかった事も多い。

2008年は、その整理かな。

2007年に向けて

☆2006年 81点

2006年頭に公言したキーワードは3つ
 ・新生活
 ・飲食業
 ・60点

・新生活

新生活には、2つある。

1点目は、

山崎雅治さんになって以来、ずっと過ごした、城崎町のマンションから、
戸建て新築へ引っ越した。

城崎町のマンション、
2人から始まった住人は、3人の娘さんたちを迎え、
5人家族が、喜怒哀楽を詰め込んだ一室だった。

生活の不自由を感じていたわけではないが、
老人夫婦と同居生活を考えての引っ越しである。

引っ越しを迎えるに当たり、私、根がシステム屋なので、
入念の事前計画やら、トラブル予測などを、
綿密におこなった、入魂のプロジェクトだった。
私にとっては、職場(会社)の移転でもあったわけで。

さらには、単に引っ越しという事ではなく、
新築で、さらに注文住宅である。

建築士・建設会社と、定期打ち合わせをおこなって、
こちらの意向を伝えて、仕上げてきた。

うーん、結果オーライではあるが、予測できなかった事も多く、
引っ越しの是非まで、再考させられることもあった。

住み慣れた、ストレスの無い城崎町の生活も捨てがたいが、
上春日町の新築も、必要に駆られての環境であり、
もう、今の生活はマンションでは、ムリ。

して、引っ越し屋に頼まなかったからであるが、
結局、城崎のマンションも、いまだ片づかぬママである。

新生活の2点目

飲食業の開業である。

年初、
いくつか、飲食業への関わり方を模索していたが、
結論として、

「移動販売のカレー屋」
となった。
カレーワゴンNo2mas

・飲食業

年初の記述によると
————————————————
 方向性としては、
 ・洋食店
 ・居酒屋
 ・弁当屋
 ・給食屋
 というところか。

 開業にまで至るのか、
 システム構築だけに終わるのか、
 試行錯誤だけの1年となるか。
————————————————
とある。

これから判断すると、まだ2006年初時点では、
開業の意識は低かったようだ。

それが開業に至った経緯は、別述で。

・60点

出しゃばりすぎないことを数値として、
「60点でありたい」
と、表現した。

これは、達成できたと、感じている。

どちらかといえば、「引きこもり状態」であったので、
外交の機会が無く、出しゃばるチャンスがなかっただけもしれず。

—————–

2006年、振り返ってみれば、
山崎さん任務が多かった。
幼稚園関連・葬儀・株主・引っ越し、などなど。

馬場さん的活動は、下郡の消滅以降、
フェードアウトっぽい。

あ、でも、カレー屋は、馬場さん的だな。

また、今年、山崎家、統計開始(いつ?)以来、
初の人口減となった。

結果の81点は、昨年72点より向上した。

自分自身としては、充実の1年と思っており、
もう少し、高得点でも良いとは感じているが、
「うまく行かなかったこと」がゼロでもなく、
そこに自分の欠点が影響しているなら、
減点対象であろう。

39歳、未だ「日の出を制する」には至らず・・・・・

総合評価81点

1年のメール:・・・・・・

5月初旬、パソコンの破損で、
メールの一部が、紛失したため、正確な数字が把握できず、
今回は、提示無し。


☆バスを買いにいった

2005年末、
やまばと幼稚園で、図書室を拡充する計画があった。

創設以来、30余年が経つ、やまばと幼稚園は、
園児の増減に併せて、教室や職員室、準備室の配置や
レイアウトを変化させて対応してきた。

その結果、図書室が、「なんとなく」な状態だった。
スペースの都合で、やむを得ず。

広大な敷地であるが、平地は少ないため、
園舎に増築するなら、運動場を食い込むことになる。

できれば平地は有効利用できるようにしておきたい。
また、図書室だけを新築するわけにもいかず。

そこで、マイクロバスの中古車を購入し、
客席をはずして、ひろい部屋と見立てて図書室とする。

普段は、園舎に併設駐車をして、図書室として利用し、
運動会などスペースが必要な場合は、
自走して、移動すればよいのである。

さて、では、中古のマイクロバスを探しましょうと、
通園バスをお世話頂いている日産自動車に問い合わせ。

結果、希望は叶わず。

新車なら用意できるが、中古車、特に中型バスは、
アジア方面など、需要が大変多くて、まず、手に入らない。

そういえば、やまばと幼稚園にも、
中古車業者から、「手放す計画はないか?」と
問い合わせがあるくらいだから、簡単には、ないのだろう。

2005年末から、そういう事を考えていた。

ある日、
「そうか、ネットで中古車を探すべ!」
と、さっそく検索をかける。

もちろん、たくさんの情報があった。
いちばん、数が多いのが、大型路線バスの中古。
30〜50万円程度で、たくさんあった。

しかし、これでは、幼稚園の敷地まで、大きくて入らない。

中型マイクロバスが、ちょうど良いのだ。

もちろん、無いわけではない。
しかし、大きさがぴったりの車体があっても、
価格が高かったり、自走が困難だったり。

なかなか、うまくいかないな、と思っていた2006年3月。

ヤフーのオークションで、ナイスな物件を見つけた。

日産シビリアン 平成2年 70万円

これはいいと、出品者と連絡を取り合って、
状態の確認などを、おこなった。

幼稚園からも、購入の意志が出された。

車体は、神奈川県にあった。

父と娘の二人旅シリーズ「自動車日本列島mini縦断」

その後、しばらく、幼稚園の行事や、
こちらの対応で、放置されていた車体であるが、

ようやく、車内の整備が終わり、小規模ながら、
「移動図書館」が完成した。

今後は、棚の組み方を試行錯誤しながら、
本の出し入れがしやすく、
より多くの図書を載せて行くと思われる。


☆荷揚町小学校

長女 詩音が、4月から小学1年生になった。

2006年4月当時は、大分市城崎町の住人だったので、

大分市立荷揚町小学校へ、通うことになる。

彼女の様子を簡単に言うと、
「頭のてっぺんからつま先まで、心底、小学校が楽しい」みたいだ。

毎日毎日、学校に行くのが、楽しくて楽しくて、仕方ない様子。

うちの娘さんたちは、
カミサンの経営する、やまばと幼稚園に通っている(いた)。

自営の幼稚園なので、困ったことがあれば、職員室に行く、
そうすれば、ママがいる。

先生たちも、園児を差別をすることはないが、
多少「理事長先生の娘さん」という扱いが
無いわけでもないと感じる。

今回、詩音が、荷揚町小学校に入るということは、
生まれて初めて、親の居ない場所で、生活をするに等しい。

周囲も特別な扱いをしないし、
本人も、直面する壁は自分で、解決しなければならない。

また、よそ見したり、他のことに気を取られがちな性格だ、
登下校時、なんらかのトラブルや事故にあわないか。

カミサンと「大丈夫かしら?」と心配した。

なんだか、福岡の短大に合格したので、
一人暮らしを始める、ような感じだ。

入学当初は、下校時間になったら、
なんどか、校門まで迎えに行こうと思ったし、
実際、なんどか、様子が気になって、近所まで出かけたことがある、

ところが、根がフレンドリーな彼女だ。

下校時に、時間がかさなったお友達とにぎやかに帰っていた。

心配せずとも、大丈夫なのかな、
詩音なりに、自分の生活環境は構築出来るみたいだ。

下校途中、おしっこしたくなったら、
駆け込むクリーニング屋さんも、自分で開拓していた。

高学年のお兄さんお姉さんに比べると
まだまだちっちゃい、詩音は、
自走式ランドセルのような状態で、
毎日、学校に向かう日々の1学期も
あっという間に、終わり。

夏休みに入って、引っ越しがまっていた。

上春日町に引っ越すと、小学校区が変わるので、
西台小学校へ転校になる。

私は、2学期から、そうするものだと思っていた。

ところが、詩音は、このまま荷揚町小学校に通うという。

まず、私は「ダメだ」と言った。

私の幼少のころの記憶では、
下校後、近所の仲間たちと、遊ぶことが、
今の自分を作った、大切な経験であったことが多い。

校区外通学となると、そういう時間も出来ないし、
休日あさから、友達と遊びに出ることもできないだろう。

もう1つの反対理由、「送迎」が必要になってくる。

私もカミサンも、仕事の都合などで、
うまく下校時間に合わせられることを保証できない。

どちらかが任務を放棄して、送迎にあたらねばならない。

引っ越し後、おばあちゃんが滞在する予定だったし、
出るに出られない時に、お迎えはどうするんだ?
そういう、大人の理論で、反対した。

その解決案は、ひとりでバスに乗って、通学するという。

私は、荷揚町小学校継続反対を掲げた以上、
理由もナシに「じゃあイイよ」と転換はしたくない。

家族会議の結果、
「バスに乗って、一人で行き来が出来るようになったら」
という、荷揚継続の容認条件を、提示した。

夏休みの間、なんども、大分バスに乗って、
行き帰りの練習を重ねた。

最初は、同伴して乗っていたが、
時期をみて、単身乗車をこなし、
結果として、夏休みのプール教室に、
「勝手にいって、勝手に帰ってくる」ことを
成し遂げてしまった。

これでは、容認せざるを得ない。

8月下旬の登校日
「先生に、2学期も荷揚に来ます、と言ってもいいよ」
と、送り出した。

もう1つ心配事。

詩音は、大変、正義感の強い子だ。
順番の割り込みや、たばこのボイ捨てなど、
許せない。(私もそうだが)

私は、
「詩音ちゃん、あなたから注意された人が
 まともな人とは限らないから、
 自分を守るために、出来るだけ我慢してね」
と、それが心配だと話して聞かせた。

さて、2学期が始まった。

結局、あれこれやりくりして、送迎している。

つまり、一度もバスに乗ることが無く、2学期は終わった。

そうそう、荷揚町小学校は、
全校生徒196人(2006.12.24時点)だ。

1年生は、28人。

この規模だと、授業参観も、運動会も、
スペース的に余裕があって、大変心地よい。

2年生に、ルーカス・シャムスカ君がいる。

彼のパパ、ペリクレス・シャムスカ氏は、
サッカーJリーグ「大分トリニータ」の監督であり、
いまや県内外に限らず、時の人である。

もちろん、運動会には保護者として参加していた。

そして、荷揚町小学校の、多くの生徒の赤白帽子には
シャムスカ監督の直筆サインが、あるのだ。

なんだか、荷揚町小学校、いいじゃん。
と、思う私。

でも、卒業まで、このままなのは、いかがなモノかな。


☆2大巨星が逝く

いつか、その日が、来ることはわかっていた。

でも、それが今年2006であることは、わからなかった。

大分の地で、偉業を成した、二人の老夫婦が、
順序よく、次の世界へ旅立った。

この二人の長かった人生の中で、
ほんとうに最後の短い時間のなかで、
私を家族として迎え入れてくれて、
かわいがってもらった。

山崎正巳 2006年5月28日  享年88歳
山崎立子 2006年11月21日 享年84歳

私は、両名の事について、語れるほどのものはない。
そういう事は、他の方にお譲りして。

正巳・立子と接してきた中で、一番に感じるのが
「人として生きると言う事は、こういうことなのだろう」
と、思う。

まず、自分自身がしっかりと、自己を確立する。
そして、有形無形の足跡を残し、周囲を愛する。

個別の取り組みに、方法論で賛否が出たら、
きちんと正面から対応する。

決断には、勇気をもって、揺るがない。

「成す人はいつの世でも成す」
そう感じてしまう。

そして、確かに、この二人の存在は、
社会的にも大きな意味を持っていた。

なんだか、1000年女王みたいだな。

正巳・立子の世代交代が、雅治・佐和子か?

うーん、いまのところ、そんな気配なし。

自然の中で、生と死は、いつも無計画だとおもう。

うちの3人の姫たちは、出産予定日に生まれていない。

また、正巳・立子も、予定した日に逝ったわけではない。
※別に、予定日を決めていたわけではない。

しかし、天皇家の男子が、生まれた2006年、
彼は、出産前に誕生日が報道されていた。

これは、どうなんだろう.....。


☆お引っ越し

2005年末から、計画を進めていた、上春日町への引っ越し。

注文住宅で、設計士を立てての新築である。

当初、5月下旬には、完成予定で、

私のネットワークセンターも、そちらに移転を計画した。

・全室、収納(押し入れ・クローゼット)は無し
・廊下は、ストレーッチャーが回転できるよう幅180cm以上
・コンセントは、210cmの位置に
・分電盤は、1コンセント1回路で
・温水は、深夜電力系・ガス系と細かく分けて
・水道は、すべてセントラル浄水を採用
・老人・乳幼児のためのバリアフリー

などなど、せっかくなので、こちらの意向を盛り込んでもらった。

しかし、長雨かつ梅雨時期にかかり、完成はズレ込むばかり。

それと並行し、時間が経つにつれ、絵空事であった飲食業開業が、
なんだか、現実味を帯びてきて。

急に、新築の台所を、飲食業許可を取得できるように設計変更。

もともと、シンクなどは、世の奥様方がよろこぶような、
アイランドキッチンなどのシステムキッチンではなく、
嗜好の筋から、IHも不採用。

開業の気持ちが高まると、すぱっと行動開始。

さっそく設計図をもって、保健所へ相談に。

要点となるのは、衛生管理。

外界との遮断、出入り口での手洗い。
そして、掃除が容易な構造などがポイントである。

設計士・建築会社・設備会社、急な方向転換に、
「ええー!!」というところも、なきにしもあらずだった、
なぜなら、一般住宅に不似合いな台所が、建築許可になるのか?

専門家の間では、そういう心配が少しあったみたいだが、
なんとかして、設計変更に取り組んでもらった。

家族全員、新築の大きな目的であった「祖父祖母と同居」
を始めるのを楽しみにしていた。

「今年(2006)の大晦日は、にぎやかやな」、
そう言って、デジカメに撮ってきた進捗状況を
見て言った祖父が、5月28日、他界した。

祖父も、私たちも楽しみにしていた、新築だったが、
彼は、自らここに足を踏み入れることがなかった。

未完成ながら、正巳が、この家に帰ってきたのは、7月14日
それは、彼の四十九日の法要だった。

以後、細かな仕上げを経て、
2006年7月21日、ようやく完成した。

ちょうど、子供たちも夏休みに入り、
5人で、協力して、引っ越しの開始。
※プラス正巳の法要対応。

引っ越し屋に頼む方が、効率的だし、
費用的にも、結局安上がりと、判っていたが、
なんだか、勢いで、自分たちだけで、着手した。

幸い、ワンボックスワゴンが、あったし、
カレー屋開業のための、デリバリーバンがあったため、
城崎や立小野から、大小の荷物を運び込めた。

その間に、突然の設計変更で、仕上げてもらった、自慢の厨房について、
保健所の検査を受けて、晴れて「食品製造所」となった。

8月13日、ようやく人が住める状態になってきたので、
療養施設に居る立子おばあちゃんを、外泊にして、滞在してもらった。

私たちが考え抜いた、老人用の部屋や設備は、うーん50点というところか。

おばあちゃんには大きすぎ、広すぎな所もあって、最高点とは行かなかった。

おばあちゃんは、曾孫さんたちとおふろにはいったり、大笑いしながらご飯を食べて、
近所の散歩や、デパートへのお買い物などなど、楽しんでもらった。

また、台風も近づく中、みんなで花火を楽しんだ。
私は、祖父正巳も居る、この状況を楽しみにしていたのだが.....。

荷物の運び込みと併せて、棚の準備なども、繰り返す。

日々の衣食住をこなし、城崎とホームワイドを何度も往復をしながら、
あっという間に8月も終わった。

ようやく、ペースがつかめてきた9月。

私は、カレー屋を開業した。


☆嫌われ松子の一生

「嫌われ松子の一生」

そういう小説があるらしい、

そういう映画があるらしい、

そういうTVドラマがあるらしい。

女優 内山理名さんが、TV版主役の松子を
好演しているという話は、どこぞの芸能ページでみた。

その程度の認識だった。

あるとき、福岡のネット製作会社の知人から連絡が入る。

ホームページ製作を、ご一緒したことがある。

「馬場さん、嫌われ松子、見てます?」
「はい?、や、見てません」
「実は、あのTVドラマの影響でね」

彼の話を要約すると、

松子が、風俗嬢だった時代の放送回のあと、
内山理名さんが「美麗なソープ嬢」だったので、
風俗への就職を考える女の子が増えたらしい。

で、風俗の就職サイトの拡充を企画したとのこと。

「で、馬場さんって別府の近くですよね」
「はあ、車でちょいちょいですが、何をしろと?」
「店はこちらで段取りますから、話聞きに行って下さい」
「僕がですか?、製作される人がいったらイイじゃないですか」
「やー、今回、予算無くて、話だけなんですよ」
「てことは、グルメ番組で試食ナシ、ですか?」
「そうなんです」
「えー、そんなー、つまんねー」
「だから、こっちも交通費使ってまで、誰も行きたがらなくて」
「で、僕ですか?」
「車でちょいちょいでしょ?」
「・・・・・」

後日、インタビューに応じてくれる、お店をきいて、
秋空のお昼時、別府の歓楽街に、赴いた。

別府は、12時から営業している店も多いので、
目的地に向かう途中、何人かの客引きにであう。

別にやましいところは、ないのだが、
どうみても「昼真っから風俗お遊び」に見えるし、
ご縁のある空調会社は、ここいらの保守で入っているから
ばったり出会うことも、あるかもしれず。

なんだか、荷の重い仕事だなー。

お店に入って、店長にご挨拶すると、段取りができているのか、
すぐさま、ひとりのコンパニオンさんが出てきてくれた。

今回のインタビューは、就職サイトに掲載する、
「私がこの会社を決めた理由」的な部分に使用するらしい。

安雑誌にありがちな、ライターが想像で書いても
済むようなことかもしれないが、企画者の意向で、
「生の声」を載せたいとのことだ。

・就職の動機
・この会社を選んだ理由
・就職時にわからなくて困ったこと

などなど。

彼女の話の中で、印象に残るのが
「介護士となにもかわらないです」

身体洗って上げたり、
マッサージして上げたり、
たしかに、変わらないか......。

そして、彼女は、自信と誇りをもって、
日々、男性のストレスを洗い流し、
欲望希望を叶える、この仕事をしている。

世間様では、風俗は影のイメージも残るようだが、
考えようによっては、これもアリかもしれない。

うちの娘が、介護士になって
「身体洗って上げたら、喜ばれた」
と聞くと、私も立派な事だと思うだろう。

では、
うちの娘が、ソープ嬢になって
「身体洗って上げたら、喜ばれた」
と聞くと、さー、どう思うかなー。

やはり、「立派な事」と思うだろうなー。

自分のカレー屋と比較して、考えた。

カレー屋、製造途中でたくさんの廃棄物をだして、
販売時も、器や袋など、ゴミがでる。
自然界に対して、悪いことをしているじゃないか。

うーん、製造業は、ダメかなー。

そんな、ちょっとした時間に得たネタで、
あれこれ、考えさせたれた。

なんだか、風俗もいいじゃないか、と思った。
※開業の予定はありません。わはは

帰り際
「サービスしますから、次回は、ぜひ、お客様で」
と、いって、見送ってくれた。
※次回があったのか?

やー、でも、金払って、客で行くなら
中州か吉原の高級店がいいな。

そう思いながら歩いていると、出がけに寄ってきた客引きから
「お疲れ様でした、次回は、うちにどうぞ」と見送られる。

あー、きっと遊んできたと思われてるな。

せっかく、ここいらに来たので、商店街に向かい、
ヒレカツカレーで有名な「なつめ」に立ち寄って、

「食欲」だけ、満たして、別府を後にした。


☆カレーワゴンNo2mas

突然、カレー屋を始めた。

それも、お店ではなく、車で売り歩く移動販売で。

なぜ?
なぜ??
なぜ???
と、聞かれることも多いのだが、私にとっては自然な流れ。

数多く、自分の抱いている興味の対象の1つに、飲食事業があった。

そこに、2005年から2006年にかけて、自分の周囲で、
技術を身につけ、環境が整い、やる気の周波が合っただけである。

1994年夏、
当時、OCT(現大分ケーブルテレコム)の制作責任者であった大島三明氏に、
「なんか放送すんネタがあんのなら、作っち流しちいいど」と、話を頂いた。

もしかすると、大島氏は冗談だったのかもしれないが、私は本気にした。

「自分でTV番組作るなんて、なんてステキな話だろう」

そこで、TV番組を、自分だけで本当に始められるのか、思案した。
資本があっての事ではないから、低コストで、実現させねばならず。

映像機器・編集機器、そして放送内容の企画など。

大分美術研究所 二宮圭一氏とのご縁で、放送内容は、
「現代美術作家のドキュメンタリー」に決定。

映像機器は、民生用ハイエンドという商品が出てきつつあった時期、
SONY Hi8 3CCDビデオカメラ

編集機器は、ようやくコンピュータ編集の「素人マニア用」が
普及しつつあったときで、それらをそろえた。
※DeskStudio のち Media100

準備と並行して、二宮氏と、福岡まで現代美術展の取材に赴いた。

そして、突然、1994年11月21日 0:00
「NEWAGEARTCUT」が始まった。

同番組は、2000年3月31日までの、5年半続いた。

なので、飲食開業も、突然ではあるが、もともと持っていた興味が、
実現に向けて、動いただけだ。

それは、昨年の大型免許取得も、同じ事である。

2006年8月下旬、友人・身内へのテスト販売を終えて
本当に営業を始めた、2006年9月9日から、
4ヶ月が経って、朝の出店準備も慣れて効率よくなってきた。

いくつかのメディアでも、取り扱ってもらった。

・車はかわいい
・パッケージもステキ
・カレーは、おいしい(自薦他薦)

残るは、「店長のヤル気」だけの状態。

でも、店長さんは、以外と、ルーチンワークを文句言わずに、
淡々と続ける才能もあったりで。

ひとまずは、四季を体験してから、次の展開を考えるつもり。


☆その他

・頸椎のヘルニア

2月くらいに、右腕がしびれたり、指先が動かしづらかったりした。

以前、開業医の整形外科に、いったら、
流行の(利益率の高い)星状神経ブロック注射をされただけで、
なにも進展がなかったので、総合病院に行った。

————————————————
1991年3月10日、
電柱に衝突して、大事故を起こし、
そこで、運び込まれた先が、大分中村病院。
————————————————

それが、縁というわけではないが、今回も中村病院。

そこで、MRI映像から、頸椎5・6番に、ヘルニア発見。

腕の神経への分岐点を圧迫しているらしい。

なので、しびれの原因は、これだろう、ということに。

切除するまでの事態ではないが、
この先の人生にも付随してくる要件であることはたしか。

・葬儀

今年は、主催の葬儀に2回参加した。

北九州から、大分に来た私は、
親戚がこちらにいるわけでもなく、
火葬までお付き合いする葬儀は、初めてだ。

なので、知らぬ慣習?も、多かった。

通夜あけて、昼食時、
あちらこちらで、主催者側が、
協力者たちに、声をかけている。
「おとき、なおってください」

なんじゃ?、それ?

つまりは、葬儀手伝いの人たち用に
準備された昼食を、食べて下さい。

ということなのだ。

ちなみに、おときは、葬儀中に供される食事の総称のようで、
「お斎(おとき)」と書くらしい。

なので、手伝いの昼食という意味ではないようだ。

その昔、仏教僧侶の、その時間だけに許された食事を、時食と呼んだらしい。
それが、斎(とき)食となったのでは、と言われている。

・カレンダー

2006年2月、やまばと幼稚園の作品展に、関連して、
「今井 アン」作品展を並催した。

その際に販売されていたカレンダーを、
私のこれまで出会ってきた知人友人に、
約200名ほど、発送した。

もちろん、最新の住所がメインテナンス出来てない人もいて、
宛先不明で返ってきた人もいるが、多くの方から返事を頂いた。

意外と、みな、自分の事を覚えているものだと、感心した次第。

・弱ってきた

なんだか、2006年は、手に弱気を感じてきた。

まあ、商業ピアニストでは無いので、
敏感な動きを制されても、なんとかなるであろうけど。

IT屋として、「涼しげなキーボードタッチ」が出来なくなると
思考も、暑苦しくなってしまった、なんだかめんどくさい。

せっかく始まった飲食業も、花板の包丁さばきは、ないけど、
4キロの肉をきったり、猛火の中でカレーを仕込むには、
健康な手でありたい。

カレー屋で、お釣りをもらうお客さんも、イヤだろうし。

そんな事から、将来の事まで考えてしまう。
なにげ、近親者の前では「実はねー」と、弱含み。

イカンですな、弱キャラでないので、しっかりいきましょう。

2007年は、強く行くだ!!


☆2007年のキーワード

今年のキーワードは2つ
 ・飲食業
 ・40歳

・飲食業

突然始まった、飲食業。

意外と、反応はよろしい。

これまでのIT家業と同じく、自分が好きなモノを提供している。

私的に言うと、
「これは、うまいと自信あり」
となる。

とはいえ、IT屋として、多くの経営支援をしてきた経験から、
「良い商品が売れる訳ではない現象」も理解できるし、
きっかけは、別の次元であったりする事も、よくわかる。

2007年は、カレーワゴンを通じて、
ありとあらゆる商品戦略・流通計画を、実現させていこうと思っている。

・40歳
 
2007年10月15日
40歳になる。

同級生に、プロ野球「清原」も、同世代。

最近、なんだか、彼が好きだ。(お会いしたことはないけど)
佐々木と愚痴って飲んでいるTV番組で、偶然鉢合わせの
王貞治には、やはり頭が上がらない所をみて、
なんだか親近感を感じた。

30代、なにをしてきたかな?
なんどか、決断を迫られた事があった。

そのたび、助けられて、なんとかやってきた10年かな。

40代の10年は「好き勝手」にやっていきたいな。

なんて、思う。

とある、企業グループの件

書面手続き上は、整理ついたのだけど、
気がかりもあるし、私の周囲(知人友人)は、
そうは思っていない所もあって。

また、決断の一年かも。

立子日記

私が、日付を記憶している事、あるいは当日に記録として書き記してあった事。
また、写真などが残っている事を綴った。

もちろん、他のアルバムや、周囲の協力を求めれば、もっと話題はあるだろうが、
ひとまず、私の可能な限りの情報で、立子さんを描く。

思えば、ずっと一本道

2002年11月23日

立子さん80歳の誕生日会を、大分市の大分東洋ホテル(当時)で行った際、

彼女に「80年を振り返っての感想」と、私は問いかけた。

その答え、
「そうなー、お父さん(正巳)と、いっしょになって、あれこれやってきたし、

いろんなこともございましたけど、思えば、ずっと一本道を歩いただけですな」

そう答えた。

私(雅治)が、立子さんと、出会ったのはいつだろうか?

もちろん、佐和子との出会い(1989.7.28)が先ではあるが、
そう時間も空けず、お会いする機会があったと思う。

昔から、立子さんを知るひとは、彼女の象徴として
白いフォルクスワーゲンビートルを挙げる。

※これは立子さんが使用していた現車ではありません。

私にとって、立子さんを象徴する車と言えば

「くうねるあそぶ」「お元気ですか〜」の、日産セフィーロだ

いつだったか、セフィーロが発売された当時(15〜16年前?)、
私のオフィスに、佐和子がセフィーロでやってきた。

「どしたの?」
「おばあちゃんの」
「おばあちゃんが、セフィーロにお乗りになりますか?!」
と、率直な感想の私。

もちろん、事実だった。

私が業者として、やまばと幼稚園に出入りし始め、
園に訪問の際も、ご自身で運転されているところを見たことがあるし、
なんらかの打ち合わせで、私のオフィスにお越し頂いた際も、
さっそうと、車を降り立つ姿に、男気を感じたモノだ。

2000年4月28日

立子さんが、骨折してしまった。

佐和子から電話が入り、「何も言わずに上春日にきて」と。

なんだろう、ともかく城崎から向かった。

到着すると、立子さんは室内で車いすに腰をかけて静かにしていた。

上春日の家に、遊びに行ってた詩音を、抱きかかえ、
蛍光灯のヒモをいじっていた際に、バランスを崩し、転倒。

一見、外傷もなく問題なさそうだったが、左大腿骨頭を骨折していた。

そして、この日から、長期にわたる入院生活が始まった。

いつのまにか、私は、毎日のように、県立病院に通うようになった。

早朝の県立病院周辺は、通勤ラッシュで混み合い、面倒だった。
その見舞い通院が簡単になるように、使っていなかった原付バイクを整備した。

入院が長期化したのは、今回の死因につながった動脈瘤の存在である。

大腿骨頭の骨折は、折れた部分を、金属で固定するだけなので、
大手術ではないが、麻酔などの投薬で、血圧が変動してしまい、
動脈瘤が破裂することを心配された。

つまり、病気というわけではなく、手術に備えての
体調作りが、入院の目的であった。

5月19日に出術は成功し、リハビリに入る。

内科的に、特段悪いところもなく、立子さんの敵は「退屈との戦い」であった。

なにも出来ず寝てるだけなので、次第に足腰も弱って筋力が落ちてしまった。

なんとか、ベッドのままで体力維持をすることができないか、考えた。

廃用性症候群対策「立子シフト」

そう、この入院の時から、「見舞いに、おごちそうを運ぶ」習慣?が始まった。
とんかつ・ミネストローネ、と幾度か、お届けした。

2ヶ月以上にも及んだ長期入院は、私と立子さん、そして山崎家の精神的距離を縮めた。

おもえば、結婚当初、なんだか山崎家にうまくなじめない私は、
じいちゃんのお盆の入院がキッカケで、家族の一員になった気がする。
そういえば、それまで「会長」と呼んでいたのを改めたのはこの時だったと思う。

この老人二人は、ときおり入院騒動で、家族の絆維持に一役買っていた。

2002年11月15日

詩音の七五三

上春日の家で。

寝起きなのか、身支度が整っておりませんが、
しっかりと、詩音を迎えてくれました。

※詩音(3)とツーショット

まだ、このころは、老人ふたりの本拠地が上春日の家であったので、
友人や三信工業の関係者が出入りし、立子さんも人と接する機会も多かった。

2002年11月23日

※80歳の誕生会、ご夫婦で。

立子さん80歳の誕生日会を、大分市の大分東洋ホテル(当時)で行った際、

彼女に「80年を振り返っての感想」と、私は問いかけた。

その答えが、
「そうなー、お父さん(正巳)と、いっしょになって、あれこれやってきたし、

いろんなこともございましたけど、思えば、ずっと一本道を歩いただけですな」

そう答えた。

紆余曲折が無かったわけではないようだし、決して平坦な道でも無かったようだ。

設備業から、一転、教育業務に着手するなど、端から見れば、
いろいろな指摘や意見も合っただろう。

しかし、立子さんにしてみれば、結論として、自分に用意された一本道を、
しっかりと歩き続けてきただけだ、と言いたかったのだろう。

2004年11月13日

※詩音(5)・真凪(3)と、3人で。

詩音・真凪の七五三

宮参りのあと、立小野で待つ立子さんを訪問。

着物には造形の深い立子さんも、かわいい曾孫の姿を喜んでいた。

老人二人の本拠地が、立小野になってから、
立子さんは、引きこもりのような生活になってしまう。

私たちも、立小野となると、なかなか足が遠のいてしまっていた。

2004年11月26日

※着物屋さんとプラスル・マイナンと。

三信工業本社恒例の、Xmasツリー点灯式。

寒いが、おしゃれに着込んで参加してくれた。

詩音・真凪は、プラスル・マイナンに扮装した。

2005年2月18日

じいちゃんが、私にカメラをもって立小野に行って欲しい、という。

なにかと思えば、立子さんが、生け花をしたので、
それを記念に撮影しておいて欲しいということだ。

やれやれ、と思いながら、特段予定もなかったので、
デジカメ・フラッシュ一式をもって、立小野に。

家に入ると、キレイに生けてあった。

※ひさしぶり楽しかったと自慢の作

2006年1月2日

お正月は、家に帰ることもなく、正巳・立子は陽光苑にいた。

そこで、私たちは、なにかごちそうを持って行こうと考え、
ステーキをその場で焼いてあげようと思った。

ちいさなホットプレートを、陽光苑に持ち込んで、そこで焼き上げる算段だ。

しかし、あまり激しくやると、煙がでて施設管理者から怒られかねないので、
持ち出す直前に、50%程度、火を入れておいた。

陽光苑の自室に入ると、二人とも、なにをするでもなく、居た。

「ばあちゃん、ステーキもってきたで」

洗面所のところのコンセントで、用意してきた材料をだし、
仕上げのステーキソースを掛ける。

とてもいいにおいが部屋中にたちこめ、二人とも、反応してきた。

今回は、立子さんメインのイベントであるので、
1セットだけの持ち込みだった。

まあ、1枚をふたりで食べてちょうどいいなという計算ではあったが。

懇意の中島マルショクホリズミ精肉で、「今年一番のフィレ」と
お墨付きの逸品だったが、確かにうまかった。

立子さん、一切れ二切れ食べて、「おいしゅうございますな」とご満悦。

じいちゃんも、数切れ食べていた。
あまりにおいしかったのか、でも、遠慮があるのか、
私に言わずに、詩音ちゃんに「もうちっともっちきちくり」と所望。

結局、じいちゃんが過半数を食べたことになる。

陽光苑にも、怒られることなく、出張ステーキセットは任務完了。

そうか、じいちゃんメインの時は、刺身だから機材は無しだ。
マグロが好きだったな。

じいちゃんが、亡くなる2日前、ステーキが食べたいと言ってきた。
きっと、この味を求めての事だろう。

「そんな、急に今日言われて今日はできんわ」と取り組まなかった。
事実、前述のステーキは、温度管理とコショウ振り後の保存など、
いくつかの調理手順で、あの味になる。
取り繕って持って行き、「なんだか違う」と思われるのは、
せっかく、「あの味」を求められているのに、ダメだと思ったからだ。

次、面会するとき、直接要望を聞いて、用意しようと思っていた。

しかし、じいちゃんにステーキを食べさせてあげる機会は、無くなってしまった。

2006年5月28日 01:35

長年連れ添った、夫が先立とうとしていた。

心肺も停止し、医者から臨終を告げられた。

そばで、様子をみていた、立子さんが、立ち上がって、
私に聞いた
「じいちゃん死んだ?」
「うん、たったいま」

立子さんは、そのままベッドへ行き、
正巳の枕元に覆い被さった。

号泣した。
「このバカたれ、私をひとりにしてから」

見合い結婚で、大分の片田舎につれてこられて、
苦楽を共にし、時には競い合い、時には慰め合い。

夫婦であり、会社の同僚であり、ライバルであり、友人であった。

晩年は、互いに身体のことを気遣い合って、
入院先の病院から、外出許可で、相手を見舞う、なんて、
破天荒なラブストーリーを見せてくれた、正巳・立子夫妻。

夫婦の一人が、永遠の存在になってしまった。

※正巳の通夜の席の、立子さん

夫の死というモノを、どう感じていたのかは、いまだ疑問だ。

自身の手で、正巳の葬儀を執り行い、火葬収骨を経て、

法要も参加してきたとしても、時折、私たちに、彼女は言った。

「最近、お父さん(正巳)は、顔を見せないが、どうしよんのね?」

私たちは、その様子に、悲しく愛おしく、純粋な彼女に、困惑した。

事実で接すべきか、彼女の世界観を尊重すべきか。

「おばあちゃん、じいちゃんは死んだんで」

「じいちゃんは、つぎの所に逝ってしまった」

「そうなー、きっと仕事が忙しいんだわ」

「あら、私らも最近、会わないのよ」

・・・・・

答え方は、幾通りもあるはずだ。

じいちゃんが死んだことを理解させようと思ったこともあったが、
ムリに死の現実を突きつけて、悲しみをあおってどうなるのか?
そんなことも、佐和子と話をした。

以後、その時の様子で、答え方を考えて対処した。

2006年6月24日

SN340057

※壁際のベンチにならんで

前日、23日は、じいちゃんの四七日で、
立子さんも、参る予定だったが、雨のため来られなかった。

なので、曾孫さんたちをつれて、陽光苑へ表敬訪問。

いつも訪問は、おやつ時なので、食堂に居ることがおおい。

2006年8月13日

今日、長い間かかって、建築を進めてきた上春日の家に
立子さんが帰ってきた。

「こうあるべきだ」、と机上の空論で、部屋の準備と
安全対策を考えてきた結果、果たして立子さんは、
お部屋を気に入ってくれるかな。

心配していたが、特に気に入らない様子はなかった。

でも細かな点で、身体の大きさに合わない部分がある。

設計士さんは、住む人の身体を実測したりはしないのかな?

ともかく、家が広いので、1つの部屋を変わるだけでも
相応の歩数を必要とする。

中休みできる場所が必要なようだ。

食事は気に入ってもらったようだ。
しっかりした味がいいのかな、付け醤油を使っていた。

分量は、真凪程度。

なかなか寝付けなかったみたいで。

自室から起き出して、うるさくてもいいから
皆の居るところに居たいと。

「もう家に帰るから、車を呼んで」と、逼迫して言ってた。
「おばあちゃん、ここは前の上春日のうちを立て替えたから
見覚えはないだろうけど、みんなで暮らす、おばあちゃんの
家なんで」と言うと、「ああ、そう」と緊張をゆるめた。

今日は、なんとか終わろうとしているけど。

医療が必要な状況にならないようにしなくては。

2006年8月14日

立子さん、上春日滞在2日目。

あさご飯
お握り・みそ汁、目玉焼き

お昼ご飯
かど屋の、お好み・やきそば

晩ご飯
エビチリ・酢豚・卵スープ・関アジ

入浴や用便の際、おしりのたるみに、排便がついてしまうため
拭き取れずに、体臭にかわってしまいそう。

よく拭いてあげねば。

食べるときに、むせ返ることが多かった。

夜、なかなか寝付けず、
お盆の準備をきにしたり、
家の認識が出来てなかったり、

寝付き前の「ふご!ふご!」が落ち着くまでそばにいて、
いびきに変わって、寝付きを確認した。

まだ、慣れないよねー。

2006年8月15日

今日は、来客があった。

午前中、私が出かけている間に、前の公園に、
おんなども、散歩に出かけていた。

暑い中で、みな汗びっしょり。

立子さんも、汗をかくようだ。

陽光苑の生活では、着替えもシャワーも制限され
きっと、不快な毎日だったろうと、懸念する。

午後、立子さんの友人が、来宅し、
話がはずんでいたようだ。

今日は、例の異臭が強い。

佐和子と検証の結果、口臭だと特定し、
私は、イソジン歯磨きを実施。

見事、においは激減した。

おしりもしかり、
お口もしかり、
健常者だって、しっかり手当しなけりゃ、臭いますがな。

昼の来客でつかれたのか、21時前に寝てしまった。

2006年8月16日

今日は、朝食作りからお付き合いが始まった。

朝食は、ご飯・ミネストローネ・プレーンオムレツだ。

明け方まで作業していたので、佐和子にバトンタッチで、
寝てしまった私。

午前中、弁護士事務所に行く用事があって、出かけたら、
「女ども、芸館に行く」とのこと。

お昼は、岩見のおばちゃんに、カレー披露

午後は、佐和子だけがでかけて、残った全員が、
それぞれに過ごした。

立子さんは、コミュ室で、ゴロゴロしていた。

今日は、真凪さんの誕生日、
夕飯は、ハンバーグ

これも、たくさん食べてくれた。

子供たちがお風呂に入っているが、
バースデーパーティーまで、時間が空いたので
眠らないように、立子さんの自慢の帯を出してきて見せた。
「ああ、これいい柄だ」
「絶対、誰にもやらん」
と、言ってた。

着物も、はやく、持って帰ってきてあげねば。

「着物(帯)は、絶対誰にもやらん、あんた守ってな」
立子さんは、私にそういった。
「大丈夫、絶対に守る」と、私も約束をした。

立子さんを元気づけるために、口にした約束であったが、
彼女は、本気でそう思っていたのかもしれない。

ばあちゃん、ごめんね、約束は果たせそうにないよ。

法律上、私の管理下から離れざるを得ないし、
きっと、無情に散乱してしまうと思う。

ほんとうに本当に、ごめんね。

真凪のお祝いケーキをおいしそうに食べて、
「よい子のビール」が気に入ったみたい。
ノンアルコールなのに
「あー、今日は、酔うたわ」、ご満悦。

歯磨きも、定例になってきた。

水でうがい
電動歯ブラシ+歯磨き粉で掃除してあげる
水でうがい
イソジンうがい
水でうがい

一昨日くらいから、よく笑い声をあげて笑っている。

ずっと昔、立子さんが理事長先生だったころ、
私が業者として訪問し、くだらない話に、
お互い笑っていたころから、
つい最近まで、立子さんの笑い声なんて、
消滅していたと思う。

笑い声を上げることが、良いことなら、
こんなに嬉しいことはない。

私も、なんだが、6人分の調理に
慣れてきそうだ。

詩音ワゴンが、小さいな。

2006年8月17日

今日は、私が、カレー藤田師匠のところにいくので、
午後は、出かけた。

おんなどもは、なんと、無謀にもトキハにお買いものに出ていた。

店内を散策し、カフェでお茶してきたらしい。

そういえば、立子さん、トキハショッピングは、
何年ぶりだろう????

じいちゃんが、身体を気遣って「外出禁止令?」状態だったし
お世話をお願いしている岩根さんは、
疲労させるようなことを嫌うし。

夜、買い物した洋服などをみせてもらったら
自慢げに「いいでしょ、これ」と、
ハデっちいシャツを指さした。

不思議と、そういう柄を着こなすからすごいね。

楽しかったみたいで、買い物三昧だったそうな。

そんなこんなで、時間がさがった夕飯後、
みんなで、花火をした。

台風のさなかであるが、なんとか風の少ない、
場所を見つけて、手持ち花火を、みんなで楽しんだ。

※私はここに「じいちゃんもいる夏」を思い描いていたのに。

立子さんにも、花火を手渡すと、楽しんでいたし、
なんと、振り回したりする暴挙にでた。

花火後、入浴して、就寝。

ところが、起きてきて、混乱状態。

お盆の段取りがきになると、しきりに心配していた。

私が、「そのようにしましょう」と、
気がかりを聞いてあげて、落ち着いてくれた。

「なら、寝るわ」と、0時過ぎ、寝入った。

2006年8月18日

今日は、立子さんは、
上春日を離れて、陽光苑に移動する。

また、しばらくは、陽光苑ですごしてもらうことになる。

あさから、税理士さんがきたりで、自室を占領されたので
ゆっくり朝寝ができなかった。

お昼は、くるくる寿司初体験で、しっかり食べていた。

陽光苑に、送り届けるツアーに、私は参加できなかったが、
上春日に帰りたいという感じがでていたらしい。

上春日が、自宅だという事を認識してもらえたみたいだ。
だが、それゆえ、陽光苑にいる意味を納得してもらうには
あまりに矛盾が多いと感じる。

今夜、立子さん、泣いてないかな?

1週間だったけど、「居るはずの人」になった立子さん。

居ないって、さびしいね。

もちろん、居ないから、時間の配分に余裕ができて、
自分の仕事を、片付けた雅治・佐和子であるが….。

すこし、時間をかけて、
立子さんがいる生活リズムを、見つけていかねば。

そのためには、陽光苑は、ちと遠いな。

2006年9月28日

母娘4人は、朝から、幼稚園の運動会リハーサルに出かけた。

立子さんは、前日から、月例上春日お泊まりに帰ってきていたが、
一夜明けて、この日は、陽光苑に行く日だ。

午前中、じいちゃんの月命日の法要があった。

その後、私と立子さんは、なにをするでもなく、時間を過ごした。

お盆の長期滞在の時のように、ずっと横に座って、
話をすることも大切なのかもしれないけど、
求めれば顔が見える距離の中で、
それぞれの時間の中で、1つ屋根の下にいることでも、
いいのではないかと、思うようになってきた。

お昼近くになったので、恒例のNo2カレーを準備する。

miniサラダと、ポタージュスープを付けた。
立子さんは、ぱくぱくと、カレーたべてしまった。

「きょうは、幼稚園は、運動会のリハーサルで、行くかい?」

そういうと、運動会みたいらしいので13時過ぎ園着で、行動開始。

※運動会リハーサル見学の立子さん

ちょいと観覧して、紗代実を乗せて、陽光苑へ送り届ける。

別れ際は、さっとするようにしているので、
食堂に座らせて、職員の方に任せた。

次回は、「10月27日だね」とバイバイ。

2006年10月14日

陽光苑で、入所者の大運動会があるらしい

老人の入所施設なので、私は「いったい何?」と思った。

しかし、立子さんから、「出場するから来て」と
ご招待を頂いていたので、一家で訪問する。

施設1Fの大ホール、机など設備を取り払い、広場になっていた

そこに紅白に分かれた選手団?が、対面していた。

立子さんは白組だ。

「かりもの競争」で、詩音と共に参加し、

いつにない俊敏な走りを見せた。

見ている私も、老人だけの運動会をバカにしていた感があったが、
いつの間にか、引き込まれて、応援していた。

いやあ、すごいですな、まったく。

閉会式後、運動の疲れも考慮し、さらりと陽光苑を後にした。

2006年10月16日

陽光苑で、メークの日というのがある。

女性が、お化粧をばっちりする日で、
メークさんがきて、やってくれる。

この日、佐和子がいって、証拠写真を撮ってきた。

※ははー、まだまだ行けますかな

2006年10月27日

今日は、月例上春日お泊まりの日だ。

午前中、ケアバンクさんが、
お風呂の手すりと、便座を付けに来てくれた。

午後、立子さんが帰ってきた。

佐和子は、焼き芋・歯医者、めがね事件やあれこれで、家に居なかったので、
なんだか、統制が取れず、立子さんも、マットにお漏らししたり。

夕方から、着物屋さんがきて、大騒ぎの中、
思い出話を、楽しんだようだ。

夕ご飯は、ご希望の、牛フィレステーキ。

1枚、120gを、全部食べてしまった。

2006年10月28日

立子さんが、上春日にいる風景、
子供たちも、私たちも、自然になってきた。

今日は、陽光苑へ送るのに、トラックでいった。

高い昇降口をなんとかあがって、ベンチシートに座り込む。

6人満席で、陽光苑へ、向かう。

陽光苑到着すると、施設玄関で車を降りるが、
意外と降車のほうが手間取る。

そこで、私が抱きかかえ、降ろしたら
「ひゃ!」と、びっくりしたみたい。

36キロって、こんな感じですかね。

2006年11月4日

※おんなども全員

詩音・真凪の七五三

陽光苑に、着物報告へ。

今回も、着物のデキと、曾孫さんたちの笑顔に、満足の様子でした。

陽光苑では、他のおばあちゃんたちから、
大歓声をあびて、真凪は、わざわざ人が多い方へ行ったりする。

他所への訪問もあるので、きりつけて、バイバイ。

2006年11月9日

七五三の時に、陽光苑に訪問したが、
の写真を、立子さんに届けた。

幼稚園に行く用事があったので、ついでといってはなんだが、
私一人で、訪問だ。

施設2Fにあがると、いつものように、食堂にいた。

「ばあちゃん、写真もってきたで」
「なんの?」
「この前の七五三の時の」

「はい」
「あー、ようございますな」

食堂で渡してしまうと、紛失することもあろうから。

「ばあちゃん、これお部屋に置いてくるね」

自室に置いてきた。

「ふんなら、ばあちゃん、また来るで」
「ああ、もう帰るんかい」
「いよいよ、誕生日も近いな」
「あー、そうですな」
「ははは、じゃね」

その場で、バイバイ

同じ写真を、立小野のじいちゃんのお墓にも持って行った。

立子さんのことを気にしていたじいちゃん。

お空からみえてるだろうけど、曾孫3人との写真だよ。

2006年11月21日

この日は、立子さんの84回目の誕生日だ。

来週、月例上春日お泊まりで帰ってくるので、
なんどもケーキするのもおかしいかな、と思っていたが、
まあ、顔を見に行くのもいいし、やはり当日に
お祝いの言葉だけでも、お届けしようと、
佐和子と予定を整えた。

午前中、詩音・真凪は、学校と幼稚園に出たので、
みな帰ってきてから、陽光苑に、行く予定としていた。

佐和子・紗代実は、連れだって出かけたので、
私は、鍼マッサージに向かった。

もう10年くらい通っているなじみの場所で、
マッサージを受けながら、施術士さんが、
博多駅でホームに落ちかけて、騒動になった話を聞き
大笑いしたり、カレー屋を始めたことなどネタにして
1時間ほど、過ごした。

のち、しばらく買い物を続けて、14時に詩音を迎え、
誕生日ケーキ代わりのコーヒーゼリーを求めに、
城崎町のケーキショップへ向かう。

ところが、季節商品で欠品のため、カッププリンにした。

立子さんは、コーヒーがすきなので、
佐和子が、コーヒーゼリーを計画したが、残念。

15時過ぎ、私たち5人が陽光苑にそろう。

立子さんは、いすに腰掛けて、
和室ではしゃぐ真凪・紗代実を見ていた。

全員で、ハッピーバースデーを唱和し、
カッププリンを、食べ始めた。

美味しいのか、どうなのか、なんだか微妙な表情だが、
「ああ、おいしいで」と、首を縦に振る。

翌週、11月27日は、月例の上春日お泊まりの日だ。

恒例の雅治君の手料理に、肉料理を所望した。

私は
「ばあちゃん、今度はスキヤキにするけんな」
「ああ、それもいいですな」

16時過ぎ、私たちは、陽光苑を離れた。

いつも、1Fまで送ってくれるのだが、
ここ数日の微熱を考え、2Fエレベーター口で、
お別れのバイバイ。

2006年11月21日 20:00

佐和子の携帯に、あや子さんから、連絡が入る。
なにやら「立子さんが、病院に搬送された」という話である。
心肺停止やら何かをのどに詰まらせたやら、
単語は出てくるが、状況判断できる情報が少ない。

つい4時間くらい前に、いっしょにプリンを食べて
別れたばかりで、私たちは急変とは感じなかった。

夕食後のおやつが恒例化していることをきていたので、
なにか食べててむせかえった、程度と思っていた。

しかし、陽光苑ではなく、天心堂(病院)のほうからの
連絡だったので、すこし心配もした。

子供たちも寝る時間が迫っていたので、ひとまず、
佐和子だけが、病院に向かった。

調理場に行くと、洗い残しの食器があったりで、
「ああ、あらいものしなきゃ」
「詩音ちゃんたち、寝る準備しなさい」
「紗代実ちゃん、ちょっと待っててね」

詩音・真凪も、おやすみのチュウして、寝室に入った。

私は、紗代実と、調理場で洗い物などをしていた。

2006年11月21日 20:47

私の携帯に、佐和子から電話が入った。

「おばあちゃん、どうよ」
「あのね、おばあちゃん、死んだよ」
「・・??・・ん?・・・心臓停止はウソじゃなかった?」
「検死が必要かもしれないから時間かかるかも」
「そうなったらそれでいいから、子供たちも一緒に行くわ」

ともかく、子供たちをつれて、病院へ向かうことにした。

せっかく、寝付いた、詩音・真凪だが、起こす。
「おきて、たいへんなことになったのよ、
立子おばあちゃんが、死んだんだって」
真凪は、寝起きが悪いから、よく理解できないみたいだが
詩音は、混乱して、号泣する。
「なんでよ、さっきまで元気だったじゃない」
「ともかく、おばあちゃんに会いに行って確かめよう」

おふろしてない紗代実を、蒸しタオルで身体拭いて、
あわてて着替えて、病院へ向かった。

天心堂の夜間口から入り、受付で名前を告げると、
救急処置室に案内された。

佐和子が居た、そして、いつもの様に眠っている立子さんが
処置台の上に横たわっていた。

「おばあちゃん、どうしたんかい」
身体に触れたら、いつもの様に暖かい。
ただ、手に触れても、握り替えしてはくれなかった。

処置室に、大分東署の警察官が来ていた。

陽光苑(医者がいないところ)での死亡ということで、
変死の扱い(司法解剖)になる可能性があった。

喫食中のことなので、搬送時、立子さんが手に持っていたパンも、
薬物混入の可能性から、証拠として保全されていた。

担当医が、警察官に状況説明をしているのを、聞いていた。

結論として、死因は、胸部大動脈瘤破裂である。

よって、変死の疑いも無くなり、検死も不要となった。

遺体処理をお願いし処置室をでると、親族・知人が数名、集まっていた。

しばらくして、処置が終わり、霊安室に移された。
※天心堂って、えらい大きいのね、とてもながい距離歩いた気がする。

私は、子供たちをつれて、一足先に上春日に帰った。

立子さんが、自室に帰宅する準備だ。

上春日に戻ると、三信工業の後藤常務が来ていた。

準備が出来るまで、お待ち頂き、あとからやってくる車の入れる場所を、
案内して頂くようお願いした。

2006年11月21日 23:50

立子さんが、なにも言わずに帰ってきた。

いつも使っていた自分のベッドに横になった。

一見、いつものように寝ているだけにみえる。
寝息が聞こえないだけだ。

病院に来てくれた方々も、いっしょにこちらに見えた。

佐和子は、葬儀屋と打ち合わせをしている。

私は遺影に使う写真を、ライブラリから探す。

<2004年6月5日 山崎正巳米寿の祝いの席>
※大好きな雅治君とツーショットで、笑顔です

子供たちも、いい加減に疲れて寝てしまう。

お参りの人も、順次、帰って行った。

母を失った一人娘さんも、帰ってしまった。

佐和子は、通夜宿泊になるので、衣類などの準備に
あれこれ家中、駆け回っている。

私は、ときおり、線香をあげに、立子さんの前に立つ。

「ばあちゃん、どういうことな?」
「なにがあったんかい?」
「じいちゃんが、呼んだんな?」
「来週のスキヤキ食べんでいんかい?」

あまりに急な話で、疑問だらけだった。

立子さんが、この部屋で過ごすときは、
時折、こうして寝顔を確認に来ていた。

寝息がしないだけで、いつも通りの立子さんだ。
※の立子(死顔写真なので閲覧には心構えをしてから見て)

「おなか空いたら、起きたらいいわ」

そういって、私は、部屋を出た。

の立子

2006年11月22日 14:00

子供たちは、通常通り、学校・幼稚園にいったので、
私は、お昼過ぎに出発してお迎えに行き、戻ってきた。

ちょうど、葬儀屋さんと霊柩車が到着した。

立子さん、上春日に来たときは、遅くまで寝てることもあって、
おなかが空いたら起きてきていた。

でも、やっぱり、今日は、起きてくることはなかった。

葬儀屋さんの指導をもらい、旅支度をして、棺に納める。

どうしても、首が右を向くからと、タオルで支える。

お参りの人の出入りがちらちらあるが、私はトラックに通夜宿泊の荷物を運ぶ。

15時過ぎに、出棺だ。

立子さんが、いまここを出て行くと、もう二度と戻らない。

霊柩車を見送り、私と子供たちはトラックで斎場に向かう。

家の戸締まりやら、火の始末やら、洗い物やら、
生もの廃棄などなど、整理してたら、しばらく時間がかかった。

立子さんの部屋に行った。

主を失った部屋をみて、

「ここの住み心地、どうだったのかな?」
「自分の部屋だと思ってもらえたかな?」
「唐詩選も掛け替えないままだったね。」
「つっぱりポールも、使わないままだったね」
「超音波歯ブラシも新品のままだ」
「佐和子が探しまくった洋服も未使用」
「車も考えねばって思ってたし」
「床を光触媒にする計画も」
「ああ、ハヤシライスもあったな」

いろんな事が、すべて「終了」で、
なんだか、昨日、泣かなかった分、急に涙がでて、
トラックで子供たちが待っているのも気になっていたが、
ひとり、立子さんの部屋で泣き伏せてしまった私。

2006年11月22日 18:00

通夜の儀、今回は、会場全面にした。

じいちゃんの時に様に、密葬にしないので、
多めの来場者を見込んでのことだ。

現役から離れていたのに、多くの方が見えて下さった。

そして、今回も、白髪二人組が、自己満足に張り切っている。

式も終わり、宴席で、ビールサーバーを準備したが、
飲酒運転に対する社会的観点から、飲む人はほとんどいなかった。

じゃあ、前回のじいちゃんの時は、なんだったんだろうね?
参加メンバー、ほとんど一緒なんだけど。

あまり食べるものもないが、詩音ブラウンマイスターの
生ビールを頂きながら、飲食をしていた。

ばあさん側のテーブルにいた紗代実がいつのまにか、
私のそばに立ちつくしていた。

絞り出すような涙で、破裂寸前だった。

もみくちゃにされて、ママの姿も見えず、
おねえちゃんたちも、そばに居ないし。

やっと見つけたパパは、誰かとお話中だった。

どうしようもなくて、立ちつくしてしまったみたい。

ごめんね紗代実ちゃん、守ってあげられなくて。

※だから、子供だけで行かせるのイヤなんだけど。

ほどなく、閉宴し、遠方の岩見のおばちゃん以外、
全員が、帰ってしまった。

後かたづけをして、こどもたちは、お風呂にいった。

2006年11月22日 22:00

SN340121

※鹿児島産黒毛和牛 特選フィレステーキ
和風ソース「ジャポネーズ」

通夜の棺にお供えをしよう。

じいちゃんの時は、赤ワインを供えた。

やはり、立子さんは、ステーキでしょう。

立子専用、出張ステーキセット(ホットプレート)を
持ち込んでいたので、付け合わせの野菜をバターソテーして、
ステーキを、焼いた。

岩見のおばちゃんから、
「ほんと、あんた、よーやるなー」
と、お褒め?を頂く。

宿泊室に戻ると、お子様たちは
なにやら、ゲームやら、あれこれとしていたが
パパ・ママは、ダウンで、早々に寝てしまった。

錯乱状態の紗代実ちゃんは、寝付けず、ずっと泣き続けていた。

2006年11月23日 10:00

そろそろ、皆、起きて行動しだしたので、
片づけも併せて、昨夜のステーキを温め直し、
爪楊枝サイズで、一口づつ、みなで頂く。

あー、やっぱりおいしいわねー。

岩見のおばちゃんも、喜んでいた。

ビールサーバーなどの不要物を、片づけながら、
着替えたりして、葬儀の時間を待った。

2006年11月23日 13:00

多くの方に参列頂いて、葬儀が進んだ。

弔辞があったが、こういうときは、
やはりスムーズな方がかっこいいよな、と思う。

参列者お見送りのあと、お別れで、棺を降ろした。

立子さんのお気に入りだった、二宮圭一さんにも、
残って頂いて、献花してもらった。
二宮先生も、涙をうかべながら
「ほんとうに、残念やな」と言葉をかけて頂いた。

子供たちは、絵などを入れた。
詩音:レストランの絵
真凪:折り紙など
紗代実:アルファベットチョコ

また、私たち一家5人の似顔絵も入れた。

私は、このさきずっとカレーを食べられるように、
カレーワゴンの木製スプーン
じいちゃんの分も、天国で渡してもらおうと託けた。

いっぱいのお花に囲まれて、棺のふたが閉まる。

台車に乗せられ、火葬場へ。

告別室で、全員が1本づつ線香を上げて、棺のトビラから
最後のお別れをする。

あまり表情をくずさなかった真凪も、最後のお別れで号泣した。

炉の扉の向こうへ入り、施錠され、送った。

2006年11月23日 14:30

子供たちを、火葬控え室に座らせて、私は宿泊室の片づけに戻る。

ひとまず、火葬控え室に、飲料や軽食を運ぶのに、何回か、両室を往復する。
なんせ、広大な施設の端と端なもんで、おっさんには重労働。

プラカップやお茶など、控え室の受け入れ態勢を整えて、
さて、搬出荷物に取りかかるかなと、いうところで、
「雅治君、はやく部屋の片づけして」と、事情を知らずに
指摘をうけてしまう。

作業には順序があることを説明をしても、理解できない方なので、
口論はさけたが。
その直後、佐和子から「早く部屋を空にして」と電話あり。

ああ、やはり、この二人は、親子なのね。

大雨のなか、トラックを玄関に回して、荷物を詰め込む。

一通り、片づけを終えて、控え室で、待機。

宮河内のふたりに、Xマスプレゼントの確認などしながら、時間をまった。

昨夜の事があるのか、紗代実は、呼ばれてもあちらに行かない。
本当になにがあったのか、気がかりだ。

2006年11月23日 16:00

火葬終了のアナウンスがあり、収骨室へ。

お骨は、やはり少ない印象をもった。

順次、骨壺に収めていった。

最後を務めようと思って、最後尾にならんだが、
伊東家の若いしが、居たのでお任せした。

私が、出しゃばる必要もないし、
伊東家も、親族として自分の手で送ってあげたいだろうし。

最後に、係の方の仕上げで、収骨は終わった。

2006年11月23日 17:00

場所を変え、宴席を持った。

じいちゃんの時は立小野だったが、今回は受け入れ態勢も
難しいので、宴会場を借りての開催だ。

昨夜から、ずっと「一茶」という仕出し屋の食事だ。

最後のここもそうなので、そろそろ飽きてきたな。
次回?は、変えていきたいモノだ。

大きなテーブル上、円台テーブルがあり、料理がのっている。

皿を動かすから、円周からはみ出して置いてしまい、
周囲の飲料を倒す事、続発。

また、ソースポットを、使用後手元に置き、円台に戻さないので、
他の人が使えなくなってしまう。

そういう人たちの集まりだったのかな。

2006年11月23日 20:30

上春日に帰り着いた。

ちょうど、48時間前、私は佐和子から訃報を聞いた。

この48時間の間に、立子さんの事が、凝縮されて終わった。

調理場に行くと、洗い残しの食器があったりで、
「ああ、あらいものしなきゃ」
「詩音ちゃんたち、寝る準備しなさい」
「紗代実ちゃん、ちょっと待っててね」

映画のフィルム編集のように、この48時間分切って、
前後つなげたら、なにも気が付かないかもしれない。

この新居で、お正月をフルキャストで迎えることは出来なくなった。

だけど、それはそれで、アリなのかもしれない。

言い出せば、立子さんのパスポート作る計画とか、
全員でディズニーリゾートに行くとか。

たくさんたくさん、やれなかったことがあるけども、
それはそれで、私たちには、必要なかったことかもしれない。

見方を変えるなら、死の直前に、誕生会を開いてあげられたことは、
出来なかった事を悔やむ以上に、なによりすばらしいの事だと思う。

しなくていいことは成就せず、必要なことを成してきた。

今後も、それでいいのだろうと、教えられた気がする。

立子さんの言葉を借りるなら

私たちの道は「ずっと一本道」だということなのでしょう。

おばあちゃん、ありがとう。

おじいちゃん、ありがとう。

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ふたりの山崎正巳と過ごして

会話を交わした、山崎正巳と、
無言を交わした、故山崎正巳と、

ふたりの山崎正巳と過ごした、数時間の出来事から綴った。

2006年5月26日 22時

佐和子が、正巳の容態について、説明を受けるからと、
大分県立病院に向かった。

紗代実と、私は、しばらくリビングでごろごろしていたが、
飽きてしまったのか、紗代実は寝てしまった。

紗代実をそのままリビングのクッションに寝かせたまま、
私は、自室で、翌日の披露宴出席&写真撮影の準備をしていた。

なかなか、佐和子が帰らないが、「正巳が帰るな」と言ったか、
「あや子が帰るな」と言ったか、これまでも、遅くなることもあったので、
ただ、自分の作業をしていた。

2006年5月27日 02時

佐和子が帰ってきた。

「遅かったなー」と、言うと
「どうも、じいちゃん、悪いみたい」

このやりとりも、私は佐和子と結婚以来、数え切れないほど聞いており、
いまさら、驚きもしないが、容態については、
知っておきたかったし、そのまま佐和子の説明を聞いた。

肺炎から、肺の機能が低下している事が主たる病状だが、
高血圧や腹部大動脈瘤との関係で、肺炎だけの治療を徹底できず、
現状の措置(酸素吸入・点滴)で、生存を確保し続ける状態だという。

場合によっては、気管挿入による呼吸維持も選択肢として考えられるが、
それは「延命」でしかないと、医者の説明があったようだ。

これまで、正巳の病状悪化の説明の中に「延命」という言葉の登場は
初めてであり、それが状況を的確に表すキーワードであったと思う。

そして、佐和子の提案で、朝起きたら城崎一家そろって、見舞いに行くという。

ところが、私は新規事業の関係者と、定期的に行っている重要な会議があり。
「おれ、行かれんで、10時の打ち合わせ終わってからならいいけど、
でも、15時から、披露宴だからなー、ちょい顔出しになるな」

佐和子の表情に
「こんな状況で、仕事優先なの?」という部分も感じてはいたが、
今回は「自分が主導で集めた会議」ゆえ、なによりも最優先である。

2006年5月27日 10時前

私は、打ち合わせ会議の場である、大分市今津留へ。
佐和子と子供達は、大分県立病院に出かける。

マンション1Fで、
「ふんじゃ、終わったら、そっち行くわ」と、私の車が動き出す。

10時丁度に、打ち合わせ場所に到着し、集まった面々に、
「ちょっと、うちのじいさん、調子悪くてな、
この後、病院なんで、さっさと進めてくれ」

私のじいさんの存在を知っている人も、知らない人も
「ああ、じゃ、資料の確認を先にしましょう」

2006年5月27日 10:21

佐和子より、メールが入る
「荒い息で、栄養の穴を肩にあけた」

打ち合わせの話を耳で聞きながら、目でメールを読んだ。
(こりゃ、さっさと行かんと、ならんなー)

10:30に、打ち合わせを終えて、移動開始。

実は、新規事業に用いる中古車両の見学をこの後に
考えており、物色先を調べておいたのだが、
それも中止して、病院へ向かう。
※焦って買うな、という正巳の警告だったのかな。

立子も、病室へ来ているとの事で、
以前約束した「たこやき」を求めて、下郡くらし館へ立ち寄るが、
まだ開店してなかった。

佐和子のメールで、
「お昼を買って来て」と要望について、
県病近くの、吉野屋で、ぶた丼を6個買って行く。

2006年5月27日 11時過ぎ

私は、大分県立病院の5Fに向かった。

部屋に入り、荷物を置いて、正巳のベッドの側に行く。

「じいちゃん、どげーな」
酸素吸入を顔にかぶせ、いくつもの点滴を身体にまとい、
検査機器のモニターの点滅を横にした正巳の側で、
しばらく返答をまった。

少し、面倒くさそうな感じで
「あー、コンピュータ、もっとせんといかん」

聞き取りづらかったので、聞き返すように、

雅治:「三信工業は、ちゃんとしよんやねーな」
正巳:「もっとやれ」
雅治:「いいけど、金かかるで」
正巳:「もっとやれ」
雅治:「わかった、ちょっと計画立て、相談するわ」
正巳:「あー、・・・・・」

また、しばらく、静かになった。

私と、「山崎正巳」が交わした最後の会話だ。

呼吸は荒く、胸がひどく痛むようだ。

「あー、いてぇー」
「先生にいうちくりー」
「水くれ」
「あやこはどこにおるんか」

今週に入り、ずっとこういう状態に付き添ってきた
私の義母である、あや子は、他の整理の合間に、
ベッド脇に戻っては
「はいはい、じいちゃん、だいじょうぶ」
「いーいー、文句言わんで、大丈夫」
「ほら、詩音ちゃんも真凪ちゃんも、おるでー」
励ましつつ、周囲の状況を示しながら、身体をさする。

27日午後になって、
正巳の容態悪化を知って、親族が病室に集まってきた。

付き添い者控え室がある、大きな個室だったけども、
さすがに10人近くが入ると、息苦しい。

私は、子供達と、付属の和室で、買ってきたぶた丼を食べ、
時折、ベッド枕元に、顔を見に行くが、特に何をすることもなく、
時間だけが過ぎていた。

集まってきた親戚の中には、かなりご無沙汰の人もいるようで、
正巳も、思い出話を含め、近況を聞いていた。

酸素吸入の装着のためか、呼吸困難のためか、正巳の細い発声に、
なれてない親族は聞き取りづらかったようだ。

あや子が、適切に通訳し、見舞客との間をとりもった。

正巳の苦痛は大きくなってきて、息も荒くなり、
見舞者との会話も難しくなってきた。
発する言葉は、
「いてえ、なんとかしてくれ」
「先生、よんじくりー」

周囲は、見守るしかなく、静かな中に正巳の苦痛と
酸素吸入の排気音だけが、響く。

いまでも、耳に残る、
「もー、どーでもしちくりー」と、
私が、正巳に出会って、始めて聞いた「降伏」の一言だった。

ほどなく、医者が麻酔などの措置を行い、
時間と共に、苦痛は和らいだようだった。

再び、静かな病室になった。

私は、することもないので、県立病院内を散策したり、
子供達と、一緒に、近所のドラックストアに不足物を
買いに出たりしていた。

2006年5月27日 14時

私は、15時から、大分市内のホテルで行われる
結婚披露宴に呼ばれており、カメラマンの大任を受けていた。

私が以前勤めていた会社の直属の部下であり、
モダンダンス教室のスタッフ同士であり、
山崎家の親戚でもある、松野ひろみの結婚式だった。

一度城崎に戻り、昨夜から準備していたカメラ機材の確認や
着替えなど、15時に会場のホテル到着を目指して進めた。

披露宴は、衣装替えも少なく新郎新婦と一緒に過ごす時間の多い進行で、
各テーブル毎の記念撮影など、フレンドリーな宴席だった。

2006年5月27日 18:00

式の最中、佐和子からメールが入る。
「悪くなってる」
泊まりになるので、子供達の着替えをもって来てという内容だった。

2006年5月27日 20時過ぎ

私は、城崎に戻り、再度県病に赴くために
子供達の着替えや、不足物を準備して、
披露宴の写真を1枚、デジカメプリントした。

宴席の飲酒のため、タクシーで移動した。
※披露宴会場から帰宅する際に使ったタクシー
降りた後、「すまんけど、この後、県病にいくから待ってて」とお願い。
20分近く、メーター無しで、待ってくれていた。

2006年5月27日 21時前

病室に到着すると、見舞者の人数が増えており、混雑していた。
直方のおばちゃんなども来ていて、
私も「おひさしぶり」と、ご挨拶をあちこちと。

もってきた、披露宴の写真を、あや子に渡して、
正巳に見せる。
「おじいちゃん、ほらひろみちゃんの結婚式の写真、
雅治君がもってきてくれたよ、見らんね」

薄目を明けて、見ていたようだ。

私は、昼の残った、ぶた丼を見つけて、入院者食堂で
レンジして、食べた。

佐和子も、ずっと付き添ったままで、疲労がみえ、
子供達も、子供ながらに疲労感と戦っていた。

正巳は、披露宴出発前に見せた苦痛の叫びをすることもなく、
一定の間隔で、静かに眠っていた。

22時を過ぎ、

23時を過ぎた。

時折、様子見に入ってくる看護師さんの様子をみて、
見舞者・親族は、安定状態を感じた。

誰かが
「0時くらいまで、おったら、ええんちゃいますか」
という提案に、賛同する人たちが、ひとまず、
今夜の見舞にキリを付けていった。

私どもも、昼間の苦痛に様子から一転、
安心して眠っている様子から、ひとまず解散をお願いした。

2006年5月28日 00:10

最後の見舞者が帰ってしまって、
結果、山崎家の8人+岩見のおばちゃんになった。
岩見のおばちゃんは、立子の付き添いもかねて、残ってくれた。

子供達は、病院標準の付き添い者控え室で、眠りにつき、
岩見のおばちゃんと、立子は、病室の控え室で眠りについた。

立子は、自分の夫の様子が心配で、眠れない様子だった。
しかし、立子自身も、健常とは言えず、体力の限界を超えていると
感じられ、あや子や佐和子の説得で、布団におさまった。

正巳を囲み、あや子・佐和子・雅治で、正巳の身体に付き添った。

私は、血の通わない足のむくみを解消すべく、さすり続けた。

そういえば、正巳の身体に触れるなんて、出会ってから初めての行為だ。
※腰をもんだことくらいあるか。

指先から、土踏まず・足の甲・かかと・アキレス・ふくらはぎ、
と、むくみを絞り上げていく。

生まれて、89年ちかく、大地を踏みしめ、
シベリアの地で生き抜き、三信工業を一大企業に仕上げた
その偉人の足に直接触れ、私は涙が止まらなかった。

170cmの大柄な正巳であるが、
その身体と活動を支えた骨格は、立派なモノであった。

この足で、立小野川で悪さをしたのだ
この足で、大分工業高校まで通ったのだ
この足で、戦争に参加したのだ
この足で、三信工業所を起こしたのだ
この足で、立子を愛したのだ
この足で、三信グループを通じ多くの幸せを実現して来たのだ
この足で、佐和子と私の結婚を認めてくれたのだ
この足で、詩音・真凪・紗代実を抱き上げてくれたのだ

まだ、私のこの手に、そのときの感覚が残る。

そんな偉大な足に、もう力は無かった。

味噌樽の中で、手を握り締めているように、
握っただけ、指がなかに埋もれていく。

私自身も、このマッサージによって、正巳が回復するとは思ってなかった。

しかし、充血し、青みがかった足先を見ていると、
それだけでも、なにか解消してあげなくてはと、じっとしてはいられなかった。

あや子も佐和子も、いま自分に出来ることは、
正巳の回復に繋がるとはおもっていなかっただろう。

ただ、大好きだった彼が、いま最後の時を刻んでいる間に、
すこしでも負担を減らし、シンプルに、そしてスマートに進ませたい。

そういう思いだったと思う。

そんな三人は、自然と、正巳を通じて、被った迷惑な話し、
いまだから言える話などが、出てくる。

時折、大笑いをして「あ、起きると悪いから静かにしよう」と。

しかし、正巳は寝てはいなかった。

2006年5月28日 00:36

担当医が、回診にきた。

特に、なにかの処置をするわけでもなさそうだ。

「先生、いまどういう状態なのでしょう」
こちらの質問に、医者は、言葉を選びながら
しかし、私と佐和子の理解度にあった説明を始めた。

================
要約すると、測定機器のメーターの数値を引用して、
・呼吸数85
・酸素量25
というのは、生存している状態ではない。

眠っていると思われたかもしれないが、酸素量25というのは、
低酸素状態であり、生きていくための数値ではない。

夕方から低酸素状態が続いているので、
すでに、脳は徐々に機能を停止していると思われ、
そのために、痛みも感じなくなり、身体の反応も無くなってくる。

声をかければ、反応はするが、瞳孔反応は無くなっている。

このままのペースでなら、呼吸量が50を切ると最後だろう。

時間は、人によって違うので、コメントできないが、
1〜2時間ではないだろうか。

もし、移動に時間がかかる遠方の親族がいるなら、連絡をしたほうがいい。
================

そう聞かされて、佐和子と私は、対応が一変した。

2006年5月28日 01:00

測定器の呼吸量が70を切った。

あや子・佐和子は、帰宅した親族に、
もう一度、集まるよう、電話をかけに、病室を出た。

私一人、正巳のメーターを凝視していた。

見回りの看護士さんが、メーターをみて、私にいった。
「氷枕を外しますから、頭を持って下さい」
言われるままに、正巳の頭を抱きかかえた。

たしかに、いま自分の腕の中にある正巳の様子がおかしい。

看護士さんは、
「もしものとき、心臓マッサージはどうしますか?」
少し考えたが、佐和子もそう言うだろうとおもい
「母やカミサンに聞かないとイカンですが、
無理に時間を延ばすだけなら、無理はナシで」

2006年5月28日 01:04

看護士さんの所見で「呼吸が止まった」と言われる。

正巳を見ると、確かにそうだった。

あわてて、電話をかけにいった佐和子・あや子を呼び戻す。
寝ている、立子・岩見のおばちゃんを起こす。
子供達も、起こしてきた。

山崎一家が、そろった時、測定器の数値は、ゼロを表示していた。

2006年5月28日 01:25

担当医が来て、心拍の完全停止を待った。

詩音・真凪に、「おじいちゃんになに言ってあげて」と佐和子。
でも、子供達は、声がでなかった。

死が近づく現実に、対処しようがないようだった。
詩音は、そんな自分がくやしくて泣き出してしまう。
真凪も、外には見せないが、この状況を自分の言葉に全力で整理処理していた。

電話連絡で、呼ばれた親族が、再び、病室に集まり始めた。

このときは、まだ、検査機器の心拍グラフに反応があった。

2006年5月28日 01:35

みなの見守る中、血液中に残った酸素だけで、動いていた心臓が停止した。

心拍グラフは、一直線を描いた。

医師の診察により、2006年5月28日01:35,死亡が確認された。

そばで、様子をみていた、立子が、立ち上がって、
正巳の枕元に覆い被さった。

号泣した。
「このバカたれ、私をひとりにしてから」

見合い結婚で、大分の片田舎につれてこられて、
苦楽を共にし、時には競い合い、時には慰め合い。

夫婦であり、会社の同僚であり、ライバルであり、友人であった。

晩年は、互いに身体のことを気遣い合って、
入院先の病院から、外出許可で、相手を見舞う、なんて、
破天荒なラブストーリーを見せてくれた、正巳・立子夫妻。

夫婦の一人が、永遠の存在になってしまった。

83歳で、未亡人になった立子を、私たちが守っていかねば。

———————————————–

その後、遺体処理などが施される間、あつまった親族は、
それぞれの思いにそって、帰宅組・遺体に同行する組とした。

病室から霊安室に移動し、
残っている親族・担当医・看護士と、焼香を頂いて、
霊柩車を待つ。

もう、私は、山崎正巳に、会うことはないのだ。

生と死の狭間で

山崎正巳は、「故山崎正巳」になった。

私の生涯で、ふたり目の「山崎正巳」との生活が始まる。

2006年5月28日 03時過ぎ

立小野に、正巳の遺体が帰ってきた。

近隣の皆さんの配慮で、すでに床の準備などが成されていた。

佐和子は、葬儀の喪主として、打ち合わせに参加した。

子供達は、眠ったり、遊び回ったり。

私は、することもないので、正巳の遺体に付き添った。

9時に、お寺さんが来て、お経をいただくらしい。

近隣の方達が、夜明け前だというのに、何人かが弔問に
来て頂いた。

さすがに、私も立小野の地の人になると、知らぬ方が多い。

帰宅より、とおるさん、という方が付いていて下さったが、
その方も、夜明け近くには一度、ご自宅に戻られた。

9時のお経までの時間のなかで、
正巳とふたりっきりになる時間帯もあった。

「じいちゃん、どうやったんね、89年?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、向こうにいったら、誰にあうかな?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、なにかやり残したことあるかい?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、一番たのしかったことは、なんね?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、一番辛かったことは、なんね?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、一番の自慢は、なんね?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、一番の失敗を、いまなら話せるだろう?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、向こうに持って行きたいモノあるかい?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、もし50歳若かったら、おれと友達になったかな」
「・・・・・・・・・」

故山崎正巳と、無言を交わした。

「じいちゃん、この先おれになにかしてほしいことあるかな?」
そう問いかけたとき、口元が動いた。

「だれかに・なんか・しちゃれ」

私には、そう聞こえた。

正巳と私は、会社の会議で、口論になったりすることが多く、
意見が合わないと、思われていると感じている。

そんなことも含めて、いくつかの事を、いっしょにやったり、
相手がやっているのを、互いに見守ってきた。

自分のことのようにうれしかったこともあれば、
激しく非難したこともあった。

しかし、「生き方」として、
なぜ、私が正巳を好きなのかというポイントが、
「だれかに・なんか・しちゃれ」
という精神に、共感しているからだと思う。

「だれか」
その誰かに出会うために、友達を増やせ。
人の集まる場所にどんどん参加しろ。
営業に配属されて、外を見て回れ。
「なんか」
自分が何をすべきか探せ。
世の中の面白いことに興味をもて。
あたらしい技術を模索しろ。
「しちゃれ」
出番が来たときに、能力を発揮しろ。
なにを要求されてもいいように能力を身につけろ。
やるなら生涯面倒見るくらい、やれ。

そういう、話を、無言で語りかけてくた。

今思えば、生前、至る場面で指摘を受けたり、思い出話を聞いた中、
この要素を感じて欲しいと、私に伝えていたふしがある。
もちろん、私だけではなく、佐和子にも、子供達にも、
会社の人たちにも、そういう話をしてくれていたと思う。

正巳は、三信工業グループを生み出したことによって
数え切れないほど「だれかに・なんか・しちゃれ」を実践してきた。

もう少し長生きしてもらって、再び会社にもどって、
それら一部でも、学べればよかったのかな、とも思うが、
正巳が生み出したすべての現象は、正巳にしか達成できない事だ。

もし、山崎雅治に期待されていることが
「だれかに・なんか・しちゃれ」
というのであれば、私なりの方向と手段で達成していくし、
そして、佐和子も同じく、佐和子の方向と手段を見つける。

子供達にも、そういう事が当然の生活をさせていくのだろうと感じている。

2006年5月28日 09時前

お寺さんが見えて、正巳に、帰宅のお経を上げて下さった。
近隣の方も、時間を合わせて、たくさん来て頂いた。

2006年5月28日 10時過ぎ

さすがに、佐和子も私も、あや子も立子も、
24時間以上、ノンストップで事に当たっており、
休むことにした。

城崎一家は、車で、家に戻り、紗代実をのぞく、
女全員が、気絶するように、部屋へ倒れ込んで、寝入った。

私も、立小野で食事をしてなかったので、あれこれ口に入れ、
緊急に連絡を取るべき所に、一報を発した。

私は、シャワーをして、ベッドで、20分ほど寝入った。

ひとり元気だった紗代実が、その空白の20分間で、
詩音を叩き、おもちゃを散乱させ、佐和子のめがねを破壊した。

元気だ。

2006年5月28日 13時過ぎ

14時に出棺の予定があるため、のんびりしていられない。

身支度を調え、私と真凪チームは、春日であや子を乗せて、
再び立小野へ。

立小野に到着すると、ほどなくして、霊柩車が来た。

佐和子チームも到着した。

出棺準備に入ろうとする葬儀社を制して、家族の儀式を行った。

紗代実のモチ踏みだ。

1歳の儀式を、紗代実の誕生日、4月18日に行う予定であったが
その時は、すでに正巳は、入院していた。

正巳の容態が改善して、立小野に戻ってくるモノだと信じ、
開催保留にしていたが、もう最後の機会だ。

他の誰にも邪魔されず、山崎一家全員で、実現できた。

2006年5月28日 14時過ぎ

旅支度と呼ばれる、足袋・脚絆などを、身につけていった。

特大サイズの棺に、正巳を横たえると、ギリギリのサイズだった。
けっこう、大柄な人だったのだな、と一同、感心した。

納棺し、立小野を出発した。

近所の、竹中葬祭場に向かう予定であったが、思い出の地を回送できるとの事で、
やまばと幼稚園・春日新築現場・三信工業本社へとまわった。

三信工業で、私と子供チームは、別車両ゆえ、城崎に戻る。
今夜の通夜で、会場に泊まり込みになるため、追加準備だ。

2006年5月28日 16時

竹中の葬祭場に到着すると、すでに準備は進められており、
正巳の棺も、祭壇に乗せられていた。

広い控え室に、ひとまず持ち込み荷物を置いて、着替えて会場に。

150人設定の会場では、急逝を知った正巳の知人縁者が、
焼香に出入りし、何人か私の面識の有る方から、声をかけて頂いた。

ただ、「ありがとうございます」としか言葉が出なかった。

私より、遙かに多くの思い出を持たれている方もいる。

今回は、親族・生家地区の方・直接故人と親密な交友のあった方、
に限った密葬で、進めることにした。

とはいえ、三信工業の社員の方、退職をされた方も来て頂いたようだ。

2006年5月28日 20時

通夜の会場から、控え室大広間で、親族を中心に、食事を行った。

歓談も賑やかになったとき、グラリと大きな地震がきた。

正巳がおこしたのだろうか?

詩音に「おじいちゃん、起きてしまってないか?」と見に行かせたが、
「あー、起きちょらんかった」という結果。

2006年5月29日 00時過ぎ

ようやく就寝ということで、シャワー室で、さっぱりとして、
佐和子と、すこし本日の出来事をミーティングした。

紗代実の生活リズムが崩れてしまい、また終日、佐和子と離され、
ばあちゃんたちに揉まれていたので、少し不安定。

大泣きして寝付かない。

2006年5月29日 00:30

紗代実も落ち着き、全員、寝入った。

私も少し寝て、目が覚めたところで、正巳の様子を見に行った。

別室の控え室に、安置されている正巳の部屋には、
立子・あや子・親戚が、寝入っていた。

起こさぬように、祭壇の前で、合掌。

2006年5月29日 01:30

息を引き取って、24時間になる。

24時間記念に、正巳とふたりだけで、晩酌をした。

生前、赤ワインを一緒に飲む機会が多かった。

今回の入院が無事に済み、春日の入居祝いのときに、
一緒に飲もうとおもっていたワインを開けた。

エシュゾー2001(ブルゴーニュ・ロマネコンティ社)
シリアル: No11520/16424

2つのグラスに注いで、1つを祭壇に供えた。

正巳は、まったくワイン通ではないので、
このワインをウマイというかマズイというか、
ぜひ、聞きたかったのだが。

誰も起きていなかったので、邪魔も入らない二人だけの晩酌だった。

2006年5月29日 07:30

私は、城崎に到着する宅急便の受け取りと、
予約済みの歯医者に行くため、竹中葬祭場を離れた。

ひととおり、要件を済ませ、向かおうとおもうと、
数珠を忘れていたので、城崎に戻る無駄な時間を経て、葬祭場へ。

2006年5月29日 11:40

控え室で、着替えをし、会場に向かう。

多くの参列者は、昨日の通夜会に来て頂いた面々であるが、
再度「最後の見送り、ありがとうございます」と、
私が誰だかを認識できた人は、ご挨拶をした。

今日は、多いのかな、と思っていたが、
そういえば、三信工業の社員は、仕事なので、来ないよな。

2006年5月29日 11:50

喪主佐和子は、あれこれ判断で忙しいようなので、
あまり役に立たないが、親族席に座って、参って下さる方への
ご挨拶をする。

一部の人たちが、席順や序列で、なにやらもめていたが、
私が口出すことでもないし、出したら口だけで済まないだろうし、
おとなしくおとなしく。

親族席から、祭壇の写真を眺めていたが、
昨日のように、無性に涙が流れてくることはなかった。

少し、現実を受け入れられたのかな。

2006年5月29日 13時過ぎ

定刻より少しおしての開始

・お寺さんのお経
・焼香
・弔電披露
・喪主挨拶

と、淡々と過ぎていった。

焼香の際、紗代実を外されそうになったが、
抱きかかえて祭壇の前で、きちんと焼香してもらった。

紗代実は、今回の事は、どのくらい覚えてくれるのかな。

小さな手を合わせていた。

喪主の挨拶の中で、
詩音真凪が、明るい色の服を着ていることについて、
正巳と選んで買った服、特別な時に着た服と、
説明をした。

昨夜、「非常識ではないか」と意見も合ったようだが、
佐和子らしいと、私は再度、賛成だと言った。

閉式の後、山崎一家全員
佐和子・あや子・立子
詩音・真凪・紗代実
雅治

と、そろって、お見送りに立つ。

会場に戻ると、祭壇の棺が低いところにおろされ、
献花・思い出の品を、棺に納めていった。

思い出の品は、
・詩音が描いた、フルーツショップの絵
天国でおじいちゃんが食べられるようにとの事だった。
・真凪が描いた、立小野で夏のプール遊びの絵
真凪にとって、立小野に行けばおじいちゃんが居て
夏は、あそこでプールが出来る事を示した大切な一枚だと思われる。

昨今、棺の釘打ちはしないそうなので、蓋を閉め、
台車に乗せられ、火葬場へ移動する。

まだ、ロビーには、帰らず残っていた参列者が並ぶ中、
静かに運ばれる。

2006年5月29日 14時過ぎ

告別室で、棺の窓を開き、最後のお別れだ。

かなり、高さがあるので、子供は抱きかかえるし、
立子も、すこし持ち上げねば見えない状態だ。

全員で合掌の後、隣室の火葬炉へ。

山崎家、8番炉だった。

台車とレールと火葬炉と、完全なシステムになっていた。

「本当に最後のお別れです」と係の方の言葉に、
嗚咽が漏れ聞こえてくる。

約40時間くらいでしかなったが、
私が、「故山崎正巳」と過ごす時間も、終わりとなった。

死亡後、火葬までの時間は、いつも短いなー、と思う。

通夜があって、葬儀があって、盛りだくさんの様だけど、
40時間ぽっちだった。

約89年間生きた人が、40時間で消滅する。

うーん

善し悪しは、それぞれあるだろうけど。

さて、棺は台車ごとレールに沿って、炉の奥に移動し、
自動ドアの炉壁が、静かに閉まった。

「では、代表の方、スイッチを」と佐和子が歩みでる。
白いボタンを押すと、ボタンが光る。

点火らしき手応えは無かったようだが、
感情的に、キツイらしい。

一同、別館の待合室で、収骨まで待機。

広いロビーもあるが、山崎家の個室もあり、
畳に座る方がいい人達は、こちらで休んだ。

私は、葬儀会場側の駐車場から、
火葬場側に、私と佐和子の車を移動していた。

待合い棟に戻ったら、
男性陣は、ロビーで、思い出話をしながら待っていたが、
わたしは、特に会話を求める人もいないので、
おばさんたちの集う、和室に行く。

子供達もこちらにいるので、そうしただけだが。

TVがあるので、子供達と毎週見ている
「エンタの神様」を見ながら、詩音は大爆笑。

2006年5月29日 16時前

火葬の所要時間は、約90分という事で、聞かされていた。

喪主が、先に呼び出され、炉の解錠と取り出しに立ち会った。

私たちは、収骨室という場所に集められ、待っていた。

入り口の逆の扉が静かに開くと、先ほどの台車と佐和子がいた。

台車の上の棺は、あとかたもなく、白い灰と白骨が乗っていた。

自慢の歯を付けたまま、上顎頭蓋が、眼窩の形状を残したままだった。

昨夜、県立病院で、むくみ解消になればと、揉み続けた足もあった。

大腿骨頭も、膝関節も、かかとも残っていた。
そうだと思った事が的中だったので、うれしかった。

係官から、壺に入れる手順などが、説明され、
参加者が順番に、入れていった。

この係官さんは、遺骨の扱いには、思いがあるようで、
厳しく、収骨作業を進めて頂いた。

せっかくいい形で残った頭蓋骨を、さわろうとして、
「さわらないで下さい」と、怒られる。
※もちろん、いつものメンバーだ。

車いすの立子の状況を察しての配慮で、
のど仏と一番てっぺんの骨を、立子に入れさせてくれた。

係官曰く、天国の生活がある。
残っている部分は、足から手、肩、口、鼻、目と、
すべて入れてあげたい、なので、足ばかりを入れると、
全身が入らなくなり、残念な収骨になってしまう。

うーん、プロフェッショナルとは、すごいモノだと、感心した。

2006年5月29日 17時前

私は、朝城崎に戻り、終日、何も食べて無くて、
佐和子も同じような状態だった。

葬祭場から、立小野に戻るが、私は半田マルショクで、
食材を買って、立小野に戻った。

車が停められないので、裏の墓地側に車を回して、家に入る。

なんと、お寺さんも到着しており、雅治待ちだった。

帰宅のお経を上げてもらい、お寺さんから、生前、本堂建築で、
大変お世話になったと謝辞を頂いた。

その後、宴席となり、家の中いっぱいの人で、飲食をした。

なんだか、群がるかのように、人が増えていた。

親族の解釈によっては、山崎家、ってこんな人数なのかしら?

2006年5月29日 20時

詩音・真凪は、明日の通学・登園に支障が出るため、
一足先に、私と城崎に帰る。

佐和子は、喪主としての責任と、おばあちゃんたちの様子を見届けるとして、
21時まで、居たようだ。

城崎5人になって、今日一日の事を振り返り、
また明日からしばらく続く、式典や事務処理などを、話する。

全員の率直な感想として、
「じいちゃんが死んだって気がしないね」と一致した。

城崎に帰ってくれば、正巳の存在の、あるなしは、感じることは難しい。

これまで、同居していて、いつも居るはずの場所にそれが無い、
なら、空白感もあったのかもしれないが。

2006年5月30日 01:35

48時間経過、また晩酌。

しばらく続けようかな・・・・・?!

以上

父と娘の二人旅シリーズ「自動車日本列島mini縦断」

東京・神奈川・静岡・愛知・岐阜・滋賀・京都
大阪・兵庫・岡山・広島・島根・山口・福岡・大分

※2006/4現在、東名・名神・中国・九州の自動車道がかかる都府県

自動車を買いに行った。

目的はそれ1つ

バスを買いに行こう

それは突然の決定だった。(前回:雅治&詩音の「東京日帰り小旅行」と同様のノリだ)

昨年2005年秋より、やまばと幼稚園の依頼で、中古のマイクロバスを探しており、
この3月、希望に適う物件が見つかった。

Yahooのオークションで見つけたその車体は、日産シビリアン平成2年

キャンピング改造を施した、車体であった。

やまばと幼稚園では、これを乗用にするわけでないので、
乗客席など無いほうが都合良く、予算としても折り合いが付いた。

ところが・・・・・

車体は、神奈川県に存在した。

雅治&詩音の「東京日帰り小旅行」

現車は神奈川県

オークションの商品だ。
※自動車をオークションで購入する神経については別の機会に

映画DVDの中古や、激安家電と違って「ハズレたら笑って済ます」わけにはいかない。

なんせ、自動車の取引である、ひとの命に関わる物件だ。

もちろん、出品者とメールや音声でのやりとりのなかで、
互いに「信頼おける人柄」を感じ取っているのは前提である。

しかし、モノがモノだけに、慎重に進めることにした。

つまり・・・・・「現物の確認に赴くことにした」わけである。

2006年4月6日に、空路で大分→東京…..厚木入りし、確認の上、取引成立させて、
その後、費用の精算などを経て、陸送業者に委託し、
「大分で到着を待つ」計画だった。

出発の数日前から、先方と合流地点の確認や、付帯費用の打ち合わせを
進める中で、現車確認に赴く費用が丸々こちらの負担総額に影響し、
買い付けしたにも関わらず、別途費用で、輸送することに
私は疑問をもった。

「その場で決めて、乗って帰ればいいではないか」と極めてシンプル。

早速、その旨、先方に伝え、取引成立の直後、自走で大分に戻る段取りをお願いした。

問題点は、車体が1000キロを超える距離を短期間に走行可能か?ということ。

実際、ファンベルト交換や油液補充は必要であろうと、私も考えていた。

前日5日、先方とのやりとりで、整備工場の段取りや、自賠責・仮ナンバーの
手配手順が準備されていった。

ところが・・・・・

詩音同行決定

その資料を作成していた時に、長女「詩音」がやってきた。

詩「パパなにしよんの?」
雅「あ、明日幼稚園のバス買いに東京に行く準備してるの」
詩「えー、詩音ちゃんもいくー!」
雅「マジ?」
詩「いくー」
雅「退屈でー、ずーっと車に乗ってるだけなんで」
詩「いくー」
雅「じゃ、いくかー」

という、いつものノリで、同行者追加決定。

前日の4月5日 21時を回ったところだったが、
JALの予約を追加変更して、先方にもその旨伝え、
ママは、詩音お出かけキットを準備。

先方より、音声連絡が入る。

お嬢さんも乗るのなら、確実な走行を保証したい、
しかし、当日、取引成立後の整備開始では、
一日無駄にさせてしまうおそれがあるので、
成立はしていないが、今夜中に整備を開始したい。

との事だった。

不成立の場合、整備費用の負担は、どちらの責任か?

そういう部分も、未解決要素ではあったが、
訪問は、購入する前提での現車確認だ、さっそく整備開始をお願いした。

そして、現車を見て、驚くことになる。

SN340015

※ホーバー室内(なんだが携帯カメラのレンズのせいか、ひずんでいます)

翌日、4月6日 6:00起床で、6:45のホーバーに乗る。

タクシーで、大分ホーバーに到着し、1番最初に船体へ乗り込む。

大分空港に到着後、出発までしばらく時間があるが、
特に何をするでもなく、そのときを待つ二人。
(実は、プリクラなんかもやっていた)

SN340017

※すでに退屈な、詩音さん

8:25発 JALにて、空路羽田へ出発。

お約束の、ハイチュウいちご味は、売店で購入

SN340019

※本日の搭乗機をバックに

飛行機は、前回以来かな?

機内で、星の形のminiクッションをもらったり、
オレンジジュースをもらったりするけども、
なんとなく、時間をもてあます様子。

SN340020

※機内でヒマモード

クラスJシートのため、ちと大きい座席が身体にあわないのか、
ぐねぐねブツクサごろごろとしばらくしていた。

また、上り線進行方向右側のため、富士山も見えず。
(いずれにしても曇りでダメだったようだ)

あまりに退屈なのか、機内のトイレに行ったり。

イマイチな上空生活を過ごし、着陸となった。

羽田空港着

SN340022

※羽田に到着してすぐ、パパが行ったトイレ前

トイレに行きたくてしょうがなかったパパがすっきりと出てきたので
羽田空港到着の1枚

この後、京急空港線で、羽田空港=>京急蒲田

乗り換え後、京急本線、京急蒲田=>横浜

乗り換え後、相鉄本線、横浜=>さがみ野

と、移動する。

移動の車窓から、詩音さんのコメント
「緑が少ないね、詩音ちゃん、こんなところイヤだ」

SN340023

※さがみ野に向かう、京急線(羽田空港)のホームで待つ詩音

さがみ野駅に到着し、車体をお世話になる大木氏と駅のロータリーで合流

さがみ野駅周辺は、日産自動車座間工場となる。

周辺をガイド頂きながら、厚木の自動車整備工場へ移動した。

大木氏のところは、幼稚園の男の子・女の子のお子さんがいらっしゃるそうで。

移動の車内
「おじょうちゃん、ラブ&ベリーなんてする?」
「するー!」
「じゃ、CDかけるね」
と、同じ世代の子を持つ父親の車は、同じ状況なのだと大笑い。
(私の車も、同じ音楽装備だ)

子供は、ハイチュウがすきだとか、神奈川県の幼稚園の様子とか
大木氏の仕事の話、私の自宅自営業で無職と思われている事とか、
私が持っていた面会前の印象と一致、あるいはそれ以上の親しみを感じた。

12:00
とにかく、現車を確認が、目的なので、
前日から工場入りしていた現車を初めて見る。

驚き・・・・ハデな分解整備の真っ最中だった。
(私はガソリンスタンドの点検レベルは最低限お願い出来るかな、と思っていたが)

工場スタッフの意見で、九州まで帰るのなら、
しっかりと整備をして送り出したい。

ということで、油液類・ベルト類は、補充や新品に交換し、
グリスアップ・電気系統も点検していただいた。

私の予定は、13時前に工場を出発したいと思っていたが、
14時まで整備にかかるという。
(時間が合えば、静岡・京都に立ち寄る計画を持っていた)

大木氏と無事あえた

060406_1324~0001

※今回、車体をお世話になった、大木 正俊 氏 うどん屋で

その間に、近所でうわさの手打ちうどんで昼食を。

本当においしかった、私は2人前をさらりと、頂きました。
詩音さんも、大人一人前を、ぺろり。

次に、仮ナンバーの取得で、愛川町役場に。

もっと、大変な事かと思っていたんだけど、
申請書、免許証・車検証・自賠責証と750円を出すだけ。

使い込まれた仮ナンバーを受け取った。

——–

心霊スポットで有名な、病院の廃墟などを、道中に見たりしながら、
工場に戻ると、あとはワイパーゴムの交換で終わりだと。

時間は、14時を過ぎていた。

なにやらモメているが、車体年式が古くて、到着したワイパー部品が合わないらしい。

そこで、工場にある別のバスからワイパーアームごとひっぺがして
私たちの車体につけてくれた。

今回、雨にあうこともなく、この恩恵に触れることはなかったが、感謝。

——–

バスの整備もすっかり整い、大木氏と費用の精算など済ませ、3人でかたい握手を交わした。

4月6日15時過ぎ、整備工場が面する129号線に出て
ながい長い旅がスタートした。

私の計画から、2時間ほどずれ込んだ出発だったので、
静岡・京都の立ち寄り予定は、断念した。

大分に向けて走行開始

まずは給油をして、129号線を進み、東名高速道路:厚木ICを目指す。

一般道の走行も、大きな混乱もなく、次第に車体の感覚にも慣れてきた。

さて、夜間も走行するわけで、詩音さんは眠ってしまうことはもちろん、
私も仮眠を取っての走行を考えていた。

ホームセンターに立ち寄り、ふとんなどを購入しようとあたりを見回し
国道を走るが、なかなか見つからず。

また、乗用車より大きいマイクロバスで入れる駐車場を備えたスーパーも見つからず。

結局、なにも購入できず、東名高速に接近した。

——–

厚木ICを通過し、東名高速下り線に入る。

いつもの乗用車の感覚で加速するが、100Kが限界

うーん、この感覚のズレがずっと苦労する1つの要因だった。

全体の時間配分を、いつも使用している乗用車の性能で
考えていたため、1時間で、120Km以上進めると計算したが、
実際は、60〜80Km位しか出せなかった。

もちろん、車体の状況も、整備済みとはいえ、いきなりムリな
走行をするわけにも行かず、しばらく互い?に様子見の運転を続ける。

SN340024

※最初のSA 足柄SAで

いくつかのICを経て、最初のSAに到着

写真をみての通り、一応、大型車の並びに駐車するのだが、
15トンの輸送車に比べたら、谷間の突起物って感じで、
ずいぶんちっちゃく見える。

詩音さんは、この様子が気に入ったようで、バスを「うちの子」と称し
以後、ずっと車体を「うちの子はちっちゃくてかわいい」とお気に入りなのである。
(もしかして詩音さんと一緒にバスも荷揚町小に入学したりして)

ショップで、おみやげ買いあさり&車内用飲食をまとめ買い。

あまりに退屈な詩音さんは、ウサハナの液晶携帯ゲームを購入。
(でも面白くなくて役に立たず)

しばらく、下り線を走行。

今回の旅の目玉、富士山に会う。

富士山

SN340026

※富士川SAで、富士山が見えず

景観日本一と自称(公式HP)する、富士川SAに立ち寄るが.......。

なんだよー、おい!

富士山を拝む目的は果たせず、おみやげ買って、次に。

——–

神奈川県から静岡県に入るが、静岡といえば、ずっと会いたかった人がいる。

1997年、香港がイギリスから中国に返還される瞬間に立ち会うツアーが
客船「ふじ丸」で計画され、私はそれに参加した。

その参加者であった、清水在住の内田ご夫妻である。

内田家襲撃?!

SN340027

※静岡清水の内田ご夫妻と

※その際、わたしたちがビジターで、ふじ丸に乗船した時の佐和子&詩音

2000年春、大分にお見えになったこともあって、そのとき詩音は1歳前だった。

家を出るときには、立ち寄るつもりで、近況を伝える写真など持っていたが
工場の出発が、2時間近く押してしまったので通過しようと思っていた。

しかし、やはり静岡まで来て、会わずに帰るのもなんだし.....。

実は・・・・・調達するモノがあった。
車内で仮眠をするためのふとんだ。

そこで、電話で、内田夫妻に「いまから行くよー」と、電撃連絡。

内田のおかあちゃん、なにか良く解らないけど、
自宅までの、経路を説明してくれた。

清水駅前通に面した自宅の駐車場に、バスを突っ込む。

1Fが駐車場で2階もある家の真ん中に、バスが半分はみ出した状態は
まるで「バスが民家に突っ込んだ事故」のようだった。

部屋に上がって、静岡の美味しいお茶を頂きながら
挨拶もそこそこで「おかあちゃん、ふとんおくれ」と言い出す。

老夫婦の二人暮らしで、来客も無いから「急に言われても」と
ぶつくさいいながら、家中回って掛け布団を出してきてくれた。

ほんの20分程度の滞在で、こちらの欲しいモノだけもらって
18:45 さっさと内田家をあとにした。

再び、清水ICから東名高速下り線に入る。

夜間の東名は、輸送車で、大混雑。

大半が、15トンのコンテナ車であるが、
前後の車間1mくらいで、バンバンと飛ばしている。

左側走行車線は、速度厳守ドライバーが、きっちり80kで走行し、
追い越し車線は、戦うドライバーの無法状態。

私たちも、乗用車でなく高い位置の運転席で見通しがいいので、
走行バトルに参戦するが車体のパワーの差は歴然。

こちらが、100kを超えて110k限界に、悲鳴を上げながら
進んでいる真横を、大きな輸送車が、何台も連なり、ぶち抜いていく。

相対速度で判断するに、200k出る輸送車も有るみたいだ。

ちょっぴり、15トンのトラックが欲しくなる私。
(置き場所がないから、ムリだなー)

SN340028

※夜の東名高速を激走するパパの後ろ姿(詩音撮影)

退屈な詩音さんが、大きな輸送車と戦うパパを携帯で撮影する。

——–

やがて時間は、21時前

夜ごはんと、シャワーをかねて、浜名湖SAに停車する。

ここで少し仮眠しようかとおもっていた。

なんたって、ふとんも調達済みだ。

SN340029

※浜名湖SAで、ウナギ丼を食べるが・・・・・

やがて時間は、21時前

夜ごはんと、シャワーをかねて、浜名湖SAに停車する。

ここで少し仮眠しようかとおもっていた。

なんたって、ふとんも調達済みだ。

まずは、腹ごしらえだと、レストランに入る。

私は、焼肉定食で、詩音さんは、迷わずうなぎ丼

詩音さん、どうも食が進まず....。

1600円もした、ウナギ丼だ、もったいないから食えよ、
と、つまんだ私も、箸を引っ込めた。

味覚の世界は広いことを実感した。
きっと、あの商品を支持する人たちもいるのであろう。

シャワーが無い!

さてシャワーをして、少し休んで再度激走と思っていた。

ところが・・・・・・

私の勘違いで、浜名湖SAには、シャワー設備が、なかったのだ。

あわてて、インフォメーション端末に行き、SAの機能別検索を行うと、
私たちの旅路には、先ほど、通過した牧之原SAにしかシャワーはないのだ。
(私が、全国SA表で、設備一覧を1行見間違えて、覚えていたのだ、うぅ..)

もう1箇所は、名神高速道路:多賀SAに簡易ホテルがあるだけだ。

わたしの事前調査の甘さが、ここにきて、自分たちを窮地に追いやった。

汗かきの私は、ぜひスッキリしたいところで、
詩音さんも、キレイになって眠りたいと願う。

選択肢は2つ
(1)先の多賀SAのホテルまで進む
しかし、まだまだかなり先にある
(2)一度、東名高速を降り、上り線に乗り換え、牧之原へ戻る
しかし、IC10個程度の戻りは、大きな時間のロス

その決断は、しばらく目を閉じて考えた詩音さんが下した、
「うん、よし、キレイになってがんばるために戻ろう」

その決定を受けて、下り線、次の三ヶ日ICで、折り返し、
再度、上り線へ入り、牧之原SAへ。

さすがに6:00起床から休憩無しの詩音さんは、眠ってしまった。

トラックセンター

1時間程度の戻りで、牧之原SA上り線側へ到着。

ここは、トラックと一般の駐車場が大きく分かれており、
その意味を後になって、思い知った。

一般客の気持ちで、普通車が並ぶショップ側に車を停め、サービス棟へ。

しかし、シャワー室は見あたらないのである。

そう、ここの駐車場の様子を思い出した。

トラック側は、トラックしか停まってなかった。
つまり、トラッカー専用のサービス棟があったのだ。
私は、そこにシャワー設備はあると、推測した。

さっそく、そちらの建物に移動することにしたが、
我々は、車に戻らず、歩いて移動した。

しかし、広大な駐車場は、およそ幅1キロはあろうか。

目では見えるが、トラック側のサービス棟は遙か数百m向こうである。

自車に戻って車で移動するか、半分以上まで来たのだから行ってしまうか。

気温は約10度、子供には辛いだろう。

でも、徒歩を強行する二人。

トラック側サービス棟にはいると、にぎやかな飲食スペースの向こうに
ランドリーと、コインシャワーがあった。

当然だが、シャワーの前には、10名ほどの、トラッカーが順番をまっていた。

その筋チックなトラッカー達が、ビオレ等を入れたカワイイ百円カゴをもって、
静かにベンチに座っている。

私たち親子も、その末席に並んだ。

3台あるコインシャワーは、200円で10分の噴射だ。
以後、100円毎に5分の延長が可能だが、
だいたいが、10分の間隔で利用者が出入りする。

先着が減っていき、順番待ちベンチを横ずって、詰めていく。

シャワーから出てきた人は、順番待ちのみなさんに
「お疲れ様です、ありがとうございました」と一礼して去っていく。

次に入る人は
「お疲れ様です、お先にいただきます」と、一礼して入る。

私たちは、トラッカーではないが、それが礼儀ならと、
利用前と利用後のご挨拶を、その場のトラッカーにする。

もちろん、言われた人たちも「お疲れ様です」と返してくれる。

きっと「春休みなので業務走行に娘を同乗させたんだな」と思われただろう。

その様子をみて、自分の子供を思い出したトラッカーも居たはずだ。

思いがけない場所で、人間的で貴重な体験をしたと思っている。
(でも、私はトラッカーではないのだ)

SN340030

※コインシャワー後

さて、深夜の静岡県、外は10度の厳寒

詩音さんを冷やさぬように、頭にタオルを巻き
私のシャツを重ね着させて、車に戻る。

つまり、私は、Tシャツ1枚で、厳寒の中をあるいた。
シャワーが暑かったので、実際は、心地よい寒さだった。

SN340031

※シャワーが終わって、車内でくつろぐの二人

髪を念入りに拭くなどしながら、「コインシャワー体験」が
とても楽しかったと、興奮気味の詩音さんの感想を聞く。

身支度を調え出発、車線に入り「さて、いきますかー」と速度を上げる。

暴走トラック達の流れにものって、快調だ。
詩音さんは、内田夫妻から頂いたふとんの様子を調べると言って、
広げたり、かけてみたりしていたが、気持ちよくなって、すぐに寝てしまった。

次の吉田ICを過ぎたところで、「ああ!!」と、あわてる私。

そう、私は、上り車線にいたことを忘れていた。

ごきげんに東京方面へ向かっていたのだった。

つまり、先ほど通過した、吉田ICで降り、再度下りに
入らねばならない所をすぎてしまった。

まさに、Oh! No! である。

この事件は、詩音さんは、寝てて知らない。

次の焼津ICで、折り返し、再び下り線に戻った。
本日、2度目の牧之原SAを通過、2度目の浜名湖SAを通過し
シャワー事件がなければ、意識に残らなかったはずの三ヶ日ICを通過。

約3時間のロスであった。

パパ一人、走る

その後、しばらく順調に走行した。

内装はシンプルなままで、エンジン音や外の騒音が鳴り響き
会話も困難な車内で、詩音さんは熟睡していた。

また、TVは付いているが、電波状態も悪く、まして聞こえない。

音楽もない、グォングォンという騒音だけの、一人の運転だったが、
これもまたこれで良い感じで、今日の出来事や、先のこと
そして、この春から始まる、いろいろな新生活に思いをはせた。

出発前の下調べで走行区間に19箇所のSAが有ることを知り、
1つ毎に、名物土産を買おうと考えていたが、これも誤算。

深夜に通過するSAでは、買い物は出来ないのである。
上郷SAのみそかつや、養老SAの赤福・ゆかりなどなど。

走行中も、いろいろな体験があった。

地形の状態で、時折、高いところから、道路全体を見下ろせる機会がある。

さらに高い座席位置もあって、前を行く車の列は、遠くまで続く絶景である。

まるで、ナウシカオームの行進(本物は見たことない)のようだ。

すごいなー、と思ったのが、道路の走行車線にそって、
キレイに外灯が並んで、それも走行を案内するように、
流れに沿って光っている。

と思ったら、同じ大きさの輸送車がずっと連なって、
同じ速度で、同じ間隔で、移動しているがために
コンテナの四隅についている側車灯が、中央分離帯のように
固定された外灯に、見えたのである。

走っている車の大半が、輸送車である。
クロネコ・フットワーク・佐川・郵便・・・・

時折、自衛隊特殊車両や、タンクローリーや重量物トレーラーがあった。

深夜、やたらと輸送車が多いが、0時から朝まで、
ETCの特別割引の時間帯らしく、深夜に走るのが常識だそうだ。

途中、経路を間違え、中央道に入ってしまい、またもや上りに。
あわてて戻って、ここでも1時間ほど、ロスが発生。

この事件は、詩音さんは、寝てて知らない。

再度、東名・名神・中央に分岐する「小牧ジャンクション」に戻って、
今度は間違えずに、名神高速道路へ。

中国自動車道

多賀SAにさしかかったのが、7日午前2時付近。

もし、シャワー事件で、牧之原SAに戻らなければ、少なくとも深夜まで
汚いままの二人で、ここまで来ていたことになる。

立ち寄りはしなかったが、ホテルがあるだけなので、
シャワーだけという選択肢はなかったかもしれず、
詩音さんの決断が、二人にとってベストになったことは事実だ。

大津SAで、停車したのが、3:30
私も、6日6:00に起床し、大分を出発してから不眠不休だった。

さすがに、24時間ノンストップを直前にして、仮眠とした。

寒さもあったので、エンジンをかけておこうとおもったが、
よく聞くネタで、「排気ガスが車内入って危険だ」と思い、
エンジンをきって、横になる。

30分ほどで目が覚めて、トイレにいったが、どうもまっすぐ歩けない。
頭がフラフラするのである。

原因は、不明だが、排気ガスかもしれない。

排気ガス中毒を懸念し、自車のエンジンは切ったが、
周囲に数百台停まるトラックは、エンジン全開で停車している。

つまり、敷地内、排気ガスだらけだったのだ。

ぼーっとしていた4:00前だったが、なんとか出発。

——–

しばらく走ると、吹田ジャンクションにかかり、
名神高速道路から中国自動車道に入る。

実は、京都にも立ち寄る予定があったが、どう考えても
明け方の到着になると予想できたので、前日に先方へ断りをいれた。

当初計画を、乗用車の速度で、時間を計算していた私の誤算の結果だ。
(郷田さん、すまぬです、またお会いできる機会もあるでしょう)

大阪・兵庫、この付近で、だんだんと夜空が次第に変化してきた。

5:00になると、詩音さんが起きた。

中国自動車道は、大分の雰囲気と共通するところがあるのか、
詩音さんも、気持ちがいいようだ。

夜から朝への変化を、ずっとライブで体験しながらの走行である。

次第に、山道が多くなると、上りや下りがキツクなって
うちの子(バス)のエンジンも苦しいようである。

バックモニターで様子を見ると、排気ガスが黒煙となっている。

SN340033

※中国道を爆走する二人

水温計を見ながら、でもトップスピードを維持する私。

SN340034

※七塚原SAで朝食

当初の予定では、関門海峡で朝食を、と思っていたが、
いろいろなロスも重なって難しいので、朝食のため、
七塚原SAに立ち寄る。

まだ、食欲がなくて、おりにぎり1個の詩音さん。

私は、名物らしい七塚原バター入りのラーメン。

SN340035

※ここまで無事にきた、うちの子(バス)と詩音さん

本日(7日)、15:00から(株)三信工業で、IT会議が予定されていたが
物理的にムリなので、バス&詩音さんの写真(↑)付きで、延期をメール連絡。

朝食を終えて、中国自動車道下り線を、走行継続。

山間の道路で、景色も変わらないため、詩音さんの退屈はピークになる。

トンネルの出入りが多いのでなんとか、気も紛れるが、確かにヒマだろう。

すみません、トイレないですか?

本郷PAを過ぎた直後に、事件は、起こった。

「あのね、パパ、次トイレ、いつ停まる?」
「あー、いま過ぎたばかりから、しばらく無い」
「あのねー、詩音ちゃん、うんち」
「ふーん、じゃ、次は停まろう」

しかし、彼女は待てなかったのである。

もうムリだの、頭が出そうになるだの、大騒ぎで。
「じゃあ、そこのタオルにしなさいよ」
「いやよ、そんなの恥ずかしい」

大騒ぎの車内で、なんとか、千代田ICを見つけ、
IC事務所に駆け込もうとする。

が、車体が車体なので、駐車場も横付けできる場所もなかったが、
運良く、その事務所は、除雪作業車の基地だったので
ひろい場所に、エンジンも施錠も放置で乗り捨て状態のまま、
事務所に駆け込んだ。

ドアを叩き「すみません、トイレないですか?」と
必死の形相の親子だ。

高度なセキュリティーで閉じられている事務所なので
鍵も開いてないし「関係者以外はいるな」と貼られている。

が、親切に迎え入れてもらって、パンツ脱ぎながら
トイレに走る、詩音さんだ。

大業を成して、仏の様な安堵の表情で出てきた詩音さん。

大きな声で、「ありがとうございました」と、事務所を後にする。

なので、料金所を出る事無く、パイロンを抜けて、再び下り線に戻った。

——–

退屈がピークに達したが、空腹もピークの詩音さん。

前回停車の七塚原SAでは、おにぎり1つだったので、当然だろう。

途中、いくつか飲食の機会もあったが、パパがどうしても
関門海峡でごはんだ、といい、そこまで待たされる。

別に大きな意味は無かったのだが、関門海峡をみて育ったパパの
あそこでメシにしたい、正にコダワリなのである。

060407_1253~0002

下り線は、関門橋の下関側に壇之浦SAがある。

トイレをして、風が強い中、展望台に立つ。

060407_1253~0003

※関門海峡をバックの二人

甘栗を見つけ、ママにと言うが、荷物になるので後回し。

SN340036

※壇ノ浦SAで、関門海峡の写真をママに送る詩音

昼食に、展望レストランにあがって、
ハンバーグセットと、焼肉定食。

なんだか、ここでも食が進まない、詩音さん。

意見を聞くと、まさに当然の話で、
二人の結論からすると、高速道路のレストランは、
今後、注意しょうと、一致した。

レストランを出て、出発のため自車に戻るが、
ママに買おうとした、甘栗を思い出して、サービス棟に戻る。
「栗を買わなきゃ」と詩音さんの意見で、戻る様子を、
栗の販売員さんがみてて、
「おじょうちゃんのおかげで売れました」と言われ、
ちょっと気分のいい、おじょうちゃんでした。

九州上陸

関門大橋を渡りきり、いよいよ九州に上陸だ。

好天に恵まれた九州上陸に、思わず二人は、
「九州は、やっぱ暑いねー」と、同意見。

短時間で、関東から移動してきたゆえ、出た感想である。

このまま、九州自動車道:小倉東ICまで行く予定だったが、
折角の機会なので、パパの生まれ育った町や通った小学校を
見て回る「北九州探検」のオプションを実行した。

市民会館・庄司町・長谷・柄杓田小学校などを経由して、それぞれのエピソードをまじえ
散策しながらのオプショナルツアーだ。

とはいえ、私が6歳まで住んでいた頃とは、すっかり様子も変わっていた場所もあって
私自身も、新鮮な気持ちで見て回った。

雅治実母の墓に立ち寄り、詩音小学校入学を報告。
(その間バスは、どこにも置けないので道路に乗り捨て状態)

——–

10号線を進み、椎田道路に入ったところで、ママに電話。

やまばと幼稚園到着予定を、16:00〜16:30とした。

行橋・中津と進んだ。

途中、前々を行く輸送車の後輪が、破裂して、タイヤゴムが
飛び散り、前の車が、大きく動揺してぶつかりそうになった。

ほんとに、すごい音がした。

宇佐別府道路に入ったときに詩音さんは、居眠り。

そういえば、詩音さんは、車酔いのおそれがあって、ママが心配していた。

今回、どうなのかな、と私も心配していたが、キャンピング改造された車内は、
対面シートで、子供にとっては、部屋に等しい広さだ。
シートに立ち上がっても、天井には届かない。

移動中、あちこち車内を自由に移動して、居場所を確保。

そんな自由な空間であったため、車酔いはしなかったのだろう。

そして、生まれてこの方、車ではシートベルトで拘束されていた詩音さんだが
自由に動ける車内の体験も、酔いを誘わなかったのかもしれない。
(タクシーなどはベルトをしないが、パパに抱っこ拘束される)

大分米良で、起こされて、懐かしい半田マルショクを横目に見て通過した。

16:36、無事、買い付けたバスを、やまばと幼稚園にお届け完了した。

1都2府12県にまたがった、走行1426キロの旅は、
何日もかかった大変な旅であった感覚はあるが、
大分を出発した、4月6日6:30からすると、
実際は「34時間の旅」であった。

仮ナンバーのため、任意保険が用意できず、事故に注意をしていたが
無事に、帰り着いたのが、なによりのおみやげ。

そして、自動車の旅は、To Be Continued ではない....と思う。

END

余談

今回、6回、給油したが、クレジットカードで精算した。

大分に戻って、カード会社から、確認の電話が入った。
「山崎さま名義のカードで、何度も給油されていますが、心当たりは?」
「はい、長距離の車の移動をしましたので、事実ですね」
「そうですが、わかりました」

話を聞くと、

高速道路で駐車中の車から、クレジットカードを盗み、
その換金の手段として、何度も給油を繰り返し、
タンクにためて、転売する手口があるそうな。

1日に、何度もガソリンスタンドに行くと、
そういう利用者ステータスが出て、音声確認があるらしい。

いやあ、システム屋として、情報の見方(分析)の参考になった。

以上

2006年に向けて

☆2005年 72点

2005年頭に公言したキーワードは2つ
・BBブランチ
・成すがままに在るがままに

・BBブランチ

結局、なにも実現しませんでした。

原因は「開校に向けた情熱に欠けていた」事だと感じています。

2005年は、当時手がけていた企業システムの完成を目指し、
その終了と同時に、BBBを開校し身分を移行するという計画であったと
当時の自分の言動記録から推測されます。

計画が計画通り進まなかったのか、
計画そのものが甘かったのか、
特別に検証はしません。

1つ、いまとなっての結論として、
「BBブランチ for  システムスペシャリスト」の必要性は認めるが
自分が学校長として指揮を執るには、至らない状況であるということ。

既存のカリキュラムは、陳腐化し、
それを時代に合わせて刷新するだけの技術も知識も、
自分は追い付けていない。

システム屋は「技術でなく、人生観とセンスである」という校風があるとして
学校長自身が、システム的人生観に不備があるとすれば、
技術も作品も、指揮指導にも、不満足な結果を残し、
授業料を頂くだけの完成度は望めず、断念しました。

こっそり、
BBブランチ for  クッキング は、進行中だが
衣食住の根幹に関わる部分の修練というのは、

「教えたり」「教わったり」するモノであるべきか?

自分自身でも、答えを見いだせず、
2006年も、クッキングカリキュラムは、
会員制のまま模索を続けることになりそうである。

・成すがままに在るがままに

3女を、無事に手にして、日々、満面の笑みを投げかけてくれている。

「子供の笑顔を見てると、明日も仕事がんばる気になる」
というフレーズを耳にすることがあるが
「子供がかわいい」のと「仕事をがんばる」かは、別でないか?

少なくとも、私は「連動して無い」と、思う。

だって、パパは無職でも「うちの子はかわいい」のは変わらず。

また、一部から参加要請継続中の、組織運営上の問題につきましては、
大きな決意を持って言動してみたけども、結果8月をもって離れました。

気がかりも多いが、私とその国の文化が、あまりに違いすぎた。

「カラスは黒い」と思っていた私だが、
その国には「カラスは居ない」らしく、会話にならず、
「カラスの善悪」の問題点を整理するどころか、、
「カラス」についての意見交換すら成り立たない状態だ。

残念ながら、対局から接していく事になりそうだ。

2005年、振り返ってみれば、
直面する問題は、解決してきた。
予想されるトラブルは回避してきた。
得られる利益は確保してきた。

しかし、「やりたいことをやった」
という手応え感に、欠けていたと思う。

結果の72点は、成果評点でなく、自己満足点部分を考慮すると
昨年より低く提示された、当然な評点である。

38歳、未だ「日の出を制する」には至らず・・・・・

総合評価72点

1年のメール:10,793本

送信と受信を含め

メーリング・ニュース・受託管理者連絡は含まず
携帯電話からの発信分は含まず


☆さん姉妹について

2005年4月18日 三女 紗代実(さよみ)が誕生した。

長女 詩音(うたね) 6歳
次女 真凪(まなぎ) 4歳
に続く、第三女だ。

長女の時と違い、
次女の時と違い、

私にしてみたら、詩音の時のような、
初めての経験ばかりの事ではないし、
落ち着いて、三女との出会いに取り組めたと思う。

そして、
詩音も真凪も、ともかく、かわいがるのである。
それと同時に、三女にかかりきりになりそうな
ママ・パパを取り戻そうと、あれこれ作戦を発揮するのであった。

次女真凪も、姉にならってお世話を試みるモノの
扱いの危なさから、せっかくの意欲を、
大人から制されてしまうこともあり、
まだまだ難しいようである。

そういえば、このような行動を、どうとらえるのか思案中である。

親の感情によって善悪判断を変えていいモノか?

真凪は、紗代実をあやす事も、生活の中のお手伝いも、
悪気があってやっているわけでもなく、
自分の体験から、善悪を判断し、行っていることがある。

例えば、
私のデスクに「鼻づまり」の点鼻薬が置いてある。
以前、真凪に「取ってこい」と言って、持ってきた。
そのとき、うまくできたことを褒め、私も喜んだ。

彼女は、それを記憶していた。

ある日、私が鼻をぐずらせると、真凪は点鼻薬を持ってきた。
まったく過去の出来事を意識しないまま、医療薬を手に持ち立つ真凪に

私は「なにをしてるの、お薬はさわちゃいけない!!」と叱りつけた。

真凪は、パパの鼻が苦しそうで、以前の記憶から、薬を取りに行ったのだ。
「ありがとう、苦しかったけど、真凪のおかげで助かった」
と言う言葉を期待したかもしれない。
しかし、怒鳴られ、人間不信の表情を浮かべて、立ちつくした。

大人の方に、明らかに矛盾がある、あるいは説明不足だろう。

あるとき、食事中、携帯ゲームを操作する長女に、
「ご飯の時は、他の事はしないの!」と叱る。
子供たちに言わせるなら
「お電話は?、新聞は?、パソコンは?、大人はいいの?」
大人の大いなる矛盾だ。

確かに、私は食事の途中でも、定期的に、パソコンの前に立ち
新着メールの確認を行う。
それが進行中のプロジェクトで、重要な事もあるが、
自分が好きで頼んだ、ワインのオークション通知だったら

子供たちに「仕事だからしかたがない」とは言えないだろう。

そういえば「仕事だから」と、いいわけがどこまで通用するのだろうか?

パパの夜のお出かけを、家族は「仕事だから」という一言で
本当に容認できるのだろうか?

最近、私は夜のお出かけの見送りに出てくれる子供たちに
「どこへ?」と聞かれて「仕事だから」とは言わなくなった。
 ※私は勤め人でないので、夜の宴席は会社から直行ではなく
  自宅から、時間になって「行ってくるね」と出て行くのである。
  「夜の見送り」という節に違和感を持ったので解説。

正々堂々と
「お友達と楽しいお話をしながらお酒を飲むのよ」と言う。
 ※威張る話でもないか…….

2006年も、事実に基づき、誠実に子供たちと接していきたいと思っている。

三女紗代実は、大きな事件もなく、元気そのもの。

生まれたときは、産院内で大きめグループであったが
現在、活発な活動も効果してか、体重は下限付近を維持している。

定期検診や縁の浅い知人などが初見時に「小さいね」などというが、

「ほっとけ、ウチの子の勝手だ」と、....言わない。

物騒な昨今、街中や店舗内で、「かわいい」と
手を出してくる見知らぬ人々がとても気になる。

そんな手を振り払うと、過剰防衛になるのかしら?

そのかわいい三女さんも、ようやく飲食が始まって、
パパ料理の深みに、転落させられそうな状況である。

最近、特殊な食材の入手ルートを開拓したため、
上のお姉ちゃん2人とは、違った離乳食で行ってみようと思っている。

困った時にはママヘルプが必要な現時点、男親としては何も役立たず、
もうしばらく「パパとして手応え感」も少ないが、まあ、いいでしょう。

次女真凪は、今年度(2005/4)より、幼稚園に園児として通園を始め、
運動会や発表会、マラソン大会などを、楽しんでいる。

個性の強い彼女は、幼稚園の友人たちも個性派揃いのようで
いつもそのメンバーで行動することが多いようだ。
私はこのグループを「先生の話を聞いてない4人」と名付けた。
 ※事実だ。

入園前から、ママに付属して職員室に通園していた真凪が
どんな社会生活になるのかな?と、憂慮していたが、
強烈な個性と、パパのような極道な生き方で、なんとか
こなしているようだ。

お気に召さないモノは、手を出さない・受け取らない個性は
自分の心地よい環境に完璧を望むパパの生き方かしら?

ともかく、姉と同じ事や、姉より秀でる事が、大好きのようで
やたらと比較や自慢を、姉に押しつけていき、
詩音は、最近、その対応が、面倒になってきているようだ。

私が、自分の兄にそんな感情があったかな?と、思い出すのだが。

・・・・・

 
うーん、確かに尊敬していた点や、世代が上の友人を持つことに
うらやましく思ったこともあった気がする。

でも、たぶん、私はパソコンを手に入れて、それを通じて社会観を
得られるようになった時期から、兄と自分の生き方の違いが
「そりゃ当然」と思うようになったかなー。

いま、兄は幼少の頃からの公言通りの職に従事している。

私も、2005年秋口から、兄と語り合った幼少からの希望職に向けて
活動をはじめて、できれば今年2006年には、その是非を検討したい。

次男である私と、次女である真凪と、共通する部分の有無を考えた。
単に2番目という点ではないが、極道的な共通点はあるようだ。

「自分が好き」
「実力主義」
「交換条件に応じない」
「矛盾が許せない」

ああ、この子が、思春期を迎えるころには、どうなることやら....。

長女詩音も、健やかな成長を見せている。

間抜けな所を、まだカワイイと許してもらえる時期ゆえ
なんとか周囲にご迷惑をおかけすることなく過ごしているようだ。

ただ、このまま大きくなると、
「友人たちとの旅行で、全員のチケットを自宅に忘れて
元気な笑顔で駅に集合する」と思われる。

そして、だんだんと、母親に言動が似てくるのが驚きだ。

三女紗代実のあやし方などは、見よう見まね歌マネのようなものだが、
ふとした時に、横にいるのは佐和子だと勘違いし
「あう?」と引くこともアリアリなのだ。

2005年11月に、私の友人の現代美術家「木村秀和氏」が
山香町で美術展覧会を行い、長女と二人で、出かけた。
高速道路を使っても、結構な長時間のドライブになる。

幼稚園の送迎で、長女と二人きりで車に乗ることはあるが、
行楽で出かけるなら、ヌケがけなしの一家全員となるので、
二人きりで出かけるのは、けっこう久しぶりであった。

現地までの行きの道中は、現地主催者とパパとの関係や
何が行われているのかパパ予想、などで騒ぎながらの車中だ。

行った先で、しばらく過ごし、帰りの10号線にそって、
あれこれ寄り道しながら自宅へ戻る道中の車内・・・。

長女も私も少し疲れて、口数もすくなく、

彼女は、時折、音楽CDにあわせて鼻歌したり、
景色を見ながら髪を巻き上げたり、
思い出したように、最近の出来事を話し、
あるいは、疑問に思っていた「パパの謎」を問うてくる。

こちらのいいかげんな返答に、笑い声を上げて反論したり、
答え方に誠意がないやらでおこったり、
かといって、せっかく事の起こりから説明しているのに、
窓の外の様子に話題を変えたり。

((この感じ、どこかで体験したことあるぞ・・・・))

なんだか、カミサンと独身時代、ふたりで出かけた時
そんな車中のデジャブかと思ったほどだ。

まあ、確かに血縁の母娘なので、似ている部分はあろうけども、
そういう部分が似通ってくるとは、DNAの何ページだ?

もうひとり、妻という娘がおりますが、
社会的立場があるので、ネタは非公開

3人+1のお姫様たちは、2006年もニギヤカなんでしょうな。

やれやれ.....。


☆サンネット21とシステム業

BBブランチを再開すると公言しておきながら
それも成せず、なにをしていたかという理由の1つに

建設業関係の業務管理システムの開発に従事していたことが1つある。

取扱高20億円程度の事業所、中小規模のシステムであるが、
管理部門の意向により、パッケージモノの利用はせず
「フルオーダーメイドシステム」という趣旨で、
2003年12月にスタートした。

一般的なシステム開発会社に、この規模のシステムを
フルオーダーメイドで注文すると、
3000〜4000万円程度の見積が出てくるであろう。

私のネットワークセンターが存在する場所に入居する企業の
業務管理システムである。

同社の中に、この開発を目的の1つとした事業部を立ち上げ、
社内から集まった人材でチームを作った。

・プログラムも解らず
・仕様策定も解らず
・社内以外の生活を知らず
・言い伝え文化の中で育ってきた

そんなスタッフ4人を預かって、
「フルオーダーメイドシステム」
に取り組んだのである。

私が、コンピュータを、はじめて手にしたのが、
1982年3月 SHARP MZ-80K2E

1985年3月 専門誌への寄稿をキッカケにプロデビュー
以来、20数年もコンピュータが傍らにある生活をしている。

約24年間、自分がコンピュータ、あるいはシステムを身につけて
きた中から、今回の注力点は「人的資産の確保」が必須と断定し、
4人のそれぞれ後の任務を踏まえて、OJTによる
業務知識の再確認と実習を行うことを決意した。

つまり、スタッフの修練が最優先であった。

経営者との契約の中で「2005年春を目処に完成」としており、
2003年12月からのスタートであるならば、約1年半程度で
すべてを完了しなければならない。

今回、18ヶ月の中で12ヶ月を、教育に当てた。

結果、4名とも、意図した水準に達して、分担した任務を
落とすところ無く、果たしてくれた。

・指示待ち族だった人間がプロジェクト管理を果たした
・思った事を書き出せない人間がシステム仕様を統括した
・四則計算程度のプログラム経験者が18万ステップも書き上げた
・人前が苦手だったのに利用者の中心的存在になった

2005年6月に、旧システムから新システムへ移行を開始し
同年10月をもって、旧システムは完全に停止した。

現状、大きな仕様のヌケや、設計の矛盾によるトラブルは無い。

私の数少ない「成功例」の1つに計上されるシステム案件であった。

さて、同社から預かった4人のスタッフの様子からすると、

自分が24年もかけて身につけてきた知識や技術、
そして「プロとして」のプライドなど、自慢に思っていた事は
ちょっとしたポイントと、参考程度の実習を行うことで
すっかり吸収されてしまうことが実証された。

いまになって、そのことを振り返ると、
BBブランチでやりたかった事の多くが、
この18ヶ月に凝縮されているようだと感じる。

逆を言えば、私自身、出し尽くした感もあって
システム屋としての看板に、多少ほころびを感じつつ
果たして、2006年も、システム屋の看板が
自分に恥ずべき所は無いのか、ちと、再考せねばと
思い始めているところである。

かといって、
「それでカレー屋なのか?」といえば、

それは、それで、別の流れの話なのである。

ヒデと嵐、そしてアヤの恋の行方は?

このタイトルが、ピンと来る方は、どの位いるのだろうか?

知ってる人は、しばらく読み飛ばしで。
※簡易解説のため、かなり省略

フジテレビ「あいのり」という番組の話

交際相手の居ない男女が数名、1台のワゴン車に乗って、
世界各国を旅行する中で、カップルになる男女が出てくる、
あるいは片思いのまま失恋する、そんな様子を、
追いかけるバラエティー番組。

旅行中に、好意の相手へ告白し、受け止めてもらえたら
そろって、帰国する。

帰国によってワゴンに空席ができれば補充される。

5年続いている長寿番組

その中で、足かけ3年
うまく恋愛に至らず、カップルとして成立しないため
帰国できない、21歳通称ヒデ、という男性が居る。

もうひとり、22歳通称嵐(あらし)という男性。

この二人から、同時に告白を受ける、25歳女性通称アヤ。

アヤは、ヒデ・嵐、どちらを選ぶのか?
あるいは、二人とも、Noなのか?

数ヶ月に及ぶ、視聴者の関心の結論が、
先日の放送で明らかになった。

ヒデは、3年もの旅の経験から、必然的にみなのリーダー的存在で、
メンバー全員の、不安や自信の欠如について、いつも気に懸けてきた。
アヤに対しても、他のメンバーに対しても同じような事であったゆえ、
それが、いつしか、ヒデのキャラ設定とまで感じるようになった。

つまりヒデがアヤにとった行動は、
自分に自信の無いアヤに、なにかキッカケを作ってあげようと
人前での任務を意図的にアヤへ薦める。
ヒデは、アヤに自信を持って欲しく、それが愛情表現だった。

一方、嵐は、ヒデのような作戦もなく、時間を見つけては、
旅先を二人で歩いたり、自分の体験や夢を話して聞かせていた。

時間が進むにつれ、アヤは、ヒデに対して、尊敬の念を抱き、
自分が薦められて成したいろいろな任務から、
自信と前向きな姿勢を、どんどん付けていった。

そして嵐とは、ヒデのアプローチの合間で、雑談を交わす程度で。

運命の日

そして、アヤの出した結論は。

・ヒデの自信を付けてくれようという点は感謝するが、
 この先、ずっとそういう関係であるなら、耐えられない。

・嵐は、お互い等身大で接して行けそうだから、嵐が好き。

この結果を受けて、私は、少なからず、ショックを受けた。

別に、あいのりに出たかったという話でなくて、
最近、失恋したという話ではなく。

私自身が、人と接するときに、「ヒデ的」であるな。

と、この放送回を見ながら、自分がフラれてしまったように感じた。
あるいは、いま、接点をもつ老若男女の友人知人から、
「フラれてしまうかもしれないな」、なんて思ったのだ。

私も、キャラ設定でいうと、「上から物言う」タイプである。

社内で部下に接するも、普段の友人たちとの接し方も。

現状、周囲も「エラそうで、強靱で、頭のいい」馬場さんが好きで
接点をもってくれていると思われる。

でも、アヤの立場の人がいたとするなら、
ずーっと、未熟と思われている劣等感を
相手に対して押しつけていく事になる。

そういえば、
doクラフト第1世代・第2世代・第3世代のスタッフ
IT事業部のスタッフ

等身大ではなかったなー。
キツイ思いをさせたから、消滅したんだろうなー。

上司にはいいけど、友人には不向きだ。

こういうのは、接客業には、どうなんだろう?

「叱られたい人が行く飲食店」にすればいいのかな?
ありえんなー。

でも、なんだか、逆に需要ありそうだな......。


☆大型1種運転免許

実は、わたし、資格やライセンスが好きなのである。

と、言うほど、取得に熱心でもないが....。

高校生時代に履歴書を盛り上げるため取得したのが
・第2種電気工事士
・丙種危険物取扱者
・マイコン検定4級(この資格、もう無いのでは?)
・普通1種運転免許
・その他(英検やら電卓やら、うさん臭いのも多数・・・・)

社会に出て
・第2種情報処理技術者
・ノベル社ネットワーク技術者
・高所作業者(Xmasの飾り付けだけのために)

取得の意図を説明しがたいモノ
・古物取扱者
・食品衛生責任者(別途、記述)

という所に、2005年末に、加わったのが

・大型1種運転免許

なのである。

公式には、カミサンが運営する幼稚園で
「スクールバス運行のピンチヒッター」ということになっている。

しかし、実は、もっと雅治さんちっくな
「無意味な理由」が存在するのである。

私が、大型免許を意識したのは、さかのぼること1993年くらいか?

テレビ大分の仕事で、高校生相撲全国大会の生中継で、
出場選手の名前を即時、画面上に表示させるシステムの
開発と運営を受託して、中継現場に参加した時のことである。

全国中継であるので、スタッフ全員の緊張度も高く、
使用機材もなども「いつもより多く回しております」という感じだ。

現場が、宇佐市ということもあって、多くのスタッフは
大きなバスに詰め込まれて、送迎される。

別便に、「中継車」があった。
現場の映像を引き込み、その場で編集加工を施し、
パラボラアンテナを通じて、大分市の本社スタジオに届けるのである。

見た目、キャンピングカーみたいなもので、
中は、TVモニターや、編集装置・送出装置などが詰め込まれている。
積み込んでいる機材が多いため、総重量が8トン近くになるらしい。
つまり、乗用車の範囲を超えた「大型車」の扱いとなるのである。

数日の現場進行の中で、この中継車の存在が大きいのである。

生中継である以上、中継装置のこいつが現場にないことには何も始まらない。

スタッフのバスが到着して、準備を進めようにも、
この中継車が来なくては、なにもできないのである。

「中継車到着待ち」という、非生産的な待ち時間もあったりする。

理由を聞けば、「中継車を運転出来る人が遅れて」というではないか。

つまり、8トンの中継車は、大型免許が無ければ、運転できず
テレビ大分のその人物のスケジュールに運行をゆだねられ、
多くのスタッフは、そのために待たされたりするわけである。

もちろん、現場のボヤキで
「誰か大型、運転できりゃなー、さっさと仕込めるになー」
なんて声も出てくる。

そんなとき、「じゃ、僕が運転しましょうか」
なんて、言えたら、どうなるんだろうかなー、と思っていた。

つまり、今回の大型免許取得の根拠は
「うーん、お困りですか?、じゃ、僕が・・・・」
と言ってみたい、というのが根源ではなかろうか....。

さて、実際の取得は、大変スムーズであった。

引用:亀の井自動車学校 鶴崎校
に、その取得指導をゆだねた。
認定校なので、学校の卒業イコール取得なのである。

12月9日、入校日に赴くが、いきなり遅刻。
旧亀の井自動車学校の場所と勘違いしていた。

30分遅れで到着し、入学手続きを済ませて、
性格テストやら視力検査やら。

どうも深視力(奥行きの視力)のテスト機が苦手。
(3本の棒の動きを見るテスト)

同校の翌営業日から教習開始。

偶然に教官は、鶴崎工業高校(私の母校)の2年先輩
「どうな、自動車学校なんて、ひさしぶりやろ」
なんて、リラックスした指導であった。

あ、実は、自動車学校は、生まれて初めてなのである。

高校後は就職コースだった私の高校では、
就職内定受領後の11月から
自動車学校に通っても良い校則であった。

当時、15万円程度であった費用について、
馬場家家族会議の結果「貸すなら用意する」
みたいな事を父親から言われ、
真意は別としても「だったらイラネーよ」
と反発し、自動車学校行きを断念。

クラスメートが、教習キットを抱えた放課後の
様子をみて、うらやましくもおもえ、
自動車学校で、女子生徒と親密になったりするのでは?
なんてことを悔やんだりもした。

結局、翌年2月末の高校仮卒を待って、
運転免許試験場に「一発ねらい」を自費で敢行。
結果、14回の受験で、普通免許を取得。
29340円で取得した。

なので、自動車学校は、人生初体験なのである。

亀の井自動車学校 鶴崎校

話は、戻って、大型教習。

パソコンや映像機材の大量搬入などで、4トンの大きい車体は
扱ったことがあるが、5トンを超える車体は
やはり知らずして路上に出るのは危険と感じる。

尻の後ろに前輪がある感覚は、初体験だ。

S字カーブで、脱輪しないように回ると、
自分自身は、コースの外、芝生の上を
空中横移動している感じであるし、
クランクも、ポール直前までフロントガラスを近づけて
ハンドルを回さねば、後輪が脱輪してしまう。

エアブレーキも、タッチのセンスを問われるし、
車長の感覚を得るには、相応の時間を費やした。

学校上層者の紹介入校のため、教官も丁寧であった。

特に、「スクールバス運転が取得の目的」と言った私に対して
大変、熱心(厳しく)、指導をして頂いた。

確かに、貨物ならいいかもしれないが、子供を乗せるには、
しばらく空荷や、我が子を客にして、相応の訓練が必要であろう。

なんだか、ずっと取得に拘束された気がしたが、
実質は、2週間であったし、日に2時間だったから、
たいへん、楽々な取得であったとおもう。

自動車学校では、大型仲間の数名と会話をした程度で、
誰か、教習者同士で、メール交換するほど仲良しは出来ず。

今の時期の生徒さんたちは、
靴のかかとを踏んでいるニイチャン・ネエチャンか、
「ちょっと位ぶつかってもいいやねーな」というオバンサンだ。

あいにく、この人たちとは住む世界が違うので、
学校での交友拡大は、なにも起きなかったのである。

大型の取得で、どんなに大きくても乗れるようになると
15トン超えの長大輸送車なんか、乗ってみたくなるのである。

食うに困ったら、長距離にでも乗るかな。


☆食品衛生責任者

8月に、ある程度拘束時間が長かった契約を終了し、
通勤が無くなったので、再び自宅生活となった。

幼少の頃から、食に関する役務に就きたいと考えていて、
2005年秋より、その是非・可否を確かめるべく、
行動を開始することにした。

具体的に、何をどうするということは、まったく決めていない。

が、「飲食店の開業」を目標として掲げ、それに向かって
言動してみるのだ。

4歳くらいに、産みの母の側で、調理に接し、
食べることも、作ることも、大変興味を持っていた。

プロを意識したのは、高校1年の夏休みに、
フレンチレストランでのアルバイト。
ここでの経験が、体の奥底に染みついた。

社会に出てからも、なんらか食に関する作業があれば
自ずから買って出て、家庭の中でも中心的存在になっている。

高校生のアルバイト時に、お世話になった料理長と再会を果たし、
2005年秋口より、再度師事することにした。

ある程度の基本や、その料理長の手法は、アルバイト時に学んでいるため、
師事といえども、あくまでも理論や製造品質などの口頭指導が中心となる。
なので、店舗に通い、洗い物をしたり、仕込み作業を手伝ったりはしていない、

この関係は、2006年も継続して行きたいと願っている。

修行とは別に、開店準備を進めている。

開業に必要な免許の1つが「食品衛生責任者」である。
調理師資格から、実務経験と調理技術を省いたような資格だ。

大分市保健所の指導による講習会に参加し、認定されて交付される。

自動車と同じで数年毎の再講習は必要だが、
生涯資格であり、全国共通資格である。

もう1つ必要な免許は、「営業許可書」である。
これは、人ではなく、店舗(施設)に発行されるという趣旨であり、
店が無くては、申請すら出来ないので、
今のところ、開業のアテのない私には無関係なのである。

師匠の提示する調理実習のカリキュラムを進めるにつれ、
同じレシピで同じ品を実現する難しさを、感じている。

レシピは、厳格な分量をもって、記述があったとしても、
室温や素材の保存状態、収穫時期や畑、流通経路によっても違ってくる。

ワインには、「テロワール」という言葉があるが、
肉でも野菜でも、果実でも香辛料でも、そういう事はあると思う。

フレンチ出身の師匠であるので、ブイヨンは必須カリキュラム。

・フォン ブラン ドゥ ヴォライユ(鶏のガラ出し汁)
 鶏ガラは、スーパーでも市販されているから問題はない。(高いけど)

牛骨や豚骨となると、特殊ルートを開拓せねばならなかった。

懇意の食肉屋に依頼をして、手配を進めた。
一方、大切な人脈を通じて、大分県産食肉業者にコネクションを確保した。

・フォン ドゥ ブフ(牛の出し汁)
 牛の上腕骨、1つで2〜3キロある。
 ハンマーやノコで適宜分割し、20時間ほど、煮出す。
 約8リットルのスープが取れる。

※玄関先で、大きな骨を分割している様は
 警察に異常者通報されてもおかしくない光景だ。
 「最近、あそこの奥さん、見ないけど・・・・」なんて。

さて、牛の骨といえども、味が違うのである。

ステーキで、黒毛だ和牛だ、輸入牛だと、いって、味比べもあるが、
骨も、味や香りがまったく違うのである。

美味しい肉の牛は、骨のスープも、美味しく香り高いのである。

調理は、食材にまで気を配る理由が実感できた。

であるなら、牛丼チェーン吉野屋が、輸入牛の停止で
「同じ味が出ないので販売しない」という発言に、
いまになって、同社安部社長の決断が理解できる。


☆その他

遊具

カミサンの幼稚園の遊具を刷新するにあたり、

私の交友範囲の現代美術家 牛嶋 均氏に協力を頂いた。

結果、
・木製ハウスが2棟
・滑り台付き階段
・謎の半球ドーム砂場

が出来上がった。

例によって、美術家のベクトルと、クライアントのベクトルを
調整しながら、工事関係者・協力者とのバランスを見て、
2005年春の予定が、秋口になってしまった。

しかし、結果、園児の反応からすると、大成功であろう。

この作業の中で、大人の考える安全と子供を守る安全は
違っていた事に気が付かされることも多かった。

また、現代っ子の弱体化が叫ばれる中、
わが幼稚園の子供たちは、今だタクマシイ事も知った。

故人

2005年も、数名の知人が、この世を去った。

・契約先の役員が、療養の末、永眠した。

・マリーンパレス(現うみたまご)の川原館長が逝った
 前館長、故高松氏も、そして川原氏も、50代だった。
 年齢は死因に無関係ではあるだろうが、気になった。
 高松川原の両名には大変お世話になった。

・後藤智江モダンダンスのクラスメート 柳井氏
 私が20歳で入門した際のクラスメートだ。
 現ホテル芙蓉倶楽部(別府市)の総支配人が
 現役のジャスダンサーで恩師であった時からだ。
 訃報をきいた1〜2ヶ月前に、一緒に仕事をしたのに。
 

ワインセラー

 シャンパンを好んで飲んでいたのだが、昨年末より
 非発砲系にも少し手を戻し始めた。
 5大シャトー・ロマネ社などなど
 セラーも導入して、なんだか出費拡大中。

 三女の誕生に、カミサンへ感謝のワインをプレゼントした。
 彼女の好きな、マルク・シャガールが、ラベルを描いた逸品だ。
 シャトームートン・ロートシルト1970

自動車ショールーム

 福岡天神IMSの自動車ショールームに仕事で行った。
 展示車両の入れ替えなどもあって、閉店後の作業だった。
 あのビルの4Fにどうやって車両をいれるのか、
 大型エレベーターで、廊下を自走するのか?と思ったが、
 なんと、壁の一枚がはずれると、ビルの外だった。
 その穴からクレーンで搬入していたのだった。
 自動車業界の金銭感覚には、いつも驚かされる。

下郡

 doクラフト・アンクルアンティーク・エンジョイターミナルの
 本拠地として、あるいは隠れ家的基地として、機能していた
 下郡倉庫を、大家の要請により、完全撤収した。
 大変、いごこちのよい、クリエイティブな場所だったけども、
 残念ながら、そこに集っていた人の縁もいっしょに、飛散。

無一文

 10代から毎月のように通っていた居酒屋が閉店した。
 いろんな事があった場所であったが、詳細は、うーん覚えていない。
 カミサンとの思い出の場でもあるので、子供たちの記憶に
 残るか別としても、連れて行きたくて、一家で赴いた。
 閉店の噂が大分県中に流れた後だったので、予約も困難だったが
 開店直後の予約時間前のほんの30分程度にはさまった。
 定番を一気に楽しんで、マスターご夫妻にご挨拶。
 私の飲食店のイメージも、無一文が無関係ではないだろう。


☆2006年のキーワード

今年のキーワードは2つ
 ・新生活
 ・飲食業
 ・60点

・新生活

 長女が、小学校入学となる。
 これまで通園していた幼稚園は、自営の場であり、
 私も長女も、長年、組織全体が顔見知りである中での、
 社会生活であった。
 しかし、公立小学校に通うとなると、
 まったく「客」の身分となってしまう。
 運動会の対応なり、参観日以外の様子見などは、
 出来なくなってしまう。
  ※小学校の納入業者になるという手もあるか?

 長女も、困り事があれば、職員室に行くと母親がいた。
 それも、なくなり、自分自身で解決しなくてはいけない。

 しばらくは、いろんなところでストレスも見え隠れするだろう。

 また、夏あたりに、ネットワークセンターの移設を検討している。

 現状の場所では、緊急時に駆けつける時間だけタイムラグがある。
 やはり、職住同居でありたいと考え、計画中だ。

 それなら、広い厨房が欲しいとか、
 貨物の出し入れに、駐車場は雨に濡れないよう、屋根が欲しいとか、
 あれこれネタが多くなりすぎて、情報整理中である。

 実現すれば、センターの移転など、ビックイベントになりそうな2006年である。


☆飲食業

 上記、新生活の様子によって左右はするが、
 職としての飲食業というものを、考えていきたい。

 方向性としては、
 ・洋食店
 ・居酒屋
 ・弁当屋
 ・給食屋
 というところか。

 開業にまで至るのか、
 システム構築だけに終わるのか、
 試行錯誤だけの1年となるか。

 人生を大きく変える大任を引き受け、2005年10月21日から、
 違う自分の道を歩む覚悟でいて、それ以後のスケジュールを
 まったく空欄にしていたのが、ぽっかり空いてしまった。

 きっと目に見えぬ何かが、互いのためにそうさせたのであろう。

 思えば、システム関連の仕事を続けてきた中で、
 「誰かのお役に立った」手応えはしっかりあるが、
 「誰かを幸せにした」という感は全く無いなー、と気が付いた。

 しかし、私の手から生み出される飲食は、
 極まれに「幸福感」を与えている時ある。

 残りの人生、「誰かが幸せになる役務」で行きたいなー。

 開業は未定であるが「やるか、やらぬか」いずれかの単純な話である。


☆60点

 2006年は、なんでも60点で行こうとおもう。

 自分でなんでもやらねば気が済まないところがあったのだが、
 一人で成せることは、たいしたことではないと、思うのだ。

 100%を目指して、高めていくのを止めると言うことではないが、
 60%同士の誰かと力を合わせて、120%の結果を求めていきたい。

 また、出しゃばりを押さえて、押さえて。

三女「紗代実」の誕生

キッカケを運ぶコウノトリ

とうとう、サン姉妹になりました。

この子の誕生は、なにかのキッカケなのかな、と今になって感じています。

第3子の話も、遠からず近からず耳にしていました。

時折、ママから「もう一人」と発言もあったが、
2003年結婚記念日にNGといいました。
(それがショックだと反論ももらった)

まとめなければいけない事がいくつかあって、そちらはカウントダウン。
とある組織から、子育てを自粛してほしいと言われていたのも事実

そんな中、また1から小さな命を守っていく余裕があるのだろうか?
そういう思いがあって、いま新しい命を保証はできない。
一日も早く、おねえちゃん2人が学童になることを望んでいました。

しかし時間は、誰にも平等で、
長女詩音・次女真凪も、そろそろ自分で歩いていけるようになり
パパ・ママとも、自分の意志で動けそうな時期にあったと思います。

夫婦それぞれ自分の関わる世界で、なにかを成すべく、動き出そうと
していた時期だとに思います。

二人とも、能力は別にして、ファンが多く、仕切り屋としての才覚に冨み
余裕を見せれば、詰め寄られ負うモノが増えていきます。

つまりは
雅治は、夜の飲食店を出店しようとしていた。
佐和子は業界の公職に就きそうだった。

しかし、なにかのお告げなのかな?
「もうすこし夫婦でやることがあるのでは?」
「まだ子供たちとの時間を削減する時期ではないのだ」
「いまやろうとしていることは重要な事なのか?」
「おまえたち二人にしかできないことがあるのでは?」

そう言われたのかもしれません。(誰から?)

生活の余裕の中に、将来を見つめる時間を持って行く中で
「なぜパートナーシップを結んだのか」という部分の結論が
詩音・真凪であるなら、否定はないのかな?とおもいました。

愛は形になって残るモノなのだな、なんて思います。(わはは)

結果として
フラフラとおもしろそうな事に行きそうな雅治さんの
パパ役延長戦突入です。(取締役パパ部長ですな)

家族追加

最初の一報は、詩音・真凪と、出かけていたときでした。
仕事の関係で、訪問するようになった日出町のナシ農園に
ナシ狩りに行ってた帰り、田浦の海岸でトイレ休憩中に
ママから携帯電話にメールが。
—————————–
2004年8月26日 16:29:58
来春、5人家族になることが判明!
—————————–
おー!と、トイレから戻った二人に
「おうちに帰ったらママからすてきな話があるよ」
お菓子か?何か?と、思う姫たちでした。
※同時期、サザエ海の塩事件が起こるのです。

なぜか、ナシ農園の奥さんから「三人目はどう?」と
聞かれた帰りゆえ、驚きも大きく。

パパは「ナシ狩りに全員で行きたかったのになー」なんて
思っていたのだけど、なぜか不参加のママは、
こっそり産婦人科に確認作業へ行ったのです。

冒頭の様に、夫婦それぞれの世間的役割を拡大する気持ちでいた中で
突然の重大ニュース、「??・・??・・??」は正直なところ。

2003年春、「3人目は無い」と宣言したけども、うれしかったのです。
だって、確信犯だった。

今回は、たいへんなツワリでした。

なんとか口にできる「ミニッツメイド・ピンクグレープフルーツ」
これを求めて、大分市近隣市町村のマルショクをすべて回ったかな。
塩昆布・お茶漬け・エアロチョコ・白おかゆ・グリコいちごオレなどなど

ママの様子が尋常じゃないモノで、上のふたリと比べ、
手厚い?サポート体制だったと思います。(自分では・・・?!)

ささいな事だけど、マンションのエレベーターの改修で、
施工業者に「妊婦が6Fから移動するので、動かしてくれ」と交渉したり
(現場責任者:市ノ瀬さん、実はやまばと園児の親らしい)

三信工業の会議と重なり、詩音ちゃんは、早帰り後、3時間近く、
IT部長の席で、待っていたこともありました。

ママのつわりの行方も把握できないままなのに
ますます自己を拡大させていく2人の姫と体調不良ママとの格闘に
「いかがしたものか?」と思いながらの、マタニティーライフ?でした。

出産当日

4月27日の予定日でしたが、17日からなにやら準備を始めるママ。

恒例により、出産前日も夜のお出かけをしておりました。
(まあ、意図したコトではないのですけど)

バンドのライブから帰ってみると「明日かも」との宣言

「よしよし」と漢方薬「肝生:アルコール分解薬」を一気のみの私

翌18日午前2時に、一足先に産婦人科へママは出発

パパ・ウタ・マナは、午前3時に病室(産科も病室なのかな?)へ

ひとまず、このまま出産ではないので、一家、病室で就寝
(真凪ちゃんは、これが気に入って、病院に住むと言ってます)

18日6:45 ウタ・マナは、病室から幼稚園に出発

園バスに乗せて、病室に戻り「午前中かな」なんて甘い気持ちで待機

時計をみると、まだ8時前

朝食がきて、卵を食べる様子をみながら、コーヒーをもらった

ところが待てど待てど、その時は訪れず・・・・・・・

10時の通常検診を受け、昼食がきて(こっそりポークソテーをいただく)

ところが待てど待てど、その時は訪れず・・・・・・・

午後の通常検診を受け、姫たちを迎えに、病院へ帰り、一家4人そろった

ところが待てど待てど、その時は訪れず・・・・・・・

なかなか姿を見せず

ウタ・マナと違って、今回は、なにかが違う。

夕食前の通常検診で、ようやく分娩台へ移動の指示

17:00位だったか、でもすぐには状況が変わらず。

途中、4Fの病室?に残っている、ウタ・マナが気になり
パパは行ったり来たり。
(DVDを取り替えろと、教えたとおりナースステーションに
内線をかけてきた詩音ちゃん、えらいんだか??)

それから2時間ちかく、陣痛と腹部の張りにあわせて、試みるが
どうしても産道の一部を越せず、あと2センチくらいの動きを
期待されて、時間だけが過ぎていく。

今回は、なにかが違う

モニターから聞こえる胎内の心拍音は元気なモノの
少し時間がかかりすぎると、医師の指示が強い口調に変わっていく

「もう....きつい」
ママから本音がでてきた。

二人の関係からして、根拠のない「がんばれ」なんて
その場繕いの虚実の励ましはできなかった。

「もうすこし、耳がひっかかっているのか、でてこない」
「見えているから、出てくる」
「あと、2回くらいかな?」

なにが、そうさせたのかわからないが、ある瞬間から空気が変わった。

母体の全エネルギーがピークに向かって、1つになっていった。
(呼吸も瞬きも、声も耳も、すべてOFF、赤ちゃんの産道通過に向かった)

毛穴から血がにじみ出るくらいのママの集中力を4人がかりで支えて、
(初めてみた、全力の佐和子だった)

「髪の毛がみえてきた」・・・・・・・
「おでこまででたよ」・・・・・
「鼻がみえた」・・・
「肩まででてきた」

「でたー、でたー、でたー」

20:03 3174g 女の子が出てきました

謎のお姫様

ツワリのときから、「今回はなにかが違う」と聞かされて

「なにが出てくるんだろう」と期待と不安のなかで
目の前にしたのは、真実の愛しい我が子でした。

思わず、「はじめまして」とご挨拶

胎内にいる間は、ずっと、ウワサ話だけで目にみることもできず、
もちろん触れることもできず

紗の向こうに隠されてきた秘密のお姫様

時間や歴史や受け継ぐモノを、受け止め愛しながら、
出会い出会えた最後は、自身の実の姿でした。

真実の本人に出会える感動が売りの、謎のお姫様

史上最大のNo3 山崎 紗代実 の登場です。

して、また、私の今後の発言が、こう変わります。

「えー、うちには4人の娘がいるもんで.......」