ふたりの山崎正巳と過ごして

会話を交わした、山崎正巳と、
無言を交わした、故山崎正巳と、

ふたりの山崎正巳と過ごした、数時間の出来事から綴った。

2006年5月26日 22時

佐和子が、正巳の容態について、説明を受けるからと、
大分県立病院に向かった。

紗代実と、私は、しばらくリビングでごろごろしていたが、
飽きてしまったのか、紗代実は寝てしまった。

紗代実をそのままリビングのクッションに寝かせたまま、
私は、自室で、翌日の披露宴出席&写真撮影の準備をしていた。

なかなか、佐和子が帰らないが、「正巳が帰るな」と言ったか、
「あや子が帰るな」と言ったか、これまでも、遅くなることもあったので、
ただ、自分の作業をしていた。

2006年5月27日 02時

佐和子が帰ってきた。

「遅かったなー」と、言うと
「どうも、じいちゃん、悪いみたい」

このやりとりも、私は佐和子と結婚以来、数え切れないほど聞いており、
いまさら、驚きもしないが、容態については、
知っておきたかったし、そのまま佐和子の説明を聞いた。

肺炎から、肺の機能が低下している事が主たる病状だが、
高血圧や腹部大動脈瘤との関係で、肺炎だけの治療を徹底できず、
現状の措置(酸素吸入・点滴)で、生存を確保し続ける状態だという。

場合によっては、気管挿入による呼吸維持も選択肢として考えられるが、
それは「延命」でしかないと、医者の説明があったようだ。

これまで、正巳の病状悪化の説明の中に「延命」という言葉の登場は
初めてであり、それが状況を的確に表すキーワードであったと思う。

そして、佐和子の提案で、朝起きたら城崎一家そろって、見舞いに行くという。

ところが、私は新規事業の関係者と、定期的に行っている重要な会議があり。
「おれ、行かれんで、10時の打ち合わせ終わってからならいいけど、
でも、15時から、披露宴だからなー、ちょい顔出しになるな」

佐和子の表情に
「こんな状況で、仕事優先なの?」という部分も感じてはいたが、
今回は「自分が主導で集めた会議」ゆえ、なによりも最優先である。

2006年5月27日 10時前

私は、打ち合わせ会議の場である、大分市今津留へ。
佐和子と子供達は、大分県立病院に出かける。

マンション1Fで、
「ふんじゃ、終わったら、そっち行くわ」と、私の車が動き出す。

10時丁度に、打ち合わせ場所に到着し、集まった面々に、
「ちょっと、うちのじいさん、調子悪くてな、
この後、病院なんで、さっさと進めてくれ」

私のじいさんの存在を知っている人も、知らない人も
「ああ、じゃ、資料の確認を先にしましょう」

2006年5月27日 10:21

佐和子より、メールが入る
「荒い息で、栄養の穴を肩にあけた」

打ち合わせの話を耳で聞きながら、目でメールを読んだ。
(こりゃ、さっさと行かんと、ならんなー)

10:30に、打ち合わせを終えて、移動開始。

実は、新規事業に用いる中古車両の見学をこの後に
考えており、物色先を調べておいたのだが、
それも中止して、病院へ向かう。
※焦って買うな、という正巳の警告だったのかな。

立子も、病室へ来ているとの事で、
以前約束した「たこやき」を求めて、下郡くらし館へ立ち寄るが、
まだ開店してなかった。

佐和子のメールで、
「お昼を買って来て」と要望について、
県病近くの、吉野屋で、ぶた丼を6個買って行く。

2006年5月27日 11時過ぎ

私は、大分県立病院の5Fに向かった。

部屋に入り、荷物を置いて、正巳のベッドの側に行く。

「じいちゃん、どげーな」
酸素吸入を顔にかぶせ、いくつもの点滴を身体にまとい、
検査機器のモニターの点滅を横にした正巳の側で、
しばらく返答をまった。

少し、面倒くさそうな感じで
「あー、コンピュータ、もっとせんといかん」

聞き取りづらかったので、聞き返すように、

雅治:「三信工業は、ちゃんとしよんやねーな」
正巳:「もっとやれ」
雅治:「いいけど、金かかるで」
正巳:「もっとやれ」
雅治:「わかった、ちょっと計画立て、相談するわ」
正巳:「あー、・・・・・」

また、しばらく、静かになった。

私と、「山崎正巳」が交わした最後の会話だ。

呼吸は荒く、胸がひどく痛むようだ。

「あー、いてぇー」
「先生にいうちくりー」
「水くれ」
「あやこはどこにおるんか」

今週に入り、ずっとこういう状態に付き添ってきた
私の義母である、あや子は、他の整理の合間に、
ベッド脇に戻っては
「はいはい、じいちゃん、だいじょうぶ」
「いーいー、文句言わんで、大丈夫」
「ほら、詩音ちゃんも真凪ちゃんも、おるでー」
励ましつつ、周囲の状況を示しながら、身体をさする。

27日午後になって、
正巳の容態悪化を知って、親族が病室に集まってきた。

付き添い者控え室がある、大きな個室だったけども、
さすがに10人近くが入ると、息苦しい。

私は、子供達と、付属の和室で、買ってきたぶた丼を食べ、
時折、ベッド枕元に、顔を見に行くが、特に何をすることもなく、
時間だけが過ぎていた。

集まってきた親戚の中には、かなりご無沙汰の人もいるようで、
正巳も、思い出話を含め、近況を聞いていた。

酸素吸入の装着のためか、呼吸困難のためか、正巳の細い発声に、
なれてない親族は聞き取りづらかったようだ。

あや子が、適切に通訳し、見舞客との間をとりもった。

正巳の苦痛は大きくなってきて、息も荒くなり、
見舞者との会話も難しくなってきた。
発する言葉は、
「いてえ、なんとかしてくれ」
「先生、よんじくりー」

周囲は、見守るしかなく、静かな中に正巳の苦痛と
酸素吸入の排気音だけが、響く。

いまでも、耳に残る、
「もー、どーでもしちくりー」と、
私が、正巳に出会って、始めて聞いた「降伏」の一言だった。

ほどなく、医者が麻酔などの措置を行い、
時間と共に、苦痛は和らいだようだった。

再び、静かな病室になった。

私は、することもないので、県立病院内を散策したり、
子供達と、一緒に、近所のドラックストアに不足物を
買いに出たりしていた。

2006年5月27日 14時

私は、15時から、大分市内のホテルで行われる
結婚披露宴に呼ばれており、カメラマンの大任を受けていた。

私が以前勤めていた会社の直属の部下であり、
モダンダンス教室のスタッフ同士であり、
山崎家の親戚でもある、松野ひろみの結婚式だった。

一度城崎に戻り、昨夜から準備していたカメラ機材の確認や
着替えなど、15時に会場のホテル到着を目指して進めた。

披露宴は、衣装替えも少なく新郎新婦と一緒に過ごす時間の多い進行で、
各テーブル毎の記念撮影など、フレンドリーな宴席だった。

2006年5月27日 18:00

式の最中、佐和子からメールが入る。
「悪くなってる」
泊まりになるので、子供達の着替えをもって来てという内容だった。

2006年5月27日 20時過ぎ

私は、城崎に戻り、再度県病に赴くために
子供達の着替えや、不足物を準備して、
披露宴の写真を1枚、デジカメプリントした。

宴席の飲酒のため、タクシーで移動した。
※披露宴会場から帰宅する際に使ったタクシー
降りた後、「すまんけど、この後、県病にいくから待ってて」とお願い。
20分近く、メーター無しで、待ってくれていた。

2006年5月27日 21時前

病室に到着すると、見舞者の人数が増えており、混雑していた。
直方のおばちゃんなども来ていて、
私も「おひさしぶり」と、ご挨拶をあちこちと。

もってきた、披露宴の写真を、あや子に渡して、
正巳に見せる。
「おじいちゃん、ほらひろみちゃんの結婚式の写真、
雅治君がもってきてくれたよ、見らんね」

薄目を明けて、見ていたようだ。

私は、昼の残った、ぶた丼を見つけて、入院者食堂で
レンジして、食べた。

佐和子も、ずっと付き添ったままで、疲労がみえ、
子供達も、子供ながらに疲労感と戦っていた。

正巳は、披露宴出発前に見せた苦痛の叫びをすることもなく、
一定の間隔で、静かに眠っていた。

22時を過ぎ、

23時を過ぎた。

時折、様子見に入ってくる看護師さんの様子をみて、
見舞者・親族は、安定状態を感じた。

誰かが
「0時くらいまで、おったら、ええんちゃいますか」
という提案に、賛同する人たちが、ひとまず、
今夜の見舞にキリを付けていった。

私どもも、昼間の苦痛に様子から一転、
安心して眠っている様子から、ひとまず解散をお願いした。

2006年5月28日 00:10

最後の見舞者が帰ってしまって、
結果、山崎家の8人+岩見のおばちゃんになった。
岩見のおばちゃんは、立子の付き添いもかねて、残ってくれた。

子供達は、病院標準の付き添い者控え室で、眠りにつき、
岩見のおばちゃんと、立子は、病室の控え室で眠りについた。

立子は、自分の夫の様子が心配で、眠れない様子だった。
しかし、立子自身も、健常とは言えず、体力の限界を超えていると
感じられ、あや子や佐和子の説得で、布団におさまった。

正巳を囲み、あや子・佐和子・雅治で、正巳の身体に付き添った。

私は、血の通わない足のむくみを解消すべく、さすり続けた。

そういえば、正巳の身体に触れるなんて、出会ってから初めての行為だ。
※腰をもんだことくらいあるか。

指先から、土踏まず・足の甲・かかと・アキレス・ふくらはぎ、
と、むくみを絞り上げていく。

生まれて、89年ちかく、大地を踏みしめ、
シベリアの地で生き抜き、三信工業を一大企業に仕上げた
その偉人の足に直接触れ、私は涙が止まらなかった。

170cmの大柄な正巳であるが、
その身体と活動を支えた骨格は、立派なモノであった。

この足で、立小野川で悪さをしたのだ
この足で、大分工業高校まで通ったのだ
この足で、戦争に参加したのだ
この足で、三信工業所を起こしたのだ
この足で、立子を愛したのだ
この足で、三信グループを通じ多くの幸せを実現して来たのだ
この足で、佐和子と私の結婚を認めてくれたのだ
この足で、詩音・真凪・紗代実を抱き上げてくれたのだ

まだ、私のこの手に、そのときの感覚が残る。

そんな偉大な足に、もう力は無かった。

味噌樽の中で、手を握り締めているように、
握っただけ、指がなかに埋もれていく。

私自身も、このマッサージによって、正巳が回復するとは思ってなかった。

しかし、充血し、青みがかった足先を見ていると、
それだけでも、なにか解消してあげなくてはと、じっとしてはいられなかった。

あや子も佐和子も、いま自分に出来ることは、
正巳の回復に繋がるとはおもっていなかっただろう。

ただ、大好きだった彼が、いま最後の時を刻んでいる間に、
すこしでも負担を減らし、シンプルに、そしてスマートに進ませたい。

そういう思いだったと思う。

そんな三人は、自然と、正巳を通じて、被った迷惑な話し、
いまだから言える話などが、出てくる。

時折、大笑いをして「あ、起きると悪いから静かにしよう」と。

しかし、正巳は寝てはいなかった。

2006年5月28日 00:36

担当医が、回診にきた。

特に、なにかの処置をするわけでもなさそうだ。

「先生、いまどういう状態なのでしょう」
こちらの質問に、医者は、言葉を選びながら
しかし、私と佐和子の理解度にあった説明を始めた。

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要約すると、測定機器のメーターの数値を引用して、
・呼吸数85
・酸素量25
というのは、生存している状態ではない。

眠っていると思われたかもしれないが、酸素量25というのは、
低酸素状態であり、生きていくための数値ではない。

夕方から低酸素状態が続いているので、
すでに、脳は徐々に機能を停止していると思われ、
そのために、痛みも感じなくなり、身体の反応も無くなってくる。

声をかければ、反応はするが、瞳孔反応は無くなっている。

このままのペースでなら、呼吸量が50を切ると最後だろう。

時間は、人によって違うので、コメントできないが、
1〜2時間ではないだろうか。

もし、移動に時間がかかる遠方の親族がいるなら、連絡をしたほうがいい。
================

そう聞かされて、佐和子と私は、対応が一変した。

2006年5月28日 01:00

測定器の呼吸量が70を切った。

あや子・佐和子は、帰宅した親族に、
もう一度、集まるよう、電話をかけに、病室を出た。

私一人、正巳のメーターを凝視していた。

見回りの看護士さんが、メーターをみて、私にいった。
「氷枕を外しますから、頭を持って下さい」
言われるままに、正巳の頭を抱きかかえた。

たしかに、いま自分の腕の中にある正巳の様子がおかしい。

看護士さんは、
「もしものとき、心臓マッサージはどうしますか?」
少し考えたが、佐和子もそう言うだろうとおもい
「母やカミサンに聞かないとイカンですが、
無理に時間を延ばすだけなら、無理はナシで」

2006年5月28日 01:04

看護士さんの所見で「呼吸が止まった」と言われる。

正巳を見ると、確かにそうだった。

あわてて、電話をかけにいった佐和子・あや子を呼び戻す。
寝ている、立子・岩見のおばちゃんを起こす。
子供達も、起こしてきた。

山崎一家が、そろった時、測定器の数値は、ゼロを表示していた。

2006年5月28日 01:25

担当医が来て、心拍の完全停止を待った。

詩音・真凪に、「おじいちゃんになに言ってあげて」と佐和子。
でも、子供達は、声がでなかった。

死が近づく現実に、対処しようがないようだった。
詩音は、そんな自分がくやしくて泣き出してしまう。
真凪も、外には見せないが、この状況を自分の言葉に全力で整理処理していた。

電話連絡で、呼ばれた親族が、再び、病室に集まり始めた。

このときは、まだ、検査機器の心拍グラフに反応があった。

2006年5月28日 01:35

みなの見守る中、血液中に残った酸素だけで、動いていた心臓が停止した。

心拍グラフは、一直線を描いた。

医師の診察により、2006年5月28日01:35,死亡が確認された。

そばで、様子をみていた、立子が、立ち上がって、
正巳の枕元に覆い被さった。

号泣した。
「このバカたれ、私をひとりにしてから」

見合い結婚で、大分の片田舎につれてこられて、
苦楽を共にし、時には競い合い、時には慰め合い。

夫婦であり、会社の同僚であり、ライバルであり、友人であった。

晩年は、互いに身体のことを気遣い合って、
入院先の病院から、外出許可で、相手を見舞う、なんて、
破天荒なラブストーリーを見せてくれた、正巳・立子夫妻。

夫婦の一人が、永遠の存在になってしまった。

83歳で、未亡人になった立子を、私たちが守っていかねば。

———————————————–

その後、遺体処理などが施される間、あつまった親族は、
それぞれの思いにそって、帰宅組・遺体に同行する組とした。

病室から霊安室に移動し、
残っている親族・担当医・看護士と、焼香を頂いて、
霊柩車を待つ。

もう、私は、山崎正巳に、会うことはないのだ。

生と死の狭間で

山崎正巳は、「故山崎正巳」になった。

私の生涯で、ふたり目の「山崎正巳」との生活が始まる。

2006年5月28日 03時過ぎ

立小野に、正巳の遺体が帰ってきた。

近隣の皆さんの配慮で、すでに床の準備などが成されていた。

佐和子は、葬儀の喪主として、打ち合わせに参加した。

子供達は、眠ったり、遊び回ったり。

私は、することもないので、正巳の遺体に付き添った。

9時に、お寺さんが来て、お経をいただくらしい。

近隣の方達が、夜明け前だというのに、何人かが弔問に
来て頂いた。

さすがに、私も立小野の地の人になると、知らぬ方が多い。

帰宅より、とおるさん、という方が付いていて下さったが、
その方も、夜明け近くには一度、ご自宅に戻られた。

9時のお経までの時間のなかで、
正巳とふたりっきりになる時間帯もあった。

「じいちゃん、どうやったんね、89年?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、向こうにいったら、誰にあうかな?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、なにかやり残したことあるかい?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、一番たのしかったことは、なんね?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、一番辛かったことは、なんね?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、一番の自慢は、なんね?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、一番の失敗を、いまなら話せるだろう?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、向こうに持って行きたいモノあるかい?」
「・・・・・・・・・」
「じいちゃん、もし50歳若かったら、おれと友達になったかな」
「・・・・・・・・・」

故山崎正巳と、無言を交わした。

「じいちゃん、この先おれになにかしてほしいことあるかな?」
そう問いかけたとき、口元が動いた。

「だれかに・なんか・しちゃれ」

私には、そう聞こえた。

正巳と私は、会社の会議で、口論になったりすることが多く、
意見が合わないと、思われていると感じている。

そんなことも含めて、いくつかの事を、いっしょにやったり、
相手がやっているのを、互いに見守ってきた。

自分のことのようにうれしかったこともあれば、
激しく非難したこともあった。

しかし、「生き方」として、
なぜ、私が正巳を好きなのかというポイントが、
「だれかに・なんか・しちゃれ」
という精神に、共感しているからだと思う。

「だれか」
その誰かに出会うために、友達を増やせ。
人の集まる場所にどんどん参加しろ。
営業に配属されて、外を見て回れ。
「なんか」
自分が何をすべきか探せ。
世の中の面白いことに興味をもて。
あたらしい技術を模索しろ。
「しちゃれ」
出番が来たときに、能力を発揮しろ。
なにを要求されてもいいように能力を身につけろ。
やるなら生涯面倒見るくらい、やれ。

そういう、話を、無言で語りかけてくた。

今思えば、生前、至る場面で指摘を受けたり、思い出話を聞いた中、
この要素を感じて欲しいと、私に伝えていたふしがある。
もちろん、私だけではなく、佐和子にも、子供達にも、
会社の人たちにも、そういう話をしてくれていたと思う。

正巳は、三信工業グループを生み出したことによって
数え切れないほど「だれかに・なんか・しちゃれ」を実践してきた。

もう少し長生きしてもらって、再び会社にもどって、
それら一部でも、学べればよかったのかな、とも思うが、
正巳が生み出したすべての現象は、正巳にしか達成できない事だ。

もし、山崎雅治に期待されていることが
「だれかに・なんか・しちゃれ」
というのであれば、私なりの方向と手段で達成していくし、
そして、佐和子も同じく、佐和子の方向と手段を見つける。

子供達にも、そういう事が当然の生活をさせていくのだろうと感じている。

2006年5月28日 09時前

お寺さんが見えて、正巳に、帰宅のお経を上げて下さった。
近隣の方も、時間を合わせて、たくさん来て頂いた。

2006年5月28日 10時過ぎ

さすがに、佐和子も私も、あや子も立子も、
24時間以上、ノンストップで事に当たっており、
休むことにした。

城崎一家は、車で、家に戻り、紗代実をのぞく、
女全員が、気絶するように、部屋へ倒れ込んで、寝入った。

私も、立小野で食事をしてなかったので、あれこれ口に入れ、
緊急に連絡を取るべき所に、一報を発した。

私は、シャワーをして、ベッドで、20分ほど寝入った。

ひとり元気だった紗代実が、その空白の20分間で、
詩音を叩き、おもちゃを散乱させ、佐和子のめがねを破壊した。

元気だ。

2006年5月28日 13時過ぎ

14時に出棺の予定があるため、のんびりしていられない。

身支度を調え、私と真凪チームは、春日であや子を乗せて、
再び立小野へ。

立小野に到着すると、ほどなくして、霊柩車が来た。

佐和子チームも到着した。

出棺準備に入ろうとする葬儀社を制して、家族の儀式を行った。

紗代実のモチ踏みだ。

1歳の儀式を、紗代実の誕生日、4月18日に行う予定であったが
その時は、すでに正巳は、入院していた。

正巳の容態が改善して、立小野に戻ってくるモノだと信じ、
開催保留にしていたが、もう最後の機会だ。

他の誰にも邪魔されず、山崎一家全員で、実現できた。

2006年5月28日 14時過ぎ

旅支度と呼ばれる、足袋・脚絆などを、身につけていった。

特大サイズの棺に、正巳を横たえると、ギリギリのサイズだった。
けっこう、大柄な人だったのだな、と一同、感心した。

納棺し、立小野を出発した。

近所の、竹中葬祭場に向かう予定であったが、思い出の地を回送できるとの事で、
やまばと幼稚園・春日新築現場・三信工業本社へとまわった。

三信工業で、私と子供チームは、別車両ゆえ、城崎に戻る。
今夜の通夜で、会場に泊まり込みになるため、追加準備だ。

2006年5月28日 16時

竹中の葬祭場に到着すると、すでに準備は進められており、
正巳の棺も、祭壇に乗せられていた。

広い控え室に、ひとまず持ち込み荷物を置いて、着替えて会場に。

150人設定の会場では、急逝を知った正巳の知人縁者が、
焼香に出入りし、何人か私の面識の有る方から、声をかけて頂いた。

ただ、「ありがとうございます」としか言葉が出なかった。

私より、遙かに多くの思い出を持たれている方もいる。

今回は、親族・生家地区の方・直接故人と親密な交友のあった方、
に限った密葬で、進めることにした。

とはいえ、三信工業の社員の方、退職をされた方も来て頂いたようだ。

2006年5月28日 20時

通夜の会場から、控え室大広間で、親族を中心に、食事を行った。

歓談も賑やかになったとき、グラリと大きな地震がきた。

正巳がおこしたのだろうか?

詩音に「おじいちゃん、起きてしまってないか?」と見に行かせたが、
「あー、起きちょらんかった」という結果。

2006年5月29日 00時過ぎ

ようやく就寝ということで、シャワー室で、さっぱりとして、
佐和子と、すこし本日の出来事をミーティングした。

紗代実の生活リズムが崩れてしまい、また終日、佐和子と離され、
ばあちゃんたちに揉まれていたので、少し不安定。

大泣きして寝付かない。

2006年5月29日 00:30

紗代実も落ち着き、全員、寝入った。

私も少し寝て、目が覚めたところで、正巳の様子を見に行った。

別室の控え室に、安置されている正巳の部屋には、
立子・あや子・親戚が、寝入っていた。

起こさぬように、祭壇の前で、合掌。

2006年5月29日 01:30

息を引き取って、24時間になる。

24時間記念に、正巳とふたりだけで、晩酌をした。

生前、赤ワインを一緒に飲む機会が多かった。

今回の入院が無事に済み、春日の入居祝いのときに、
一緒に飲もうとおもっていたワインを開けた。

エシュゾー2001(ブルゴーニュ・ロマネコンティ社)
シリアル: No11520/16424

2つのグラスに注いで、1つを祭壇に供えた。

正巳は、まったくワイン通ではないので、
このワインをウマイというかマズイというか、
ぜひ、聞きたかったのだが。

誰も起きていなかったので、邪魔も入らない二人だけの晩酌だった。

2006年5月29日 07:30

私は、城崎に到着する宅急便の受け取りと、
予約済みの歯医者に行くため、竹中葬祭場を離れた。

ひととおり、要件を済ませ、向かおうとおもうと、
数珠を忘れていたので、城崎に戻る無駄な時間を経て、葬祭場へ。

2006年5月29日 11:40

控え室で、着替えをし、会場に向かう。

多くの参列者は、昨日の通夜会に来て頂いた面々であるが、
再度「最後の見送り、ありがとうございます」と、
私が誰だかを認識できた人は、ご挨拶をした。

今日は、多いのかな、と思っていたが、
そういえば、三信工業の社員は、仕事なので、来ないよな。

2006年5月29日 11:50

喪主佐和子は、あれこれ判断で忙しいようなので、
あまり役に立たないが、親族席に座って、参って下さる方への
ご挨拶をする。

一部の人たちが、席順や序列で、なにやらもめていたが、
私が口出すことでもないし、出したら口だけで済まないだろうし、
おとなしくおとなしく。

親族席から、祭壇の写真を眺めていたが、
昨日のように、無性に涙が流れてくることはなかった。

少し、現実を受け入れられたのかな。

2006年5月29日 13時過ぎ

定刻より少しおしての開始

・お寺さんのお経
・焼香
・弔電披露
・喪主挨拶

と、淡々と過ぎていった。

焼香の際、紗代実を外されそうになったが、
抱きかかえて祭壇の前で、きちんと焼香してもらった。

紗代実は、今回の事は、どのくらい覚えてくれるのかな。

小さな手を合わせていた。

喪主の挨拶の中で、
詩音真凪が、明るい色の服を着ていることについて、
正巳と選んで買った服、特別な時に着た服と、
説明をした。

昨夜、「非常識ではないか」と意見も合ったようだが、
佐和子らしいと、私は再度、賛成だと言った。

閉式の後、山崎一家全員
佐和子・あや子・立子
詩音・真凪・紗代実
雅治

と、そろって、お見送りに立つ。

会場に戻ると、祭壇の棺が低いところにおろされ、
献花・思い出の品を、棺に納めていった。

思い出の品は、
・詩音が描いた、フルーツショップの絵
天国でおじいちゃんが食べられるようにとの事だった。
・真凪が描いた、立小野で夏のプール遊びの絵
真凪にとって、立小野に行けばおじいちゃんが居て
夏は、あそこでプールが出来る事を示した大切な一枚だと思われる。

昨今、棺の釘打ちはしないそうなので、蓋を閉め、
台車に乗せられ、火葬場へ移動する。

まだ、ロビーには、帰らず残っていた参列者が並ぶ中、
静かに運ばれる。

2006年5月29日 14時過ぎ

告別室で、棺の窓を開き、最後のお別れだ。

かなり、高さがあるので、子供は抱きかかえるし、
立子も、すこし持ち上げねば見えない状態だ。

全員で合掌の後、隣室の火葬炉へ。

山崎家、8番炉だった。

台車とレールと火葬炉と、完全なシステムになっていた。

「本当に最後のお別れです」と係の方の言葉に、
嗚咽が漏れ聞こえてくる。

約40時間くらいでしかなったが、
私が、「故山崎正巳」と過ごす時間も、終わりとなった。

死亡後、火葬までの時間は、いつも短いなー、と思う。

通夜があって、葬儀があって、盛りだくさんの様だけど、
40時間ぽっちだった。

約89年間生きた人が、40時間で消滅する。

うーん

善し悪しは、それぞれあるだろうけど。

さて、棺は台車ごとレールに沿って、炉の奥に移動し、
自動ドアの炉壁が、静かに閉まった。

「では、代表の方、スイッチを」と佐和子が歩みでる。
白いボタンを押すと、ボタンが光る。

点火らしき手応えは無かったようだが、
感情的に、キツイらしい。

一同、別館の待合室で、収骨まで待機。

広いロビーもあるが、山崎家の個室もあり、
畳に座る方がいい人達は、こちらで休んだ。

私は、葬儀会場側の駐車場から、
火葬場側に、私と佐和子の車を移動していた。

待合い棟に戻ったら、
男性陣は、ロビーで、思い出話をしながら待っていたが、
わたしは、特に会話を求める人もいないので、
おばさんたちの集う、和室に行く。

子供達もこちらにいるので、そうしただけだが。

TVがあるので、子供達と毎週見ている
「エンタの神様」を見ながら、詩音は大爆笑。

2006年5月29日 16時前

火葬の所要時間は、約90分という事で、聞かされていた。

喪主が、先に呼び出され、炉の解錠と取り出しに立ち会った。

私たちは、収骨室という場所に集められ、待っていた。

入り口の逆の扉が静かに開くと、先ほどの台車と佐和子がいた。

台車の上の棺は、あとかたもなく、白い灰と白骨が乗っていた。

自慢の歯を付けたまま、上顎頭蓋が、眼窩の形状を残したままだった。

昨夜、県立病院で、むくみ解消になればと、揉み続けた足もあった。

大腿骨頭も、膝関節も、かかとも残っていた。
そうだと思った事が的中だったので、うれしかった。

係官から、壺に入れる手順などが、説明され、
参加者が順番に、入れていった。

この係官さんは、遺骨の扱いには、思いがあるようで、
厳しく、収骨作業を進めて頂いた。

せっかくいい形で残った頭蓋骨を、さわろうとして、
「さわらないで下さい」と、怒られる。
※もちろん、いつものメンバーだ。

車いすの立子の状況を察しての配慮で、
のど仏と一番てっぺんの骨を、立子に入れさせてくれた。

係官曰く、天国の生活がある。
残っている部分は、足から手、肩、口、鼻、目と、
すべて入れてあげたい、なので、足ばかりを入れると、
全身が入らなくなり、残念な収骨になってしまう。

うーん、プロフェッショナルとは、すごいモノだと、感心した。

2006年5月29日 17時前

私は、朝城崎に戻り、終日、何も食べて無くて、
佐和子も同じような状態だった。

葬祭場から、立小野に戻るが、私は半田マルショクで、
食材を買って、立小野に戻った。

車が停められないので、裏の墓地側に車を回して、家に入る。

なんと、お寺さんも到着しており、雅治待ちだった。

帰宅のお経を上げてもらい、お寺さんから、生前、本堂建築で、
大変お世話になったと謝辞を頂いた。

その後、宴席となり、家の中いっぱいの人で、飲食をした。

なんだか、群がるかのように、人が増えていた。

親族の解釈によっては、山崎家、ってこんな人数なのかしら?

2006年5月29日 20時

詩音・真凪は、明日の通学・登園に支障が出るため、
一足先に、私と城崎に帰る。

佐和子は、喪主としての責任と、おばあちゃんたちの様子を見届けるとして、
21時まで、居たようだ。

城崎5人になって、今日一日の事を振り返り、
また明日からしばらく続く、式典や事務処理などを、話する。

全員の率直な感想として、
「じいちゃんが死んだって気がしないね」と一致した。

城崎に帰ってくれば、正巳の存在の、あるなしは、感じることは難しい。

これまで、同居していて、いつも居るはずの場所にそれが無い、
なら、空白感もあったのかもしれないが。

2006年5月30日 01:35

48時間経過、また晩酌。

しばらく続けようかな・・・・・?!

以上

父と娘の二人旅シリーズ「自動車日本列島mini縦断」

東京・神奈川・静岡・愛知・岐阜・滋賀・京都
大阪・兵庫・岡山・広島・島根・山口・福岡・大分

※2006/4現在、東名・名神・中国・九州の自動車道がかかる都府県

自動車を買いに行った。

目的はそれ1つ

バスを買いに行こう

それは突然の決定だった。(前回:雅治&詩音の「東京日帰り小旅行」と同様のノリだ)

昨年2005年秋より、やまばと幼稚園の依頼で、中古のマイクロバスを探しており、
この3月、希望に適う物件が見つかった。

Yahooのオークションで見つけたその車体は、日産シビリアン平成2年

キャンピング改造を施した、車体であった。

やまばと幼稚園では、これを乗用にするわけでないので、
乗客席など無いほうが都合良く、予算としても折り合いが付いた。

ところが・・・・・

車体は、神奈川県に存在した。

雅治&詩音の「東京日帰り小旅行」

現車は神奈川県

オークションの商品だ。
※自動車をオークションで購入する神経については別の機会に

映画DVDの中古や、激安家電と違って「ハズレたら笑って済ます」わけにはいかない。

なんせ、自動車の取引である、ひとの命に関わる物件だ。

もちろん、出品者とメールや音声でのやりとりのなかで、
互いに「信頼おける人柄」を感じ取っているのは前提である。

しかし、モノがモノだけに、慎重に進めることにした。

つまり・・・・・「現物の確認に赴くことにした」わけである。

2006年4月6日に、空路で大分→東京…..厚木入りし、確認の上、取引成立させて、
その後、費用の精算などを経て、陸送業者に委託し、
「大分で到着を待つ」計画だった。

出発の数日前から、先方と合流地点の確認や、付帯費用の打ち合わせを
進める中で、現車確認に赴く費用が丸々こちらの負担総額に影響し、
買い付けしたにも関わらず、別途費用で、輸送することに
私は疑問をもった。

「その場で決めて、乗って帰ればいいではないか」と極めてシンプル。

早速、その旨、先方に伝え、取引成立の直後、自走で大分に戻る段取りをお願いした。

問題点は、車体が1000キロを超える距離を短期間に走行可能か?ということ。

実際、ファンベルト交換や油液補充は必要であろうと、私も考えていた。

前日5日、先方とのやりとりで、整備工場の段取りや、自賠責・仮ナンバーの
手配手順が準備されていった。

ところが・・・・・

詩音同行決定

その資料を作成していた時に、長女「詩音」がやってきた。

詩「パパなにしよんの?」
雅「あ、明日幼稚園のバス買いに東京に行く準備してるの」
詩「えー、詩音ちゃんもいくー!」
雅「マジ?」
詩「いくー」
雅「退屈でー、ずーっと車に乗ってるだけなんで」
詩「いくー」
雅「じゃ、いくかー」

という、いつものノリで、同行者追加決定。

前日の4月5日 21時を回ったところだったが、
JALの予約を追加変更して、先方にもその旨伝え、
ママは、詩音お出かけキットを準備。

先方より、音声連絡が入る。

お嬢さんも乗るのなら、確実な走行を保証したい、
しかし、当日、取引成立後の整備開始では、
一日無駄にさせてしまうおそれがあるので、
成立はしていないが、今夜中に整備を開始したい。

との事だった。

不成立の場合、整備費用の負担は、どちらの責任か?

そういう部分も、未解決要素ではあったが、
訪問は、購入する前提での現車確認だ、さっそく整備開始をお願いした。

そして、現車を見て、驚くことになる。

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※ホーバー室内(なんだが携帯カメラのレンズのせいか、ひずんでいます)

翌日、4月6日 6:00起床で、6:45のホーバーに乗る。

タクシーで、大分ホーバーに到着し、1番最初に船体へ乗り込む。

大分空港に到着後、出発までしばらく時間があるが、
特に何をするでもなく、そのときを待つ二人。
(実は、プリクラなんかもやっていた)

SN340017

※すでに退屈な、詩音さん

8:25発 JALにて、空路羽田へ出発。

お約束の、ハイチュウいちご味は、売店で購入

SN340019

※本日の搭乗機をバックに

飛行機は、前回以来かな?

機内で、星の形のminiクッションをもらったり、
オレンジジュースをもらったりするけども、
なんとなく、時間をもてあます様子。

SN340020

※機内でヒマモード

クラスJシートのため、ちと大きい座席が身体にあわないのか、
ぐねぐねブツクサごろごろとしばらくしていた。

また、上り線進行方向右側のため、富士山も見えず。
(いずれにしても曇りでダメだったようだ)

あまりに退屈なのか、機内のトイレに行ったり。

イマイチな上空生活を過ごし、着陸となった。

羽田空港着

SN340022

※羽田に到着してすぐ、パパが行ったトイレ前

トイレに行きたくてしょうがなかったパパがすっきりと出てきたので
羽田空港到着の1枚

この後、京急空港線で、羽田空港=>京急蒲田

乗り換え後、京急本線、京急蒲田=>横浜

乗り換え後、相鉄本線、横浜=>さがみ野

と、移動する。

移動の車窓から、詩音さんのコメント
「緑が少ないね、詩音ちゃん、こんなところイヤだ」

SN340023

※さがみ野に向かう、京急線(羽田空港)のホームで待つ詩音

さがみ野駅に到着し、車体をお世話になる大木氏と駅のロータリーで合流

さがみ野駅周辺は、日産自動車座間工場となる。

周辺をガイド頂きながら、厚木の自動車整備工場へ移動した。

大木氏のところは、幼稚園の男の子・女の子のお子さんがいらっしゃるそうで。

移動の車内
「おじょうちゃん、ラブ&ベリーなんてする?」
「するー!」
「じゃ、CDかけるね」
と、同じ世代の子を持つ父親の車は、同じ状況なのだと大笑い。
(私の車も、同じ音楽装備だ)

子供は、ハイチュウがすきだとか、神奈川県の幼稚園の様子とか
大木氏の仕事の話、私の自宅自営業で無職と思われている事とか、
私が持っていた面会前の印象と一致、あるいはそれ以上の親しみを感じた。

12:00
とにかく、現車を確認が、目的なので、
前日から工場入りしていた現車を初めて見る。

驚き・・・・ハデな分解整備の真っ最中だった。
(私はガソリンスタンドの点検レベルは最低限お願い出来るかな、と思っていたが)

工場スタッフの意見で、九州まで帰るのなら、
しっかりと整備をして送り出したい。

ということで、油液類・ベルト類は、補充や新品に交換し、
グリスアップ・電気系統も点検していただいた。

私の予定は、13時前に工場を出発したいと思っていたが、
14時まで整備にかかるという。
(時間が合えば、静岡・京都に立ち寄る計画を持っていた)

大木氏と無事あえた

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※今回、車体をお世話になった、大木 正俊 氏 うどん屋で

その間に、近所でうわさの手打ちうどんで昼食を。

本当においしかった、私は2人前をさらりと、頂きました。
詩音さんも、大人一人前を、ぺろり。

次に、仮ナンバーの取得で、愛川町役場に。

もっと、大変な事かと思っていたんだけど、
申請書、免許証・車検証・自賠責証と750円を出すだけ。

使い込まれた仮ナンバーを受け取った。

——–

心霊スポットで有名な、病院の廃墟などを、道中に見たりしながら、
工場に戻ると、あとはワイパーゴムの交換で終わりだと。

時間は、14時を過ぎていた。

なにやらモメているが、車体年式が古くて、到着したワイパー部品が合わないらしい。

そこで、工場にある別のバスからワイパーアームごとひっぺがして
私たちの車体につけてくれた。

今回、雨にあうこともなく、この恩恵に触れることはなかったが、感謝。

——–

バスの整備もすっかり整い、大木氏と費用の精算など済ませ、3人でかたい握手を交わした。

4月6日15時過ぎ、整備工場が面する129号線に出て
ながい長い旅がスタートした。

私の計画から、2時間ほどずれ込んだ出発だったので、
静岡・京都の立ち寄り予定は、断念した。

大分に向けて走行開始

まずは給油をして、129号線を進み、東名高速道路:厚木ICを目指す。

一般道の走行も、大きな混乱もなく、次第に車体の感覚にも慣れてきた。

さて、夜間も走行するわけで、詩音さんは眠ってしまうことはもちろん、
私も仮眠を取っての走行を考えていた。

ホームセンターに立ち寄り、ふとんなどを購入しようとあたりを見回し
国道を走るが、なかなか見つからず。

また、乗用車より大きいマイクロバスで入れる駐車場を備えたスーパーも見つからず。

結局、なにも購入できず、東名高速に接近した。

——–

厚木ICを通過し、東名高速下り線に入る。

いつもの乗用車の感覚で加速するが、100Kが限界

うーん、この感覚のズレがずっと苦労する1つの要因だった。

全体の時間配分を、いつも使用している乗用車の性能で
考えていたため、1時間で、120Km以上進めると計算したが、
実際は、60〜80Km位しか出せなかった。

もちろん、車体の状況も、整備済みとはいえ、いきなりムリな
走行をするわけにも行かず、しばらく互い?に様子見の運転を続ける。

SN340024

※最初のSA 足柄SAで

いくつかのICを経て、最初のSAに到着

写真をみての通り、一応、大型車の並びに駐車するのだが、
15トンの輸送車に比べたら、谷間の突起物って感じで、
ずいぶんちっちゃく見える。

詩音さんは、この様子が気に入ったようで、バスを「うちの子」と称し
以後、ずっと車体を「うちの子はちっちゃくてかわいい」とお気に入りなのである。
(もしかして詩音さんと一緒にバスも荷揚町小に入学したりして)

ショップで、おみやげ買いあさり&車内用飲食をまとめ買い。

あまりに退屈な詩音さんは、ウサハナの液晶携帯ゲームを購入。
(でも面白くなくて役に立たず)

しばらく、下り線を走行。

今回の旅の目玉、富士山に会う。

富士山

SN340026

※富士川SAで、富士山が見えず

景観日本一と自称(公式HP)する、富士川SAに立ち寄るが.......。

なんだよー、おい!

富士山を拝む目的は果たせず、おみやげ買って、次に。

——–

神奈川県から静岡県に入るが、静岡といえば、ずっと会いたかった人がいる。

1997年、香港がイギリスから中国に返還される瞬間に立ち会うツアーが
客船「ふじ丸」で計画され、私はそれに参加した。

その参加者であった、清水在住の内田ご夫妻である。

内田家襲撃?!

SN340027

※静岡清水の内田ご夫妻と

※その際、わたしたちがビジターで、ふじ丸に乗船した時の佐和子&詩音

2000年春、大分にお見えになったこともあって、そのとき詩音は1歳前だった。

家を出るときには、立ち寄るつもりで、近況を伝える写真など持っていたが
工場の出発が、2時間近く押してしまったので通過しようと思っていた。

しかし、やはり静岡まで来て、会わずに帰るのもなんだし.....。

実は・・・・・調達するモノがあった。
車内で仮眠をするためのふとんだ。

そこで、電話で、内田夫妻に「いまから行くよー」と、電撃連絡。

内田のおかあちゃん、なにか良く解らないけど、
自宅までの、経路を説明してくれた。

清水駅前通に面した自宅の駐車場に、バスを突っ込む。

1Fが駐車場で2階もある家の真ん中に、バスが半分はみ出した状態は
まるで「バスが民家に突っ込んだ事故」のようだった。

部屋に上がって、静岡の美味しいお茶を頂きながら
挨拶もそこそこで「おかあちゃん、ふとんおくれ」と言い出す。

老夫婦の二人暮らしで、来客も無いから「急に言われても」と
ぶつくさいいながら、家中回って掛け布団を出してきてくれた。

ほんの20分程度の滞在で、こちらの欲しいモノだけもらって
18:45 さっさと内田家をあとにした。

再び、清水ICから東名高速下り線に入る。

夜間の東名は、輸送車で、大混雑。

大半が、15トンのコンテナ車であるが、
前後の車間1mくらいで、バンバンと飛ばしている。

左側走行車線は、速度厳守ドライバーが、きっちり80kで走行し、
追い越し車線は、戦うドライバーの無法状態。

私たちも、乗用車でなく高い位置の運転席で見通しがいいので、
走行バトルに参戦するが車体のパワーの差は歴然。

こちらが、100kを超えて110k限界に、悲鳴を上げながら
進んでいる真横を、大きな輸送車が、何台も連なり、ぶち抜いていく。

相対速度で判断するに、200k出る輸送車も有るみたいだ。

ちょっぴり、15トンのトラックが欲しくなる私。
(置き場所がないから、ムリだなー)

SN340028

※夜の東名高速を激走するパパの後ろ姿(詩音撮影)

退屈な詩音さんが、大きな輸送車と戦うパパを携帯で撮影する。

——–

やがて時間は、21時前

夜ごはんと、シャワーをかねて、浜名湖SAに停車する。

ここで少し仮眠しようかとおもっていた。

なんたって、ふとんも調達済みだ。

SN340029

※浜名湖SAで、ウナギ丼を食べるが・・・・・

やがて時間は、21時前

夜ごはんと、シャワーをかねて、浜名湖SAに停車する。

ここで少し仮眠しようかとおもっていた。

なんたって、ふとんも調達済みだ。

まずは、腹ごしらえだと、レストランに入る。

私は、焼肉定食で、詩音さんは、迷わずうなぎ丼

詩音さん、どうも食が進まず....。

1600円もした、ウナギ丼だ、もったいないから食えよ、
と、つまんだ私も、箸を引っ込めた。

味覚の世界は広いことを実感した。
きっと、あの商品を支持する人たちもいるのであろう。

シャワーが無い!

さてシャワーをして、少し休んで再度激走と思っていた。

ところが・・・・・・

私の勘違いで、浜名湖SAには、シャワー設備が、なかったのだ。

あわてて、インフォメーション端末に行き、SAの機能別検索を行うと、
私たちの旅路には、先ほど、通過した牧之原SAにしかシャワーはないのだ。
(私が、全国SA表で、設備一覧を1行見間違えて、覚えていたのだ、うぅ..)

もう1箇所は、名神高速道路:多賀SAに簡易ホテルがあるだけだ。

わたしの事前調査の甘さが、ここにきて、自分たちを窮地に追いやった。

汗かきの私は、ぜひスッキリしたいところで、
詩音さんも、キレイになって眠りたいと願う。

選択肢は2つ
(1)先の多賀SAのホテルまで進む
しかし、まだまだかなり先にある
(2)一度、東名高速を降り、上り線に乗り換え、牧之原へ戻る
しかし、IC10個程度の戻りは、大きな時間のロス

その決断は、しばらく目を閉じて考えた詩音さんが下した、
「うん、よし、キレイになってがんばるために戻ろう」

その決定を受けて、下り線、次の三ヶ日ICで、折り返し、
再度、上り線へ入り、牧之原SAへ。

さすがに6:00起床から休憩無しの詩音さんは、眠ってしまった。

トラックセンター

1時間程度の戻りで、牧之原SA上り線側へ到着。

ここは、トラックと一般の駐車場が大きく分かれており、
その意味を後になって、思い知った。

一般客の気持ちで、普通車が並ぶショップ側に車を停め、サービス棟へ。

しかし、シャワー室は見あたらないのである。

そう、ここの駐車場の様子を思い出した。

トラック側は、トラックしか停まってなかった。
つまり、トラッカー専用のサービス棟があったのだ。
私は、そこにシャワー設備はあると、推測した。

さっそく、そちらの建物に移動することにしたが、
我々は、車に戻らず、歩いて移動した。

しかし、広大な駐車場は、およそ幅1キロはあろうか。

目では見えるが、トラック側のサービス棟は遙か数百m向こうである。

自車に戻って車で移動するか、半分以上まで来たのだから行ってしまうか。

気温は約10度、子供には辛いだろう。

でも、徒歩を強行する二人。

トラック側サービス棟にはいると、にぎやかな飲食スペースの向こうに
ランドリーと、コインシャワーがあった。

当然だが、シャワーの前には、10名ほどの、トラッカーが順番をまっていた。

その筋チックなトラッカー達が、ビオレ等を入れたカワイイ百円カゴをもって、
静かにベンチに座っている。

私たち親子も、その末席に並んだ。

3台あるコインシャワーは、200円で10分の噴射だ。
以後、100円毎に5分の延長が可能だが、
だいたいが、10分の間隔で利用者が出入りする。

先着が減っていき、順番待ちベンチを横ずって、詰めていく。

シャワーから出てきた人は、順番待ちのみなさんに
「お疲れ様です、ありがとうございました」と一礼して去っていく。

次に入る人は
「お疲れ様です、お先にいただきます」と、一礼して入る。

私たちは、トラッカーではないが、それが礼儀ならと、
利用前と利用後のご挨拶を、その場のトラッカーにする。

もちろん、言われた人たちも「お疲れ様です」と返してくれる。

きっと「春休みなので業務走行に娘を同乗させたんだな」と思われただろう。

その様子をみて、自分の子供を思い出したトラッカーも居たはずだ。

思いがけない場所で、人間的で貴重な体験をしたと思っている。
(でも、私はトラッカーではないのだ)

SN340030

※コインシャワー後

さて、深夜の静岡県、外は10度の厳寒

詩音さんを冷やさぬように、頭にタオルを巻き
私のシャツを重ね着させて、車に戻る。

つまり、私は、Tシャツ1枚で、厳寒の中をあるいた。
シャワーが暑かったので、実際は、心地よい寒さだった。

SN340031

※シャワーが終わって、車内でくつろぐの二人

髪を念入りに拭くなどしながら、「コインシャワー体験」が
とても楽しかったと、興奮気味の詩音さんの感想を聞く。

身支度を調え出発、車線に入り「さて、いきますかー」と速度を上げる。

暴走トラック達の流れにものって、快調だ。
詩音さんは、内田夫妻から頂いたふとんの様子を調べると言って、
広げたり、かけてみたりしていたが、気持ちよくなって、すぐに寝てしまった。

次の吉田ICを過ぎたところで、「ああ!!」と、あわてる私。

そう、私は、上り車線にいたことを忘れていた。

ごきげんに東京方面へ向かっていたのだった。

つまり、先ほど通過した、吉田ICで降り、再度下りに
入らねばならない所をすぎてしまった。

まさに、Oh! No! である。

この事件は、詩音さんは、寝てて知らない。

次の焼津ICで、折り返し、再び下り線に戻った。
本日、2度目の牧之原SAを通過、2度目の浜名湖SAを通過し
シャワー事件がなければ、意識に残らなかったはずの三ヶ日ICを通過。

約3時間のロスであった。

パパ一人、走る

その後、しばらく順調に走行した。

内装はシンプルなままで、エンジン音や外の騒音が鳴り響き
会話も困難な車内で、詩音さんは熟睡していた。

また、TVは付いているが、電波状態も悪く、まして聞こえない。

音楽もない、グォングォンという騒音だけの、一人の運転だったが、
これもまたこれで良い感じで、今日の出来事や、先のこと
そして、この春から始まる、いろいろな新生活に思いをはせた。

出発前の下調べで走行区間に19箇所のSAが有ることを知り、
1つ毎に、名物土産を買おうと考えていたが、これも誤算。

深夜に通過するSAでは、買い物は出来ないのである。
上郷SAのみそかつや、養老SAの赤福・ゆかりなどなど。

走行中も、いろいろな体験があった。

地形の状態で、時折、高いところから、道路全体を見下ろせる機会がある。

さらに高い座席位置もあって、前を行く車の列は、遠くまで続く絶景である。

まるで、ナウシカオームの行進(本物は見たことない)のようだ。

すごいなー、と思ったのが、道路の走行車線にそって、
キレイに外灯が並んで、それも走行を案内するように、
流れに沿って光っている。

と思ったら、同じ大きさの輸送車がずっと連なって、
同じ速度で、同じ間隔で、移動しているがために
コンテナの四隅についている側車灯が、中央分離帯のように
固定された外灯に、見えたのである。

走っている車の大半が、輸送車である。
クロネコ・フットワーク・佐川・郵便・・・・

時折、自衛隊特殊車両や、タンクローリーや重量物トレーラーがあった。

深夜、やたらと輸送車が多いが、0時から朝まで、
ETCの特別割引の時間帯らしく、深夜に走るのが常識だそうだ。

途中、経路を間違え、中央道に入ってしまい、またもや上りに。
あわてて戻って、ここでも1時間ほど、ロスが発生。

この事件は、詩音さんは、寝てて知らない。

再度、東名・名神・中央に分岐する「小牧ジャンクション」に戻って、
今度は間違えずに、名神高速道路へ。

中国自動車道

多賀SAにさしかかったのが、7日午前2時付近。

もし、シャワー事件で、牧之原SAに戻らなければ、少なくとも深夜まで
汚いままの二人で、ここまで来ていたことになる。

立ち寄りはしなかったが、ホテルがあるだけなので、
シャワーだけという選択肢はなかったかもしれず、
詩音さんの決断が、二人にとってベストになったことは事実だ。

大津SAで、停車したのが、3:30
私も、6日6:00に起床し、大分を出発してから不眠不休だった。

さすがに、24時間ノンストップを直前にして、仮眠とした。

寒さもあったので、エンジンをかけておこうとおもったが、
よく聞くネタで、「排気ガスが車内入って危険だ」と思い、
エンジンをきって、横になる。

30分ほどで目が覚めて、トイレにいったが、どうもまっすぐ歩けない。
頭がフラフラするのである。

原因は、不明だが、排気ガスかもしれない。

排気ガス中毒を懸念し、自車のエンジンは切ったが、
周囲に数百台停まるトラックは、エンジン全開で停車している。

つまり、敷地内、排気ガスだらけだったのだ。

ぼーっとしていた4:00前だったが、なんとか出発。

——–

しばらく走ると、吹田ジャンクションにかかり、
名神高速道路から中国自動車道に入る。

実は、京都にも立ち寄る予定があったが、どう考えても
明け方の到着になると予想できたので、前日に先方へ断りをいれた。

当初計画を、乗用車の速度で、時間を計算していた私の誤算の結果だ。
(郷田さん、すまぬです、またお会いできる機会もあるでしょう)

大阪・兵庫、この付近で、だんだんと夜空が次第に変化してきた。

5:00になると、詩音さんが起きた。

中国自動車道は、大分の雰囲気と共通するところがあるのか、
詩音さんも、気持ちがいいようだ。

夜から朝への変化を、ずっとライブで体験しながらの走行である。

次第に、山道が多くなると、上りや下りがキツクなって
うちの子(バス)のエンジンも苦しいようである。

バックモニターで様子を見ると、排気ガスが黒煙となっている。

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※中国道を爆走する二人

水温計を見ながら、でもトップスピードを維持する私。

SN340034

※七塚原SAで朝食

当初の予定では、関門海峡で朝食を、と思っていたが、
いろいろなロスも重なって難しいので、朝食のため、
七塚原SAに立ち寄る。

まだ、食欲がなくて、おりにぎり1個の詩音さん。

私は、名物らしい七塚原バター入りのラーメン。

SN340035

※ここまで無事にきた、うちの子(バス)と詩音さん

本日(7日)、15:00から(株)三信工業で、IT会議が予定されていたが
物理的にムリなので、バス&詩音さんの写真(↑)付きで、延期をメール連絡。

朝食を終えて、中国自動車道下り線を、走行継続。

山間の道路で、景色も変わらないため、詩音さんの退屈はピークになる。

トンネルの出入りが多いのでなんとか、気も紛れるが、確かにヒマだろう。

すみません、トイレないですか?

本郷PAを過ぎた直後に、事件は、起こった。

「あのね、パパ、次トイレ、いつ停まる?」
「あー、いま過ぎたばかりから、しばらく無い」
「あのねー、詩音ちゃん、うんち」
「ふーん、じゃ、次は停まろう」

しかし、彼女は待てなかったのである。

もうムリだの、頭が出そうになるだの、大騒ぎで。
「じゃあ、そこのタオルにしなさいよ」
「いやよ、そんなの恥ずかしい」

大騒ぎの車内で、なんとか、千代田ICを見つけ、
IC事務所に駆け込もうとする。

が、車体が車体なので、駐車場も横付けできる場所もなかったが、
運良く、その事務所は、除雪作業車の基地だったので
ひろい場所に、エンジンも施錠も放置で乗り捨て状態のまま、
事務所に駆け込んだ。

ドアを叩き「すみません、トイレないですか?」と
必死の形相の親子だ。

高度なセキュリティーで閉じられている事務所なので
鍵も開いてないし「関係者以外はいるな」と貼られている。

が、親切に迎え入れてもらって、パンツ脱ぎながら
トイレに走る、詩音さんだ。

大業を成して、仏の様な安堵の表情で出てきた詩音さん。

大きな声で、「ありがとうございました」と、事務所を後にする。

なので、料金所を出る事無く、パイロンを抜けて、再び下り線に戻った。

——–

退屈がピークに達したが、空腹もピークの詩音さん。

前回停車の七塚原SAでは、おにぎり1つだったので、当然だろう。

途中、いくつか飲食の機会もあったが、パパがどうしても
関門海峡でごはんだ、といい、そこまで待たされる。

別に大きな意味は無かったのだが、関門海峡をみて育ったパパの
あそこでメシにしたい、正にコダワリなのである。

060407_1253~0002

下り線は、関門橋の下関側に壇之浦SAがある。

トイレをして、風が強い中、展望台に立つ。

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※関門海峡をバックの二人

甘栗を見つけ、ママにと言うが、荷物になるので後回し。

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※壇ノ浦SAで、関門海峡の写真をママに送る詩音

昼食に、展望レストランにあがって、
ハンバーグセットと、焼肉定食。

なんだか、ここでも食が進まない、詩音さん。

意見を聞くと、まさに当然の話で、
二人の結論からすると、高速道路のレストランは、
今後、注意しょうと、一致した。

レストランを出て、出発のため自車に戻るが、
ママに買おうとした、甘栗を思い出して、サービス棟に戻る。
「栗を買わなきゃ」と詩音さんの意見で、戻る様子を、
栗の販売員さんがみてて、
「おじょうちゃんのおかげで売れました」と言われ、
ちょっと気分のいい、おじょうちゃんでした。

九州上陸

関門大橋を渡りきり、いよいよ九州に上陸だ。

好天に恵まれた九州上陸に、思わず二人は、
「九州は、やっぱ暑いねー」と、同意見。

短時間で、関東から移動してきたゆえ、出た感想である。

このまま、九州自動車道:小倉東ICまで行く予定だったが、
折角の機会なので、パパの生まれ育った町や通った小学校を
見て回る「北九州探検」のオプションを実行した。

市民会館・庄司町・長谷・柄杓田小学校などを経由して、それぞれのエピソードをまじえ
散策しながらのオプショナルツアーだ。

とはいえ、私が6歳まで住んでいた頃とは、すっかり様子も変わっていた場所もあって
私自身も、新鮮な気持ちで見て回った。

雅治実母の墓に立ち寄り、詩音小学校入学を報告。
(その間バスは、どこにも置けないので道路に乗り捨て状態)

——–

10号線を進み、椎田道路に入ったところで、ママに電話。

やまばと幼稚園到着予定を、16:00〜16:30とした。

行橋・中津と進んだ。

途中、前々を行く輸送車の後輪が、破裂して、タイヤゴムが
飛び散り、前の車が、大きく動揺してぶつかりそうになった。

ほんとに、すごい音がした。

宇佐別府道路に入ったときに詩音さんは、居眠り。

そういえば、詩音さんは、車酔いのおそれがあって、ママが心配していた。

今回、どうなのかな、と私も心配していたが、キャンピング改造された車内は、
対面シートで、子供にとっては、部屋に等しい広さだ。
シートに立ち上がっても、天井には届かない。

移動中、あちこち車内を自由に移動して、居場所を確保。

そんな自由な空間であったため、車酔いはしなかったのだろう。

そして、生まれてこの方、車ではシートベルトで拘束されていた詩音さんだが
自由に動ける車内の体験も、酔いを誘わなかったのかもしれない。
(タクシーなどはベルトをしないが、パパに抱っこ拘束される)

大分米良で、起こされて、懐かしい半田マルショクを横目に見て通過した。

16:36、無事、買い付けたバスを、やまばと幼稚園にお届け完了した。

1都2府12県にまたがった、走行1426キロの旅は、
何日もかかった大変な旅であった感覚はあるが、
大分を出発した、4月6日6:30からすると、
実際は「34時間の旅」であった。

仮ナンバーのため、任意保険が用意できず、事故に注意をしていたが
無事に、帰り着いたのが、なによりのおみやげ。

そして、自動車の旅は、To Be Continued ではない....と思う。

END

余談

今回、6回、給油したが、クレジットカードで精算した。

大分に戻って、カード会社から、確認の電話が入った。
「山崎さま名義のカードで、何度も給油されていますが、心当たりは?」
「はい、長距離の車の移動をしましたので、事実ですね」
「そうですが、わかりました」

話を聞くと、

高速道路で駐車中の車から、クレジットカードを盗み、
その換金の手段として、何度も給油を繰り返し、
タンクにためて、転売する手口があるそうな。

1日に、何度もガソリンスタンドに行くと、
そういう利用者ステータスが出て、音声確認があるらしい。

いやあ、システム屋として、情報の見方(分析)の参考になった。

以上

2006年に向けて

☆2005年 72点

2005年頭に公言したキーワードは2つ
・BBブランチ
・成すがままに在るがままに

・BBブランチ

結局、なにも実現しませんでした。

原因は「開校に向けた情熱に欠けていた」事だと感じています。

2005年は、当時手がけていた企業システムの完成を目指し、
その終了と同時に、BBBを開校し身分を移行するという計画であったと
当時の自分の言動記録から推測されます。

計画が計画通り進まなかったのか、
計画そのものが甘かったのか、
特別に検証はしません。

1つ、いまとなっての結論として、
「BBブランチ for  システムスペシャリスト」の必要性は認めるが
自分が学校長として指揮を執るには、至らない状況であるということ。

既存のカリキュラムは、陳腐化し、
それを時代に合わせて刷新するだけの技術も知識も、
自分は追い付けていない。

システム屋は「技術でなく、人生観とセンスである」という校風があるとして
学校長自身が、システム的人生観に不備があるとすれば、
技術も作品も、指揮指導にも、不満足な結果を残し、
授業料を頂くだけの完成度は望めず、断念しました。

こっそり、
BBブランチ for  クッキング は、進行中だが
衣食住の根幹に関わる部分の修練というのは、

「教えたり」「教わったり」するモノであるべきか?

自分自身でも、答えを見いだせず、
2006年も、クッキングカリキュラムは、
会員制のまま模索を続けることになりそうである。

・成すがままに在るがままに

3女を、無事に手にして、日々、満面の笑みを投げかけてくれている。

「子供の笑顔を見てると、明日も仕事がんばる気になる」
というフレーズを耳にすることがあるが
「子供がかわいい」のと「仕事をがんばる」かは、別でないか?

少なくとも、私は「連動して無い」と、思う。

だって、パパは無職でも「うちの子はかわいい」のは変わらず。

また、一部から参加要請継続中の、組織運営上の問題につきましては、
大きな決意を持って言動してみたけども、結果8月をもって離れました。

気がかりも多いが、私とその国の文化が、あまりに違いすぎた。

「カラスは黒い」と思っていた私だが、
その国には「カラスは居ない」らしく、会話にならず、
「カラスの善悪」の問題点を整理するどころか、、
「カラス」についての意見交換すら成り立たない状態だ。

残念ながら、対局から接していく事になりそうだ。

2005年、振り返ってみれば、
直面する問題は、解決してきた。
予想されるトラブルは回避してきた。
得られる利益は確保してきた。

しかし、「やりたいことをやった」
という手応え感に、欠けていたと思う。

結果の72点は、成果評点でなく、自己満足点部分を考慮すると
昨年より低く提示された、当然な評点である。

38歳、未だ「日の出を制する」には至らず・・・・・

総合評価72点

1年のメール:10,793本

送信と受信を含め

メーリング・ニュース・受託管理者連絡は含まず
携帯電話からの発信分は含まず


☆さん姉妹について

2005年4月18日 三女 紗代実(さよみ)が誕生した。

長女 詩音(うたね) 6歳
次女 真凪(まなぎ) 4歳
に続く、第三女だ。

長女の時と違い、
次女の時と違い、

私にしてみたら、詩音の時のような、
初めての経験ばかりの事ではないし、
落ち着いて、三女との出会いに取り組めたと思う。

そして、
詩音も真凪も、ともかく、かわいがるのである。
それと同時に、三女にかかりきりになりそうな
ママ・パパを取り戻そうと、あれこれ作戦を発揮するのであった。

次女真凪も、姉にならってお世話を試みるモノの
扱いの危なさから、せっかくの意欲を、
大人から制されてしまうこともあり、
まだまだ難しいようである。

そういえば、このような行動を、どうとらえるのか思案中である。

親の感情によって善悪判断を変えていいモノか?

真凪は、紗代実をあやす事も、生活の中のお手伝いも、
悪気があってやっているわけでもなく、
自分の体験から、善悪を判断し、行っていることがある。

例えば、
私のデスクに「鼻づまり」の点鼻薬が置いてある。
以前、真凪に「取ってこい」と言って、持ってきた。
そのとき、うまくできたことを褒め、私も喜んだ。

彼女は、それを記憶していた。

ある日、私が鼻をぐずらせると、真凪は点鼻薬を持ってきた。
まったく過去の出来事を意識しないまま、医療薬を手に持ち立つ真凪に

私は「なにをしてるの、お薬はさわちゃいけない!!」と叱りつけた。

真凪は、パパの鼻が苦しそうで、以前の記憶から、薬を取りに行ったのだ。
「ありがとう、苦しかったけど、真凪のおかげで助かった」
と言う言葉を期待したかもしれない。
しかし、怒鳴られ、人間不信の表情を浮かべて、立ちつくした。

大人の方に、明らかに矛盾がある、あるいは説明不足だろう。

あるとき、食事中、携帯ゲームを操作する長女に、
「ご飯の時は、他の事はしないの!」と叱る。
子供たちに言わせるなら
「お電話は?、新聞は?、パソコンは?、大人はいいの?」
大人の大いなる矛盾だ。

確かに、私は食事の途中でも、定期的に、パソコンの前に立ち
新着メールの確認を行う。
それが進行中のプロジェクトで、重要な事もあるが、
自分が好きで頼んだ、ワインのオークション通知だったら

子供たちに「仕事だからしかたがない」とは言えないだろう。

そういえば「仕事だから」と、いいわけがどこまで通用するのだろうか?

パパの夜のお出かけを、家族は「仕事だから」という一言で
本当に容認できるのだろうか?

最近、私は夜のお出かけの見送りに出てくれる子供たちに
「どこへ?」と聞かれて「仕事だから」とは言わなくなった。
 ※私は勤め人でないので、夜の宴席は会社から直行ではなく
  自宅から、時間になって「行ってくるね」と出て行くのである。
  「夜の見送り」という節に違和感を持ったので解説。

正々堂々と
「お友達と楽しいお話をしながらお酒を飲むのよ」と言う。
 ※威張る話でもないか…….

2006年も、事実に基づき、誠実に子供たちと接していきたいと思っている。

三女紗代実は、大きな事件もなく、元気そのもの。

生まれたときは、産院内で大きめグループであったが
現在、活発な活動も効果してか、体重は下限付近を維持している。

定期検診や縁の浅い知人などが初見時に「小さいね」などというが、

「ほっとけ、ウチの子の勝手だ」と、....言わない。

物騒な昨今、街中や店舗内で、「かわいい」と
手を出してくる見知らぬ人々がとても気になる。

そんな手を振り払うと、過剰防衛になるのかしら?

そのかわいい三女さんも、ようやく飲食が始まって、
パパ料理の深みに、転落させられそうな状況である。

最近、特殊な食材の入手ルートを開拓したため、
上のお姉ちゃん2人とは、違った離乳食で行ってみようと思っている。

困った時にはママヘルプが必要な現時点、男親としては何も役立たず、
もうしばらく「パパとして手応え感」も少ないが、まあ、いいでしょう。

次女真凪は、今年度(2005/4)より、幼稚園に園児として通園を始め、
運動会や発表会、マラソン大会などを、楽しんでいる。

個性の強い彼女は、幼稚園の友人たちも個性派揃いのようで
いつもそのメンバーで行動することが多いようだ。
私はこのグループを「先生の話を聞いてない4人」と名付けた。
 ※事実だ。

入園前から、ママに付属して職員室に通園していた真凪が
どんな社会生活になるのかな?と、憂慮していたが、
強烈な個性と、パパのような極道な生き方で、なんとか
こなしているようだ。

お気に召さないモノは、手を出さない・受け取らない個性は
自分の心地よい環境に完璧を望むパパの生き方かしら?

ともかく、姉と同じ事や、姉より秀でる事が、大好きのようで
やたらと比較や自慢を、姉に押しつけていき、
詩音は、最近、その対応が、面倒になってきているようだ。

私が、自分の兄にそんな感情があったかな?と、思い出すのだが。

・・・・・

 
うーん、確かに尊敬していた点や、世代が上の友人を持つことに
うらやましく思ったこともあった気がする。

でも、たぶん、私はパソコンを手に入れて、それを通じて社会観を
得られるようになった時期から、兄と自分の生き方の違いが
「そりゃ当然」と思うようになったかなー。

いま、兄は幼少の頃からの公言通りの職に従事している。

私も、2005年秋口から、兄と語り合った幼少からの希望職に向けて
活動をはじめて、できれば今年2006年には、その是非を検討したい。

次男である私と、次女である真凪と、共通する部分の有無を考えた。
単に2番目という点ではないが、極道的な共通点はあるようだ。

「自分が好き」
「実力主義」
「交換条件に応じない」
「矛盾が許せない」

ああ、この子が、思春期を迎えるころには、どうなることやら....。

長女詩音も、健やかな成長を見せている。

間抜けな所を、まだカワイイと許してもらえる時期ゆえ
なんとか周囲にご迷惑をおかけすることなく過ごしているようだ。

ただ、このまま大きくなると、
「友人たちとの旅行で、全員のチケットを自宅に忘れて
元気な笑顔で駅に集合する」と思われる。

そして、だんだんと、母親に言動が似てくるのが驚きだ。

三女紗代実のあやし方などは、見よう見まね歌マネのようなものだが、
ふとした時に、横にいるのは佐和子だと勘違いし
「あう?」と引くこともアリアリなのだ。

2005年11月に、私の友人の現代美術家「木村秀和氏」が
山香町で美術展覧会を行い、長女と二人で、出かけた。
高速道路を使っても、結構な長時間のドライブになる。

幼稚園の送迎で、長女と二人きりで車に乗ることはあるが、
行楽で出かけるなら、ヌケがけなしの一家全員となるので、
二人きりで出かけるのは、けっこう久しぶりであった。

現地までの行きの道中は、現地主催者とパパとの関係や
何が行われているのかパパ予想、などで騒ぎながらの車中だ。

行った先で、しばらく過ごし、帰りの10号線にそって、
あれこれ寄り道しながら自宅へ戻る道中の車内・・・。

長女も私も少し疲れて、口数もすくなく、

彼女は、時折、音楽CDにあわせて鼻歌したり、
景色を見ながら髪を巻き上げたり、
思い出したように、最近の出来事を話し、
あるいは、疑問に思っていた「パパの謎」を問うてくる。

こちらのいいかげんな返答に、笑い声を上げて反論したり、
答え方に誠意がないやらでおこったり、
かといって、せっかく事の起こりから説明しているのに、
窓の外の様子に話題を変えたり。

((この感じ、どこかで体験したことあるぞ・・・・))

なんだか、カミサンと独身時代、ふたりで出かけた時
そんな車中のデジャブかと思ったほどだ。

まあ、確かに血縁の母娘なので、似ている部分はあろうけども、
そういう部分が似通ってくるとは、DNAの何ページだ?

もうひとり、妻という娘がおりますが、
社会的立場があるので、ネタは非公開

3人+1のお姫様たちは、2006年もニギヤカなんでしょうな。

やれやれ.....。


☆サンネット21とシステム業

BBブランチを再開すると公言しておきながら
それも成せず、なにをしていたかという理由の1つに

建設業関係の業務管理システムの開発に従事していたことが1つある。

取扱高20億円程度の事業所、中小規模のシステムであるが、
管理部門の意向により、パッケージモノの利用はせず
「フルオーダーメイドシステム」という趣旨で、
2003年12月にスタートした。

一般的なシステム開発会社に、この規模のシステムを
フルオーダーメイドで注文すると、
3000〜4000万円程度の見積が出てくるであろう。

私のネットワークセンターが存在する場所に入居する企業の
業務管理システムである。

同社の中に、この開発を目的の1つとした事業部を立ち上げ、
社内から集まった人材でチームを作った。

・プログラムも解らず
・仕様策定も解らず
・社内以外の生活を知らず
・言い伝え文化の中で育ってきた

そんなスタッフ4人を預かって、
「フルオーダーメイドシステム」
に取り組んだのである。

私が、コンピュータを、はじめて手にしたのが、
1982年3月 SHARP MZ-80K2E

1985年3月 専門誌への寄稿をキッカケにプロデビュー
以来、20数年もコンピュータが傍らにある生活をしている。

約24年間、自分がコンピュータ、あるいはシステムを身につけて
きた中から、今回の注力点は「人的資産の確保」が必須と断定し、
4人のそれぞれ後の任務を踏まえて、OJTによる
業務知識の再確認と実習を行うことを決意した。

つまり、スタッフの修練が最優先であった。

経営者との契約の中で「2005年春を目処に完成」としており、
2003年12月からのスタートであるならば、約1年半程度で
すべてを完了しなければならない。

今回、18ヶ月の中で12ヶ月を、教育に当てた。

結果、4名とも、意図した水準に達して、分担した任務を
落とすところ無く、果たしてくれた。

・指示待ち族だった人間がプロジェクト管理を果たした
・思った事を書き出せない人間がシステム仕様を統括した
・四則計算程度のプログラム経験者が18万ステップも書き上げた
・人前が苦手だったのに利用者の中心的存在になった

2005年6月に、旧システムから新システムへ移行を開始し
同年10月をもって、旧システムは完全に停止した。

現状、大きな仕様のヌケや、設計の矛盾によるトラブルは無い。

私の数少ない「成功例」の1つに計上されるシステム案件であった。

さて、同社から預かった4人のスタッフの様子からすると、

自分が24年もかけて身につけてきた知識や技術、
そして「プロとして」のプライドなど、自慢に思っていた事は
ちょっとしたポイントと、参考程度の実習を行うことで
すっかり吸収されてしまうことが実証された。

いまになって、そのことを振り返ると、
BBブランチでやりたかった事の多くが、
この18ヶ月に凝縮されているようだと感じる。

逆を言えば、私自身、出し尽くした感もあって
システム屋としての看板に、多少ほころびを感じつつ
果たして、2006年も、システム屋の看板が
自分に恥ずべき所は無いのか、ちと、再考せねばと
思い始めているところである。

かといって、
「それでカレー屋なのか?」といえば、

それは、それで、別の流れの話なのである。

ヒデと嵐、そしてアヤの恋の行方は?

このタイトルが、ピンと来る方は、どの位いるのだろうか?

知ってる人は、しばらく読み飛ばしで。
※簡易解説のため、かなり省略

フジテレビ「あいのり」という番組の話

交際相手の居ない男女が数名、1台のワゴン車に乗って、
世界各国を旅行する中で、カップルになる男女が出てくる、
あるいは片思いのまま失恋する、そんな様子を、
追いかけるバラエティー番組。

旅行中に、好意の相手へ告白し、受け止めてもらえたら
そろって、帰国する。

帰国によってワゴンに空席ができれば補充される。

5年続いている長寿番組

その中で、足かけ3年
うまく恋愛に至らず、カップルとして成立しないため
帰国できない、21歳通称ヒデ、という男性が居る。

もうひとり、22歳通称嵐(あらし)という男性。

この二人から、同時に告白を受ける、25歳女性通称アヤ。

アヤは、ヒデ・嵐、どちらを選ぶのか?
あるいは、二人とも、Noなのか?

数ヶ月に及ぶ、視聴者の関心の結論が、
先日の放送で明らかになった。

ヒデは、3年もの旅の経験から、必然的にみなのリーダー的存在で、
メンバー全員の、不安や自信の欠如について、いつも気に懸けてきた。
アヤに対しても、他のメンバーに対しても同じような事であったゆえ、
それが、いつしか、ヒデのキャラ設定とまで感じるようになった。

つまりヒデがアヤにとった行動は、
自分に自信の無いアヤに、なにかキッカケを作ってあげようと
人前での任務を意図的にアヤへ薦める。
ヒデは、アヤに自信を持って欲しく、それが愛情表現だった。

一方、嵐は、ヒデのような作戦もなく、時間を見つけては、
旅先を二人で歩いたり、自分の体験や夢を話して聞かせていた。

時間が進むにつれ、アヤは、ヒデに対して、尊敬の念を抱き、
自分が薦められて成したいろいろな任務から、
自信と前向きな姿勢を、どんどん付けていった。

そして嵐とは、ヒデのアプローチの合間で、雑談を交わす程度で。

運命の日

そして、アヤの出した結論は。

・ヒデの自信を付けてくれようという点は感謝するが、
 この先、ずっとそういう関係であるなら、耐えられない。

・嵐は、お互い等身大で接して行けそうだから、嵐が好き。

この結果を受けて、私は、少なからず、ショックを受けた。

別に、あいのりに出たかったという話でなくて、
最近、失恋したという話ではなく。

私自身が、人と接するときに、「ヒデ的」であるな。

と、この放送回を見ながら、自分がフラれてしまったように感じた。
あるいは、いま、接点をもつ老若男女の友人知人から、
「フラれてしまうかもしれないな」、なんて思ったのだ。

私も、キャラ設定でいうと、「上から物言う」タイプである。

社内で部下に接するも、普段の友人たちとの接し方も。

現状、周囲も「エラそうで、強靱で、頭のいい」馬場さんが好きで
接点をもってくれていると思われる。

でも、アヤの立場の人がいたとするなら、
ずーっと、未熟と思われている劣等感を
相手に対して押しつけていく事になる。

そういえば、
doクラフト第1世代・第2世代・第3世代のスタッフ
IT事業部のスタッフ

等身大ではなかったなー。
キツイ思いをさせたから、消滅したんだろうなー。

上司にはいいけど、友人には不向きだ。

こういうのは、接客業には、どうなんだろう?

「叱られたい人が行く飲食店」にすればいいのかな?
ありえんなー。

でも、なんだか、逆に需要ありそうだな......。


☆大型1種運転免許

実は、わたし、資格やライセンスが好きなのである。

と、言うほど、取得に熱心でもないが....。

高校生時代に履歴書を盛り上げるため取得したのが
・第2種電気工事士
・丙種危険物取扱者
・マイコン検定4級(この資格、もう無いのでは?)
・普通1種運転免許
・その他(英検やら電卓やら、うさん臭いのも多数・・・・)

社会に出て
・第2種情報処理技術者
・ノベル社ネットワーク技術者
・高所作業者(Xmasの飾り付けだけのために)

取得の意図を説明しがたいモノ
・古物取扱者
・食品衛生責任者(別途、記述)

という所に、2005年末に、加わったのが

・大型1種運転免許

なのである。

公式には、カミサンが運営する幼稚園で
「スクールバス運行のピンチヒッター」ということになっている。

しかし、実は、もっと雅治さんちっくな
「無意味な理由」が存在するのである。

私が、大型免許を意識したのは、さかのぼること1993年くらいか?

テレビ大分の仕事で、高校生相撲全国大会の生中継で、
出場選手の名前を即時、画面上に表示させるシステムの
開発と運営を受託して、中継現場に参加した時のことである。

全国中継であるので、スタッフ全員の緊張度も高く、
使用機材もなども「いつもより多く回しております」という感じだ。

現場が、宇佐市ということもあって、多くのスタッフは
大きなバスに詰め込まれて、送迎される。

別便に、「中継車」があった。
現場の映像を引き込み、その場で編集加工を施し、
パラボラアンテナを通じて、大分市の本社スタジオに届けるのである。

見た目、キャンピングカーみたいなもので、
中は、TVモニターや、編集装置・送出装置などが詰め込まれている。
積み込んでいる機材が多いため、総重量が8トン近くになるらしい。
つまり、乗用車の範囲を超えた「大型車」の扱いとなるのである。

数日の現場進行の中で、この中継車の存在が大きいのである。

生中継である以上、中継装置のこいつが現場にないことには何も始まらない。

スタッフのバスが到着して、準備を進めようにも、
この中継車が来なくては、なにもできないのである。

「中継車到着待ち」という、非生産的な待ち時間もあったりする。

理由を聞けば、「中継車を運転出来る人が遅れて」というではないか。

つまり、8トンの中継車は、大型免許が無ければ、運転できず
テレビ大分のその人物のスケジュールに運行をゆだねられ、
多くのスタッフは、そのために待たされたりするわけである。

もちろん、現場のボヤキで
「誰か大型、運転できりゃなー、さっさと仕込めるになー」
なんて声も出てくる。

そんなとき、「じゃ、僕が運転しましょうか」
なんて、言えたら、どうなるんだろうかなー、と思っていた。

つまり、今回の大型免許取得の根拠は
「うーん、お困りですか?、じゃ、僕が・・・・」
と言ってみたい、というのが根源ではなかろうか....。

さて、実際の取得は、大変スムーズであった。

引用:亀の井自動車学校 鶴崎校
に、その取得指導をゆだねた。
認定校なので、学校の卒業イコール取得なのである。

12月9日、入校日に赴くが、いきなり遅刻。
旧亀の井自動車学校の場所と勘違いしていた。

30分遅れで到着し、入学手続きを済ませて、
性格テストやら視力検査やら。

どうも深視力(奥行きの視力)のテスト機が苦手。
(3本の棒の動きを見るテスト)

同校の翌営業日から教習開始。

偶然に教官は、鶴崎工業高校(私の母校)の2年先輩
「どうな、自動車学校なんて、ひさしぶりやろ」
なんて、リラックスした指導であった。

あ、実は、自動車学校は、生まれて初めてなのである。

高校後は就職コースだった私の高校では、
就職内定受領後の11月から
自動車学校に通っても良い校則であった。

当時、15万円程度であった費用について、
馬場家家族会議の結果「貸すなら用意する」
みたいな事を父親から言われ、
真意は別としても「だったらイラネーよ」
と反発し、自動車学校行きを断念。

クラスメートが、教習キットを抱えた放課後の
様子をみて、うらやましくもおもえ、
自動車学校で、女子生徒と親密になったりするのでは?
なんてことを悔やんだりもした。

結局、翌年2月末の高校仮卒を待って、
運転免許試験場に「一発ねらい」を自費で敢行。
結果、14回の受験で、普通免許を取得。
29340円で取得した。

なので、自動車学校は、人生初体験なのである。

亀の井自動車学校 鶴崎校

話は、戻って、大型教習。

パソコンや映像機材の大量搬入などで、4トンの大きい車体は
扱ったことがあるが、5トンを超える車体は
やはり知らずして路上に出るのは危険と感じる。

尻の後ろに前輪がある感覚は、初体験だ。

S字カーブで、脱輪しないように回ると、
自分自身は、コースの外、芝生の上を
空中横移動している感じであるし、
クランクも、ポール直前までフロントガラスを近づけて
ハンドルを回さねば、後輪が脱輪してしまう。

エアブレーキも、タッチのセンスを問われるし、
車長の感覚を得るには、相応の時間を費やした。

学校上層者の紹介入校のため、教官も丁寧であった。

特に、「スクールバス運転が取得の目的」と言った私に対して
大変、熱心(厳しく)、指導をして頂いた。

確かに、貨物ならいいかもしれないが、子供を乗せるには、
しばらく空荷や、我が子を客にして、相応の訓練が必要であろう。

なんだか、ずっと取得に拘束された気がしたが、
実質は、2週間であったし、日に2時間だったから、
たいへん、楽々な取得であったとおもう。

自動車学校では、大型仲間の数名と会話をした程度で、
誰か、教習者同士で、メール交換するほど仲良しは出来ず。

今の時期の生徒さんたちは、
靴のかかとを踏んでいるニイチャン・ネエチャンか、
「ちょっと位ぶつかってもいいやねーな」というオバンサンだ。

あいにく、この人たちとは住む世界が違うので、
学校での交友拡大は、なにも起きなかったのである。

大型の取得で、どんなに大きくても乗れるようになると
15トン超えの長大輸送車なんか、乗ってみたくなるのである。

食うに困ったら、長距離にでも乗るかな。


☆食品衛生責任者

8月に、ある程度拘束時間が長かった契約を終了し、
通勤が無くなったので、再び自宅生活となった。

幼少の頃から、食に関する役務に就きたいと考えていて、
2005年秋より、その是非・可否を確かめるべく、
行動を開始することにした。

具体的に、何をどうするということは、まったく決めていない。

が、「飲食店の開業」を目標として掲げ、それに向かって
言動してみるのだ。

4歳くらいに、産みの母の側で、調理に接し、
食べることも、作ることも、大変興味を持っていた。

プロを意識したのは、高校1年の夏休みに、
フレンチレストランでのアルバイト。
ここでの経験が、体の奥底に染みついた。

社会に出てからも、なんらか食に関する作業があれば
自ずから買って出て、家庭の中でも中心的存在になっている。

高校生のアルバイト時に、お世話になった料理長と再会を果たし、
2005年秋口より、再度師事することにした。

ある程度の基本や、その料理長の手法は、アルバイト時に学んでいるため、
師事といえども、あくまでも理論や製造品質などの口頭指導が中心となる。
なので、店舗に通い、洗い物をしたり、仕込み作業を手伝ったりはしていない、

この関係は、2006年も継続して行きたいと願っている。

修行とは別に、開店準備を進めている。

開業に必要な免許の1つが「食品衛生責任者」である。
調理師資格から、実務経験と調理技術を省いたような資格だ。

大分市保健所の指導による講習会に参加し、認定されて交付される。

自動車と同じで数年毎の再講習は必要だが、
生涯資格であり、全国共通資格である。

もう1つ必要な免許は、「営業許可書」である。
これは、人ではなく、店舗(施設)に発行されるという趣旨であり、
店が無くては、申請すら出来ないので、
今のところ、開業のアテのない私には無関係なのである。

師匠の提示する調理実習のカリキュラムを進めるにつれ、
同じレシピで同じ品を実現する難しさを、感じている。

レシピは、厳格な分量をもって、記述があったとしても、
室温や素材の保存状態、収穫時期や畑、流通経路によっても違ってくる。

ワインには、「テロワール」という言葉があるが、
肉でも野菜でも、果実でも香辛料でも、そういう事はあると思う。

フレンチ出身の師匠であるので、ブイヨンは必須カリキュラム。

・フォン ブラン ドゥ ヴォライユ(鶏のガラ出し汁)
 鶏ガラは、スーパーでも市販されているから問題はない。(高いけど)

牛骨や豚骨となると、特殊ルートを開拓せねばならなかった。

懇意の食肉屋に依頼をして、手配を進めた。
一方、大切な人脈を通じて、大分県産食肉業者にコネクションを確保した。

・フォン ドゥ ブフ(牛の出し汁)
 牛の上腕骨、1つで2〜3キロある。
 ハンマーやノコで適宜分割し、20時間ほど、煮出す。
 約8リットルのスープが取れる。

※玄関先で、大きな骨を分割している様は
 警察に異常者通報されてもおかしくない光景だ。
 「最近、あそこの奥さん、見ないけど・・・・」なんて。

さて、牛の骨といえども、味が違うのである。

ステーキで、黒毛だ和牛だ、輸入牛だと、いって、味比べもあるが、
骨も、味や香りがまったく違うのである。

美味しい肉の牛は、骨のスープも、美味しく香り高いのである。

調理は、食材にまで気を配る理由が実感できた。

であるなら、牛丼チェーン吉野屋が、輸入牛の停止で
「同じ味が出ないので販売しない」という発言に、
いまになって、同社安部社長の決断が理解できる。


☆その他

遊具

カミサンの幼稚園の遊具を刷新するにあたり、

私の交友範囲の現代美術家 牛嶋 均氏に協力を頂いた。

結果、
・木製ハウスが2棟
・滑り台付き階段
・謎の半球ドーム砂場

が出来上がった。

例によって、美術家のベクトルと、クライアントのベクトルを
調整しながら、工事関係者・協力者とのバランスを見て、
2005年春の予定が、秋口になってしまった。

しかし、結果、園児の反応からすると、大成功であろう。

この作業の中で、大人の考える安全と子供を守る安全は
違っていた事に気が付かされることも多かった。

また、現代っ子の弱体化が叫ばれる中、
わが幼稚園の子供たちは、今だタクマシイ事も知った。

故人

2005年も、数名の知人が、この世を去った。

・契約先の役員が、療養の末、永眠した。

・マリーンパレス(現うみたまご)の川原館長が逝った
 前館長、故高松氏も、そして川原氏も、50代だった。
 年齢は死因に無関係ではあるだろうが、気になった。
 高松川原の両名には大変お世話になった。

・後藤智江モダンダンスのクラスメート 柳井氏
 私が20歳で入門した際のクラスメートだ。
 現ホテル芙蓉倶楽部(別府市)の総支配人が
 現役のジャスダンサーで恩師であった時からだ。
 訃報をきいた1〜2ヶ月前に、一緒に仕事をしたのに。
 

ワインセラー

 シャンパンを好んで飲んでいたのだが、昨年末より
 非発砲系にも少し手を戻し始めた。
 5大シャトー・ロマネ社などなど
 セラーも導入して、なんだか出費拡大中。

 三女の誕生に、カミサンへ感謝のワインをプレゼントした。
 彼女の好きな、マルク・シャガールが、ラベルを描いた逸品だ。
 シャトームートン・ロートシルト1970

自動車ショールーム

 福岡天神IMSの自動車ショールームに仕事で行った。
 展示車両の入れ替えなどもあって、閉店後の作業だった。
 あのビルの4Fにどうやって車両をいれるのか、
 大型エレベーターで、廊下を自走するのか?と思ったが、
 なんと、壁の一枚がはずれると、ビルの外だった。
 その穴からクレーンで搬入していたのだった。
 自動車業界の金銭感覚には、いつも驚かされる。

下郡

 doクラフト・アンクルアンティーク・エンジョイターミナルの
 本拠地として、あるいは隠れ家的基地として、機能していた
 下郡倉庫を、大家の要請により、完全撤収した。
 大変、いごこちのよい、クリエイティブな場所だったけども、
 残念ながら、そこに集っていた人の縁もいっしょに、飛散。

無一文

 10代から毎月のように通っていた居酒屋が閉店した。
 いろんな事があった場所であったが、詳細は、うーん覚えていない。
 カミサンとの思い出の場でもあるので、子供たちの記憶に
 残るか別としても、連れて行きたくて、一家で赴いた。
 閉店の噂が大分県中に流れた後だったので、予約も困難だったが
 開店直後の予約時間前のほんの30分程度にはさまった。
 定番を一気に楽しんで、マスターご夫妻にご挨拶。
 私の飲食店のイメージも、無一文が無関係ではないだろう。


☆2006年のキーワード

今年のキーワードは2つ
 ・新生活
 ・飲食業
 ・60点

・新生活

 長女が、小学校入学となる。
 これまで通園していた幼稚園は、自営の場であり、
 私も長女も、長年、組織全体が顔見知りである中での、
 社会生活であった。
 しかし、公立小学校に通うとなると、
 まったく「客」の身分となってしまう。
 運動会の対応なり、参観日以外の様子見などは、
 出来なくなってしまう。
  ※小学校の納入業者になるという手もあるか?

 長女も、困り事があれば、職員室に行くと母親がいた。
 それも、なくなり、自分自身で解決しなくてはいけない。

 しばらくは、いろんなところでストレスも見え隠れするだろう。

 また、夏あたりに、ネットワークセンターの移設を検討している。

 現状の場所では、緊急時に駆けつける時間だけタイムラグがある。
 やはり、職住同居でありたいと考え、計画中だ。

 それなら、広い厨房が欲しいとか、
 貨物の出し入れに、駐車場は雨に濡れないよう、屋根が欲しいとか、
 あれこれネタが多くなりすぎて、情報整理中である。

 実現すれば、センターの移転など、ビックイベントになりそうな2006年である。


☆飲食業

 上記、新生活の様子によって左右はするが、
 職としての飲食業というものを、考えていきたい。

 方向性としては、
 ・洋食店
 ・居酒屋
 ・弁当屋
 ・給食屋
 というところか。

 開業にまで至るのか、
 システム構築だけに終わるのか、
 試行錯誤だけの1年となるか。

 人生を大きく変える大任を引き受け、2005年10月21日から、
 違う自分の道を歩む覚悟でいて、それ以後のスケジュールを
 まったく空欄にしていたのが、ぽっかり空いてしまった。

 きっと目に見えぬ何かが、互いのためにそうさせたのであろう。

 思えば、システム関連の仕事を続けてきた中で、
 「誰かのお役に立った」手応えはしっかりあるが、
 「誰かを幸せにした」という感は全く無いなー、と気が付いた。

 しかし、私の手から生み出される飲食は、
 極まれに「幸福感」を与えている時ある。

 残りの人生、「誰かが幸せになる役務」で行きたいなー。

 開業は未定であるが「やるか、やらぬか」いずれかの単純な話である。


☆60点

 2006年は、なんでも60点で行こうとおもう。

 自分でなんでもやらねば気が済まないところがあったのだが、
 一人で成せることは、たいしたことではないと、思うのだ。

 100%を目指して、高めていくのを止めると言うことではないが、
 60%同士の誰かと力を合わせて、120%の結果を求めていきたい。

 また、出しゃばりを押さえて、押さえて。

三女「紗代実」の誕生

キッカケを運ぶコウノトリ

とうとう、サン姉妹になりました。

この子の誕生は、なにかのキッカケなのかな、と今になって感じています。

第3子の話も、遠からず近からず耳にしていました。

時折、ママから「もう一人」と発言もあったが、
2003年結婚記念日にNGといいました。
(それがショックだと反論ももらった)

まとめなければいけない事がいくつかあって、そちらはカウントダウン。
とある組織から、子育てを自粛してほしいと言われていたのも事実

そんな中、また1から小さな命を守っていく余裕があるのだろうか?
そういう思いがあって、いま新しい命を保証はできない。
一日も早く、おねえちゃん2人が学童になることを望んでいました。

しかし時間は、誰にも平等で、
長女詩音・次女真凪も、そろそろ自分で歩いていけるようになり
パパ・ママとも、自分の意志で動けそうな時期にあったと思います。

夫婦それぞれ自分の関わる世界で、なにかを成すべく、動き出そうと
していた時期だとに思います。

二人とも、能力は別にして、ファンが多く、仕切り屋としての才覚に冨み
余裕を見せれば、詰め寄られ負うモノが増えていきます。

つまりは
雅治は、夜の飲食店を出店しようとしていた。
佐和子は業界の公職に就きそうだった。

しかし、なにかのお告げなのかな?
「もうすこし夫婦でやることがあるのでは?」
「まだ子供たちとの時間を削減する時期ではないのだ」
「いまやろうとしていることは重要な事なのか?」
「おまえたち二人にしかできないことがあるのでは?」

そう言われたのかもしれません。(誰から?)

生活の余裕の中に、将来を見つめる時間を持って行く中で
「なぜパートナーシップを結んだのか」という部分の結論が
詩音・真凪であるなら、否定はないのかな?とおもいました。

愛は形になって残るモノなのだな、なんて思います。(わはは)

結果として
フラフラとおもしろそうな事に行きそうな雅治さんの
パパ役延長戦突入です。(取締役パパ部長ですな)

家族追加

最初の一報は、詩音・真凪と、出かけていたときでした。
仕事の関係で、訪問するようになった日出町のナシ農園に
ナシ狩りに行ってた帰り、田浦の海岸でトイレ休憩中に
ママから携帯電話にメールが。
—————————–
2004年8月26日 16:29:58
来春、5人家族になることが判明!
—————————–
おー!と、トイレから戻った二人に
「おうちに帰ったらママからすてきな話があるよ」
お菓子か?何か?と、思う姫たちでした。
※同時期、サザエ海の塩事件が起こるのです。

なぜか、ナシ農園の奥さんから「三人目はどう?」と
聞かれた帰りゆえ、驚きも大きく。

パパは「ナシ狩りに全員で行きたかったのになー」なんて
思っていたのだけど、なぜか不参加のママは、
こっそり産婦人科に確認作業へ行ったのです。

冒頭の様に、夫婦それぞれの世間的役割を拡大する気持ちでいた中で
突然の重大ニュース、「??・・??・・??」は正直なところ。

2003年春、「3人目は無い」と宣言したけども、うれしかったのです。
だって、確信犯だった。

今回は、たいへんなツワリでした。

なんとか口にできる「ミニッツメイド・ピンクグレープフルーツ」
これを求めて、大分市近隣市町村のマルショクをすべて回ったかな。
塩昆布・お茶漬け・エアロチョコ・白おかゆ・グリコいちごオレなどなど

ママの様子が尋常じゃないモノで、上のふたリと比べ、
手厚い?サポート体制だったと思います。(自分では・・・?!)

ささいな事だけど、マンションのエレベーターの改修で、
施工業者に「妊婦が6Fから移動するので、動かしてくれ」と交渉したり
(現場責任者:市ノ瀬さん、実はやまばと園児の親らしい)

三信工業の会議と重なり、詩音ちゃんは、早帰り後、3時間近く、
IT部長の席で、待っていたこともありました。

ママのつわりの行方も把握できないままなのに
ますます自己を拡大させていく2人の姫と体調不良ママとの格闘に
「いかがしたものか?」と思いながらの、マタニティーライフ?でした。

出産当日

4月27日の予定日でしたが、17日からなにやら準備を始めるママ。

恒例により、出産前日も夜のお出かけをしておりました。
(まあ、意図したコトではないのですけど)

バンドのライブから帰ってみると「明日かも」との宣言

「よしよし」と漢方薬「肝生:アルコール分解薬」を一気のみの私

翌18日午前2時に、一足先に産婦人科へママは出発

パパ・ウタ・マナは、午前3時に病室(産科も病室なのかな?)へ

ひとまず、このまま出産ではないので、一家、病室で就寝
(真凪ちゃんは、これが気に入って、病院に住むと言ってます)

18日6:45 ウタ・マナは、病室から幼稚園に出発

園バスに乗せて、病室に戻り「午前中かな」なんて甘い気持ちで待機

時計をみると、まだ8時前

朝食がきて、卵を食べる様子をみながら、コーヒーをもらった

ところが待てど待てど、その時は訪れず・・・・・・・

10時の通常検診を受け、昼食がきて(こっそりポークソテーをいただく)

ところが待てど待てど、その時は訪れず・・・・・・・

午後の通常検診を受け、姫たちを迎えに、病院へ帰り、一家4人そろった

ところが待てど待てど、その時は訪れず・・・・・・・

なかなか姿を見せず

ウタ・マナと違って、今回は、なにかが違う。

夕食前の通常検診で、ようやく分娩台へ移動の指示

17:00位だったか、でもすぐには状況が変わらず。

途中、4Fの病室?に残っている、ウタ・マナが気になり
パパは行ったり来たり。
(DVDを取り替えろと、教えたとおりナースステーションに
内線をかけてきた詩音ちゃん、えらいんだか??)

それから2時間ちかく、陣痛と腹部の張りにあわせて、試みるが
どうしても産道の一部を越せず、あと2センチくらいの動きを
期待されて、時間だけが過ぎていく。

今回は、なにかが違う

モニターから聞こえる胎内の心拍音は元気なモノの
少し時間がかかりすぎると、医師の指示が強い口調に変わっていく

「もう....きつい」
ママから本音がでてきた。

二人の関係からして、根拠のない「がんばれ」なんて
その場繕いの虚実の励ましはできなかった。

「もうすこし、耳がひっかかっているのか、でてこない」
「見えているから、出てくる」
「あと、2回くらいかな?」

なにが、そうさせたのかわからないが、ある瞬間から空気が変わった。

母体の全エネルギーがピークに向かって、1つになっていった。
(呼吸も瞬きも、声も耳も、すべてOFF、赤ちゃんの産道通過に向かった)

毛穴から血がにじみ出るくらいのママの集中力を4人がかりで支えて、
(初めてみた、全力の佐和子だった)

「髪の毛がみえてきた」・・・・・・・
「おでこまででたよ」・・・・・
「鼻がみえた」・・・
「肩まででてきた」

「でたー、でたー、でたー」

20:03 3174g 女の子が出てきました

謎のお姫様

ツワリのときから、「今回はなにかが違う」と聞かされて

「なにが出てくるんだろう」と期待と不安のなかで
目の前にしたのは、真実の愛しい我が子でした。

思わず、「はじめまして」とご挨拶

胎内にいる間は、ずっと、ウワサ話だけで目にみることもできず、
もちろん触れることもできず

紗の向こうに隠されてきた秘密のお姫様

時間や歴史や受け継ぐモノを、受け止め愛しながら、
出会い出会えた最後は、自身の実の姿でした。

真実の本人に出会える感動が売りの、謎のお姫様

史上最大のNo3 山崎 紗代実 の登場です。

して、また、私の今後の発言が、こう変わります。

「えー、うちには4人の娘がいるもんで.......」

2005年に向けて

☆2004年 76点

この公言に対しては、十分に取り組めたと感じている。

===<2004に向けて、より引用>===
美しい名刺交換 とか
犯人を推理したくなる見積価格 とか
感動の嵐を呼ぶ電話の取り方 とか
自分の人生を重ねてしまうメールタイトル とか
===<2004に向けて、より引用>===

上記のような事象は無かったようだが、私の仕事の取り組み方や、
手法について、あるいは、技術や知識などの紹介を行う中で、
より効果的に、お見せできたと思う。

また、努めてエンタテインメント性を引用して話をした。
例えば、「まるでドラマのストーリーのようにシステムが」
というように、いまから目にする事は、娯楽であるとした。

逆に、エンタテインメント分野から日常の仕事に引用した。
映画作品の中で使われているツールの成り立ちや
テレビ番組の中で、取り入れるべきノウハウの紹介など。
また、映画に例えると、互いに共通の記憶や体験をもとに
話を進めることができるため、私はよく使う手法である。

2004年は、十分に、エンタテインメントの活用を行ったし、
自分自身、感動的な仕事ぶり、をお見せできたと感じている。

さて、なのに、なぜ76点なのか。
毎年行っている、この評点は、公言に対しての成果点ではなく、
自分自身の生活・意識・環境との距離・社会性など、
あらゆる点を考慮して、自分が自分に与える成績点である。

前年(2003)の評点は、89点だったから、大きく減点となった。

理由は、自分の中で大きく成りつつある「慢心」に関連してくる。

これまで、「私はこうあるべきだと思う」という主義主張をベースに
人生を営んできた。
例え、相手が個人であろうが、組織であろうが、社会であろうが、
持論をもってして、接してきた。

かつて、(株)doクラフトを経営危機に追い込み、
組織として機能しなくなった原因が、この慢心にあったと
自己分析として持っていながら、再び慢心とも思える言動が、
2004年は、いくつかあったと記憶している。

であるなら、反省の意味でもっと点が低くなって良いのでは?との指摘もあるが、
「ソレはそれ・コレはこれ」なのである。

私の中に、「慢心」と同じベクトルで紙一枚に隔てたところに、
「自信」が存在するのである。

人に言わせれば、「その自信ありげな態度は高く評価する」との事。

2004年、慢心はあったものの、それ以上に自信もあったし、
その自信の根拠を成立させるための努力は惜しまなかった。

結果の76点は、反省しているようで反省してない
そんな微妙な評点である。

でも、それが私の良いところなのである。

37歳、未だ「日の出を制する」には至らず・・・・・

総合評価76点

1年のメール:8773本

送信と受信を含め

メーリング・ニュース・受託管理者連絡は含まず


☆慣れと危険

私が、後藤智江(現代舞踊家)に師事しているのは、ネタでも無く事実である。

とはいえ、舞踊の教えを受けていたのは、15年以上も前に整理がついて、
今は、師が関与する舞台・公演のお手伝いをさせて頂く関係である。

師の舞台・公演を陰で支え、衣装・大道具・装置制作を統括する
「永田組」に私は所属して、15年以上になる。

15年と長いようであるが、年に2〜3日であり、シロウトぺいぺいなのである。
しかし、自分の中では、舞台の設備や言葉、段取りなど理解し、少しは舞台公演を
知った古参要員の様な気になっていた。
今年(2004)そんな慢心があったと反省する事件が起こった。

2004年4月17日 大分市「グランシアタ」で開催された
湯布院源流太鼓の公演を、永田組でお手伝いすることになった。

湯布院源流太鼓は、大分県のみならず、国内及び海外でも活躍する
和太鼓集団であるが、昨年2003年11月に、後藤智江と
「アラスカ(野生の女)」で共演したきっかけで交流があり、
自分たちも、グランシアタで公演実現を希望し、
永田組も全面支援で、準備が進められた。

同日、直径2mにもなる大太鼓などが舞台に配置され、
我々も周辺整備や、演出用の幕など準備を進めていった。

本番開始、幕が開き、順調にプログラムを進めていくが、
永田組の出番の1つに、炎の揺らぎを背景照明に
実現する装置があった。

装置の出番がくれば、転換の間に、舞台後部に速やかに位置して
揺らぎを手動で出していくのである。(通称メラ)

事件は、この揺らぎ装置に関連する。

出番のいくつか前の演奏中に、装置の状況が気になり、
舞台では真剣な演奏が行われているにもかかわらず、
幕や照明機器の間から、装置のところまで行ったのである。
もちろん装置に問題はなく、心配は解消され、舞台の袖(外横)に
戻ろうとしたときだ。

舞台では演奏が終わり、次の演出にむけて、幕や照明が移動していた。
グランシアタの装置は、最新式であり、すべてが電動になっている。
大分文化会館の幕移動は手動で、滑車の音がカラカラ聞こえ、気が付くが、
電動では、音もなく、かなりの速度で、幕が移動する。

そのとき、私はホリゾントと呼ばれる、最後部の白い全面幕の真下にいた。
幕をしっかりと張るため、下部には数百キロの鉄柱が入っている。

何気なく、見上げたら、そのホリゾントが真上から、自分めがけて降りてくる。
当然、舞台の転換中なので、真っ暗で、なにも見えず、音もしない。

知識としてホリゾントの位置に居る事から、危険を感じ、安全な場所に
身をかわすことで、事なきを得た。

もし、あのときに、ホリゾントの下敷きになっていたら、
自分の身は無事ではなかったろうし、何千人・何万人という人たちが
楽しみにしていた、この本番を人身事故発生で台無しにしていたところだ。
それどころか、永田組、ついには後藤智江の舞踊家生命まで
脅かすところだった。

そのときは、「あぶなかったぜー」という程度だったが、
日がたつにつれ、今となっては、大変な事故になる行動だったと
強烈に反省している。

「慣れから危険」につながると言うのは、伝説や諺でなく、現実だと実感した。

自分自身、心がけていくと同時に、後進にも厳しく指導していきたい。


☆生と死と天と地と

2004年も、いくつかの生に出会い、いくつかと死で分かれた。

自分が、そういう世代なのか、周囲に出産が続いている。

受精後、細胞核が分割し、細胞分裂が進んで、身体を形作り、生まれ出てくる。
その最初の分割で2つになった細胞が、身体の右半分と左半分らしい。

私の長女は、鼻の先端にちょっとした目立たないスジがある。
これも、その細胞分裂のなごりなのか?
ゆえ、わたしは新生児をみると、鼻先を見てしまう。

この細胞分裂自体が、人間の寿命に大きく影響していると論じられている。(らしい)
細胞核を成す遺伝子という糸の後部に、テロメラーゼと呼ばれる部分があり、
細胞分裂の度に、短くなるそうな。

遺伝子の長さが分割できないほど短く限界に来た段階で、細胞の寿命に達し、
細胞分裂が進まず代謝が止まり、つまりは、その人も寿命に達する。

今年遭遇したいくつか死は、事故、あるいは病によるものである。
テロメラーゼが持つ寿命を、消費せずに迎えた死だと思われる。

テロメラーゼの理論からすると、120歳以上は生きられないらしい。

勉強に励み、親の言うことをよく聞いて、好き嫌いせず、よくかんで食べ、
小食を心がけ、暴飲せず、マイクが来たなら微笑んでオハコを1つ歌い、
早寝早起きして、歯磨きも欠かさず、挨拶をハキハキしても、
120歳までしか、生きられないのである。

コンピュータシステム屋としては、上限値が決まるほど、
設計にありがたいことはない。

顧客データベースを作るにしても、300人なのか3万人なのか、
300億人なのか、決めてもらわねば、作りが変わってくるのである。

とはいえ、120年に決めたよ、と
自分の生存期限を区切られたら、なんだかなー。

120年で、何を成すか?
すでに、37年、使ってしもうた。

9月に大きな台風が大分市を直撃した。

2001年に植樹した、三信工業のXマスツリー、台風で大きな傷を負った。

三信工業グループの象徴として存続させるべく、適宜手を施し、
今年は、大がかりなミノムシ駆除をおこなった。

努力したとは私の言い分であり、自然界で人間の力は、まったく無力、
天が召した風の力は強大で、防ぐ手段も与えなかった。
しかし、地に張り付いた木の力も、風にあがらうに等しく、
傾きはしたものの、その命を絶つまでには至らなかった。

大切な枝を数本無くしはしたものの、11月26日のXマスツリー点灯式には
400人ちかくの観衆の目前で、照明をまとって、光り輝いた。

風と木は、地球立史後、絶え間なく駆け引きを続け、今もなお、
そしてこれからの未来、何億年も続いていくだろう。

それに比べれば、三信工業50年の中で、あるいは今後も経験していく
浮き沈みなど、たいした事でないことと思われる。

天物の力と地物の力と、自分の無力、を感じた出来事だった。

そんな無力な自分も、疾病問題がある。

膵臓が、弱いらしい。
内科医の話によると、膵臓炎だか膵臓萎縮だか、
インシュリンの分泌が正常とは言えないとのこと。
出ないのが糖尿で、出過ぎるのがインスリノーマ
出過ぎ傾向らしいが、正常時間で血糖値は正常に。
(グラフで見ると、出足が急なだけ)

ブドウ糖摂取後の30分毎、6回採血(イテーカッタヨ)と
内臓エコーの検査をうけた。

結果、異常は見つからず........。
ナンダヨ、ソレ。

もう1点
頸椎のヘルニア
首の神経が圧迫されている、ことによる右上半身のしびれなど。
けっこう顕著で、悪化の場合は生活に支障もあるかも。

その際は、口でなんとかする業種に転向だ。

自分自身、テロメラーゼが引いてくれた120年のレールを
走破しきれない可能性も出てきて、残余期間の使途に困惑中。

生と死と天と地
これらは、すべてが真実で、ウソがない。

自然界に挑戦する私にとって、まず直面する大いなる壁である。


☆飲食と調理

飲食に関して、特別な思いがある。

「味覚が故郷」
と、雅治語録なのだが、
盆と正月、なぜ多くの人は、困難を承知で、帰郷するのか?
と、その疑問に、「味覚が故郷」と仮説を立てた。

つまり、生まれ育った味を求めて、帰郷する。

実家周辺の景色が恋しいとか、家系や友人に面会、という楽しみもあるだろうが、
ばあさん・母親の料理や、幼少からいきつけのお好み焼き屋
その土地でしか取れない食材などなど。

飲食にしぼってみても、帰郷に値する条件は整うのである。

逆に、帰郷に興味がない私の知人友人の共通点は「帰郷の意義の欠如」なのである。
私も含め、その多くは、生まれ育った味覚との断絶にポイントがあるようだ。

昨今、吉野屋の牛丼が、絶滅しかけている。
この牛丼が故郷だった人たちの多くが、パニックになった。
さすがに時間がたち、故郷との別れを受け入れた人もいるようだが....。

腹が減っているのに牛丼が食べられないという「リアルな被害感」より、
今後、吉野屋の牛丼が食べられないという「未来に対する絶望感」の方が、痛い。

生と死が絶対である、と同時に、味覚も絶対である。

なぜ私が自ら調理に手を出すのか、という答えの1つが、
「味覚の故郷の再現」を求めてのことだと感じている。

しかし似たものは出来るが、完全な再現には、いまのところ至ってない。

さて、うちの娘さんたちは、生来、独自の家庭料理で育ってきた。
たぶんに、世界中どこにも同じ味を出せる料理人はいない。

今後、成長し、うちを離れたり、否定したり、とあるかもしれないが、
「おまえらにとって帰る場所は、ここしかないのだー!!」と、
「味覚が故郷」の仮説立証の為、数十年がかりの壮大な実験中である。

私が自分で調理に関与したのは、4歳くらいだったか、
母親とカレーを作ったときに、リンゴをすりおろすのを
手伝ったことだと、記憶している。

次の次元で調理にめざめるのは、高校1年の夏休み、
大分市新栄町のシャンテドール2Fフレンチレストランでのアルバイト。
1ヶ月間ちょいだったが、その中で、いろいろな体験をした。

鍋のアクをていねいに取り続けることも、
煮込みや炒めで1〜2時間付きっきりは当然の事
なんて話も、ここで学んだ。

特に、鶏ガラからブイヨンを作る工程は、いまでも役に立っており、
うちの娘さんたちが好きなスープは、鶏ガラを購入し、ブイヨン作りから始まる。
ゆえ、「今日、何食べたい?」と希望を聞いても、内容によっては
「じゃ、明日準備して、明後日ねー」というモノも多い。
(もちろん固形スープを使うことも多い、そのほうが味がフラットなので)

その調理の師となるチーフ(シェフ)が、
引用:カレーハウスNo2藤田
氏である。

私にとっては、シャンテドール(藤田氏)も、味覚の故郷であった。

16歳の時、アルバイト1ヶ月からずいぶんとたって、2年ほど前、
どうしても藤田氏の味に触れたくて、藤田氏を捜した。

20年ぶりの再会でも、藤田氏のソースは同じ味だった。

再会後、時折、店を訪れては、調理やレシピについて、教えを受ける。
とはいえ、頂く指導は、かつてアルバイト時とおなじく、
「炒めが2時間・粗熱1時間・煮込み4時間・・・・」とヘビーだ。

そして、そのヘビーで手の込んだ料理が日常となる、うちの娘さんたちは
ますます「パパのワナ」にはまっていくのである。

ここ数年、シャンパンを飲んできた。
とはいえ、モエ・シャンドン(LVMH社)の限られた製品だが。

2004年後半、赤ワインに回帰してみようと、銘柄を模索中。
・シャトームートンローシルト2001
・シャトーマルゴー2001
・シャンボルミュジニー(ミッシェルグロ)1998
・エシュゾー(DRC)2001
あたりをそろえてみたが、さてどうやって飲むか?

酒だけ飲んでウマイものは、そう多くないと感じており、
適切な酒肴・適切な場・適切な人、など好条件がそろって
「ウマイ」と思うのだと、信じている。

もしかして、自分自身が未だこのワインたちを飲むに
相応しくない状態だったりして......。


☆仕事をするにあたり

私の関与する5団体の1つに、IT事業部というのがある。

現在、私を含め、5人のチームだ。

社内体制の変革期にあり、そのモデルケースとなるように、
活動をしているのだが、私の要求するスピード感・スケール感と
スタッフの現実にズレがあることが1年経ってみて、ようやく判った。

仕事は、任せておき、問題があれば、報告を受け、
対処すれば良いはずだ、と思っていた。
子供じゃないんだし、業務の手順などは自分で考え
多少の問題点も、自分で解決するはずだ。

自分の現状を基準にチーム運営を行ってきた。

この無責任な運営も「自分なら出来る」という慢心だろう。

スマトラ沖地震で、津波についての経験がなかった住民が
引き潮の海岸に歩み出て、被害が拡大したらしい。

連日のニュースの中に、「地震後の引き潮は津波の前兆である」と
知ってさえいれば、被害が少なかった、と事後論が繰り返される。

私の無責任なチーム運営の理論からすると、
「地震がくる前に、なぜ相談しなかったのだ?」
「地震がきたら津波がくるなんて、考えたらわかるだろうが!」
と、いう結論にいたる。

なんか、おかしくないか?

チームのボスとして位置するなら、
過去の経験や他所の事例からトラブルの防止策を施し、
あり得ない事例だとしても、理論上、起こりうる事には、
日頃から自分たちに置き換えて考え、
技術や知識、また精神の強化などにも、注力すべきであった。

大分のクライアントの指示で、調査先がある沖縄に、初めて行った。
旅行ではなかったので、空港・訪問先・ホテル・訪問先・空港
という、本当に仕事だけだった。(まあ、泡盛は飲んだけど)

任務は、金融業システムに関する調査分析だった。

訪問先は、独特の組織運営を行っているようで、今回、私は、
自分がいくつか持つシステム分析手法のチョイスに苦労した。

例えば
製造業であれば、材料と工程とロス管理で、話が通じる。
販売業であれば、仕入れと在庫滞留時間とアイテム数で、話ができる。
研究施設であれば、自慢話・苦労話を聞く中から始まる。

今回は、事前情報で得た中から、想像は出来たものの、
大分のクライアントの要望からすると、業務全貌を
見て帰る必要があるので、手法は、シンプルな物を選んだ。

結果、私が選んだ調査手法は
「しくみを作った人に直接、私に浮かんだ疑問を聞く」

調査先には、社長(仕組み作りの本人)を含む幹部数人も同席頂いて、
私から業務に関する質疑応答の時間をとってもらった。

浮かんだ疑問を聞くわけだから、第1声は
「この会社、なにをやっている会社ですか?」と始まる。

大分から同行した2名は、この手法に馬場的アプローチの極意を見たと言うが、
ただ単に「私が知らないことを最初から聞いてみる」というシンプルな手法である。
(まあ、言葉1つ間違えたら、沖縄でサメのエサだったろうが)

「この会社、なにをやっている会社ですか?」と切り出す私に
「なんじゃ、なめとんのか?おまえ何しにきたんか!」とは行かず、
私は刺されもせず、静かに私の問いに対して、率直に答え続けてくれた社長であった。
業務の中にいくつか矛盾が発見され、そこを突いた無礼な質問もあったが
「指摘の通り今後の課題だ」と答えた度量には、感激した。

聞く作業とは逆であるが「馬場的プレゼンテーション」で話すという
場合も同じく「知っていることを話す」というシンプルな手法である。
話したいことを「知っている」次元まで高めればよい。

聞くも話すも、簡単ようだけど、そうではない。
自分が出来るからといって、誰もができるわけではない。

もしくは、同じ手法で結果を出すわけでもない。

そんな慢心ばかりの、2004年の仕事ぶりだったと、感じる。

なにしろ、自分が一番次男なので。(チト、フルイカ....)


☆ファミリー

大きな事故もなく、入院などもなく、まずまず順調。

2004年は、次女真凪(まなぎ)が、3歳を迎えた年である。

うちの伝統、3歳直前のパパと二人っきり東京タワーを実施した。

長女詩音(うたね)の時から、はじまったこのイベントだ。

今回、真凪については、開催も危ぶまれたが、なんとか実施した。

これは、いつまで続くのだろうか。

12月23日、ママと娘さんたち2人で、Xマスプレゼント買いにでかけた。
目的は「ふたりはプリキュア・カードコミューン」らしい。
バンダイ社が販売している、たまごっちとバーコードバトラーを
一体にした育てゲーの1つで、メーカー希望小売価格3500円

長女詩音の希望らしく、11月のトイザラス広告に記載されているのを
しきりに見せてくれていた。

おばあちゃんが払うってことで、ママが代理購入のため、
大分トイザラスに行ったが売り切れ、トキハ本店・アクロス明野もなし。
ざっとネット検索するが、なし。

そこで私にヘルプコールが鳴る。
鼻毛(女に甘い男:トリビアの泉より)の私は、さっそく市場調査。

2004年2月に発売で、同9月が最終出荷。
爆発的人気で、店頭販売分は消滅したもよう。

発売元のバンダイから情報を得ると、直販の受付も受注終了の案内。

結局、「無い」と言うことを、長女詩音に説明するが、
どうしても、あきらめきれない様子で、ふさぎ込んでしまう。

うーん、(金銭的に)ムリをすれば、あるのは知っていた。
インターネットの時代、ネットオークションという物が身近になった。
欲しいひとが値段をつけて、競り合って落札する、まさに競りなのである。
当然、人気商品はネットオークションの華である。

23日17:00時点で、3500円が19200円の高値。(フザケルナー!)

その後、推移を見守ると、落札は23日の深夜26400円
モトは3500円でっせ。
きっと、同じ思いの世のお父さんの中で、娘の信頼を守った人がいたのね。

私も、手を引こうと思ったが、もうちょい模索して、落札時間が先の出品の中で
カードコミューン本体と別売のソフトケースの抱き合わせ販売を発見。
合わせて5000円のところを、8500円で提示中だった。
入札期限が、まだ2日後であったが、出品者と直接交渉し、
オークション手数料・送料・梱包など諸雑費込み+即納、なら即決だと条件を出す。

無事、成立し、25日には、長女詩音の手元に届いたのである。

大喜びで、遊んでいるわけだが、後日談もあって。

たまごっちをご存じの方は、わかるように、育てゲーゆえ、
ずーっとかまってなければ、ダメになってしまう。

さらに、事ある毎にピーとかキョロキョロ、とか音がする、
お世話のボタンを押すたびに、ピ・ピ・ピ、とうるさいのである。

結果、「うるさいから切りなさい」と、怒られ、ケースにしまう。
そうすると、しばらく忘れてしまう。

我が家のカードコミューンは、そんな特殊な環境下で、
どのような成長をするのだろうか。


☆海水について

慢心ではないけれど、自分の無知を実感した事件だった。

8月の終わり

夏休みも最後だからと、カミサンと子供2人が田浦の人口浜にいってきたらしい。

私は、業務でアイルテクノロジーズ前広氏と県北まで赴いていた。

帰ってみると、浜でサザエを拾ってきた、とうれしそうに話してくれる娘たち。
みるとサザエではなく、岩肌に生息する巻き貝の一種だろう。
外形1〜2センチほどのものだ。

ビニール袋にいれられた貝を、台所流しに置いてある。

私:「これどうするのよ?」
「おうちで飼うの」と、おっしゃる娘さん。

うーん「貝を飼っておもしろいのか?」というのが、わたしの最初の意見であった。
コイならば手を打てば応えよう、鳥ならばさえずろう。
しかし、貝がなつくとも思えないし、名を呼び振りかえりはしないだろう。

そうは言っても、海水の生物、ひとまずは、シオミズにいれなければ。
と、食塩を3%に溶かして、シオミズを作る私。

適当な器にいれて、貝をいれてみると......。

なんと、キツク閉ざしていたフタを開いて、新鮮なシオミズを吸ったかと思えば、
「グ、う、グワァーーーー、も、ギュ、グェーーー」というように
悶絶し、巻き貝から出入りし、やがて貝に収まり、再びキツク、フタを閉じる。

きっと、わたしがUFOに捕まり、真空に投げ出されたとき、
彼ら(貝たち)のような事になる、と、そんな罪悪感に襲われた。

「事は尋常ではない!!」

わたしの身体に1スジの不安がよぎり。
「海の生き物の生活を取り巻く海水は、シオミズじゃ無いのか?」

私は、これまで30数余年、海水はシオミズと思ってきた。

淡水生物に、水道水はマズイからくみ置き、という程度の延長で、
海水生物にはシオミズを、と思った。

なんとかしなければ、娘たちの思いと貝の生命が、危ぶまれる。

熱帯魚などを置くペットショップに海水そのものや
海水の基である、特殊なシオがあるらしい。

翌朝、ホームワイドがあくと同時に入店し、海水の基を手に入れる。
ペットショップ部に、海水生物の水槽があるわけで、
当然、水槽やらポンプやら、海水の基なんてのがある。

海水の基、箱をあけると単に白い粉がはいっているだけだが、
50リットル分で2000円なり。

さっそく自宅に帰り、準備を進めるが、どう考えても50リットルもいらない。
1リットルで充分である。

ペットボトルを洗い、1リットルをつくって、器に。

昨夜の貝の悶絶も記憶に新しいのに、人工海水にて、再びチャレンジ。

5個の貝を沈めてみて、しばし観察.........。

貝のフタあたりから、気泡が1つ、2つ。

すると、時間の経過とともに、中から、本体が出てきた。

悶絶することもなく、器にそって、散歩をはじめるくらい元気になっている。

「出たよー、きてきて」と喜ぶ私、娘さんたちも大喜び。

しばらく、器の中を、ジワリジワリと、移動する貝を眺めて
「あれ、コイツら、なに喰うんだ?」と、疑問のわたし。

水戻しのワカメなど、いれては見るものの、主食なのか定かで無し。

わたしは、また
「コイツらの食事に、奔走するのか?」
さらには、海水の濃度維持、浄化など、
行きつけの美容院のマスターが熱帯魚マニアで
水槽や装置が何十万円もした、なんてことを思いだし。

うーん、この貝を維持することに、どのくらいの意味があるのか
あるいは地球規模の意義は、いかほどなものなのか......。
と、自問自答し、娘さんたちにGiveUP宣言。

「やはり、この貝をうちで飼うことはできない、明日、海に帰してあげよう」

娘さんたちの中に葛藤があったか、定かではないが、翌朝、
捕獲した田浦の人口浜に戻しに行くことにした。
(その夜間、貝は器を脱出し、室内を放浪した強者もいた)

おりしも、台風接近の別府湾、波も高くて、田浦海岸入場も危ぶまれる中、
捕獲したという海岸の岩肌に、貝を放つ。

「貝もきっとパパとかママとか、お友達がいるわけだから、
 離れてしまうの、イヤじゃなかったかな?」と私の話に、涙声でうなづく長女。

「でも、いま海に帰ってきて、パーティーしてるとおもう、
ウタネちゃんの顔のケーキでお祝いしてるよね!」と笑顔の長女。

シロサキ8月の貝事件、ひとりの死者を出すことなく、完結。

後日談、海水の基の箱を読むと、ミネラル成分やら粘膜成分やら、
あとは生物の生息域(海抜や砂場・岩場)によって、濃度を変えねばならないとか、
「単にシオミズでない条件」が、わんさかと出てくる。

美容院マスター曰く、海水が欲しければ、マリーンパレス「うみたまご」で
500リッター100円で販売しているらしい。
当然、館内でも使用している、浄化後の最適濃度の海水だ。

そして、残ったのは、夏の思い出と49リッター分の海水の基だ。


☆2005年のキーワード

今年のキーワードは2つ
・BBブランチ
・成すがままに在るがままに

・BBブランチ
2001年7月〜2003年12月まで開校しておりました、通称馬場塾、
BBブランチ「アイルテクノロジーズ(株)主催」の再開を計画しています。
本科・コンテンツキュレーター科・ネットワーク管理者科、と
3コースを実施し、のべ12人の卒業生を送り出しました。

開校のきっかけは、私が知り得た技術や体験を残したいと思い、
全てのカリキュラムは、私、自ら教壇に立ち講義を重ねつつ、
時には、私が全面的信頼を寄せるクリエイターを講師を招きOJTを行うなど、
いわゆる学校システムや資格ビジネスとは、一線を引く場であったと思っています。

さて、2005年春から開校予定しているBBブランチVol2は、
12名の卒業生の他に、外部講師などの意志を集約した本科リメイクコースと、
学校長自ら教壇に立つマスターコース、の2つの柱になると考えています。

具体的には
・本科(IT基礎と、Webシステム開発・マネージメント)
・プロジェクトクリエイター科(企画・提案・実現手配)
・(仮称)ホイワイトアウト科(起業後の事業再編・継続事業の再編、に関するシステム化)
などを考えています。


☆成すがままに在るがままに

2005年4月、わたしのところにコウノトリさんが来る予定になっています。

産婦人科のエコー写真をみるかぎり、その子の人生を左右するモノの存在は
未だ発見できない状態で、このまま春を迎えると思います。

「パパのワナ」にはめられる実験体が、増えるということになりますが、
城崎の中心がママとベビだけの生活になり、残された姫たちのお世話と、
全体の統括で、私はしばらく外界と縁遠くなることも想像されます。
(名前は顔を見るまで決めません、詩音も真凪もそうだったし)

また、一部から参加要請継続中の、組織運営上の問題につきましては、
今年は、もう先延ばしには出来ない事と、感じております。

一任を頂いた時点で、右か左か断する事も、在るがままに。

残された時間軸の使途も、成すがままに。

2005年は「受け身の年」かな?

追伸
  受け身と受け入れると、違うと思うんだけど......。

2004年に向けて

2003年 89点

年初公言のキーワードは、
・手応え
・金儲け
・主義主張
・コミュニケーション
を、掲げて過ごして参りました。

日常生活の中で、直面する場面場面において、この4つの事を考えながら
言動したわけではありませんが、おおむね合格。

これまでの生活には無かった新たな流れや視点がいくつか出てきて
それぞれの事象の中で、行き交う人の数が増え、コミュニケーションも充実し
主義主張を述べさせてもらう機会もあり、手応え充分の1年でした。

反省ということではありませんが、金儲けについては、数値計画と
自己資金の条件を明確にしてなかったため、評価するには難しい状況です。
(この売り上げは、自分の関与をどのくらいにするのか?の割合表など)
しかし、通してみれば、地表から山小屋まで、といった感じでしょう。

振り返れば、喜怒哀楽とても充実の1年でありました。

ともかく、新分野への着手・挑戦、新たな出会いや再会が多く、
また自分自身の違った面を再認識して頂く機会も、多かったと思います。

多くの周囲の方々の支援・視線を感じつつ、
自分に対して誠実でありたい、と言動した2003年でした。

年男だった36歳、未だ「日の出を制する」には至らず・・・・・

総合評価89点


☆父親デビュー

長女が、幼稚園年少組に入り、幼稚園児社会デビューを飾ると共に、
「社会的に父親」デビューが抱き合わせでついてきたわけで。
大きな生活リズムの変更を余儀なくされ、特に就寝・起床のリズムは、
深夜泥酔禁止へとつながる、ふむ。

これまでの生活、起床は「笑っていいとも」終了後、
キッズ・・や温泉・・、ピュア・・を見ながらの朝食、であった
これまでの生活から、6:52起床、7:09出発へ、と大きく変わってしまいました。

しばらくは、キツかったが、10代の10年間、朝刊少年であった体質に助けられ
同じようなものだったが、深夜泥酔のコントロールには、しばらく時間を要します。

ただ7時に出発すればよいわけでなく、長女を幼稚園バス停まで送る
自動車運転があるため、アルコールを残すわけにはいかないのですな。

さてそこで、酒量と睡眠時間との因果関係に興味を持ち、
ネット通販で、呼気アルコール検知器を購入し、
0.15ミリグラムの攻防をこの身で体験する。(バカだねー)

通常の健康状態で、ウイスキーストレート換算180ccを午前3時まで飲みきれば
7時起床で、アルコールチェッカーは合格通過することを実証した。

もちろん、酒種によって大きく変わり、同量のアルコール接種を目指して
ビールを飲むと腹一杯で苦しいし、醸造酒は肝臓との協議により、NG

父親として、酒臭い状態で、子供を送り出すわけにはいかない!
と、努力の甲斐あって、さわやかな朝を提供できたのではないかと、自負ですが....。
(実際は、体調NGの朝、カミサンが代わりに行くという隠し技も、何度か披露した)

毎日楽しそうに通園する娘の幼稚園での様子を、年に数回父親が見る機会が与えられます。
参観日・運動会・発表会などですね。
(私は、この幼稚園の納入業者なので、機会でなくとも参観しているのである)

しかし、その日は多くの社会の人たちが集まってくる私の苦手な場所・・・・

些細なことだけど、例えば歩行者信号を守らないとか、禁煙場所で喫煙とか、
順番待ちとか、身勝手な解釈とか、私は極度に嫌う点があって、
ゆえ、これまであまり戸外に出ず、行くところは、そこの人たちの
人間性に安心できる場所しか、立ち寄らなかった。
それで、生活も経済も巡回するように、15年かけて、組み上げてきたのです。

なので、休日のデパート・行楽地なんて、絶対に行かないのである。
苦手な人たちや、嫌いな場面に遭遇したくないために。

娘の社会デビューとセットとはいえ、未だ理屈に納得いかず、対策思案中。
なかなか、社会に接するというのは難しいモノだと、改めて思うしだい。

昨今、学校施設に危険人物の乱入が発生しているようです。
幼稚園でも例外でないだろうし、ネットセキュリティーの分野で
敵と戦っている身としては、「完璧な解決策はない」と考えるわけですから。

「ならば娘に武装させるか?」

ネットセキュリティーに関するわけではないが、幼稚園での個人情報の取り扱いについて
「父親の職業は把握していない」、と、聞きつけて、どうやら
プライバシーに関わる問題、あるいは差別に関わる問題、ということらしい。

それなら、「連絡網」と称して、自宅電話番号を印刷物でクラスに配布されたことの
個人情報漏洩は、どうなるのだろう? と、かなりセキュリティーポリシーに疑問を持ちます。

学校での連絡網って、いまもあるの?
昔からの慣習と思われるけど、そういうサービスもあるだろうし。
受益者負担は、どこ? なんて....。

これも対策思案中。

学校施設分野は、もしかするとビジネスチャンスの鉱山かもしれず。

そのためには、独身男性の確保が急務。


☆ITコンディション設立

カミサン側実家の事業の中で、ITに関する作業を手伝ってきておりました。
構想は、3〜4年前から、事業部(別会社)設立という話もあって
ようやく、ヨタ話が見えるモノに変わってきた、という感じ。

これも、2003年4つのキーワードの結果として、大きく感じています。

1989年12月25日に(株)doクラフトを登記して、
14周年15年目に入りました。

このURLをメールさせて頂いた方の中には、その14年間の中で支えてくださった方も
あるいは、後押ししてくださった方もいらっしゃいます。

また、いくつも法人設立し、団体活動もし、個人活動もしてきた中で
しかるべき体制下で行うべき事というのが、いくつか残ってきました。

それが、「ITコンディション(三信工業IT事業部)」設立の大きな基盤である
「まさはる君的ネットワークセンター」の維持運営であります。

自宅階下の1室にネットワークセンターを構えて、これまで約2年やってきましたが
60台を超えたとき、マンションの基幹電流をオーバーし、ブレーカーが破裂!!!
(1時間で復旧したが)

お客様から、信頼だけで預かっているサーバーに、主食の電気を送れなくなった....うう。
また、設置台数に限度があるなら、ビジネスの拡充は、ここで限界が見えてしまいました。

物理的場所を求め、結論として、三信工業に移設を決定。

ネットワークセンターの移設にともない、私のビジネスの多くがくっついていき
ならば、現地スタッフに、私のビジネスへ参加をしてもらう事&前述手伝いごとの延長。

同社より3人のスタッフを頂き、2003年10月21日IT事業部がスタートしました。

与えられた仕事をしてきた3人と、自分で作ってきた私と、4人で
さあ、果たしてなにか、おもしろいことが起きるかどうか。


☆師従と戦争と平和

二十歳の頃、IT系エンジニアで不健康な毎日に、すこしでも効果があるかと
引用:後藤智江モダンダンススタジオ
の門をたたき、ダンサーの卵となった。
毎週1〜2回、鏡の前で、回ったり足を上げたりして、ようやく羽化した時
手に持っていたのは、ナグリや黒斜、リノがあった。
照明の下でなく、大道具の制作が、私の舞台になった。

それ以来、10数年、発表会や作品公演では、大道具や装置、ADなど
舞台に立つ人のそばで、作品が作られている課程を見てきた。

装置の一部として出たり、ホームページ制作などでのお手伝いをしてきたが
今年は、自分の能力の中で、装置を出させて頂く機会があった。

戦争と自然がテーマの「アラスカー野生の女ー」

上演の中で、「戦場の写真を背景映像で欲しい」と、恩師の後藤智江から。
(私にも、極少数だが、NOと言えない師がいる)

本物の戦場写真をネットで探す中で、
引用:「森住 卓氏」
に行き着く。

劣化ウラン弾の被害を追うフォトジャーナリストである森住氏に
後藤智江作品の趣旨を伝え、写真の使用許諾を得る。

2003年11月16日 14:00幕が上がり
「アラスカー野生の女ー」は2000人会場満席で閉幕

森住氏の写真に行き着いたのは、以前奇形児などの写真を収集した時のブックマークからだった。

放射能被害が引き起こす、奇形児の写真は、見慣れた人間の子供ではなかった。
映画の世界で、そういう地球外生命体も表現されるが、この子には人間の親がいる。

親は、この生まれた子をいとおしく感じるのだろうか?
子供の将来を夢見るのだろうか。

私は、奇跡なのか、健常の娘2人が与えられた。
だから、運動会でよその親が嫌いだ、なんて言ってるが
森住氏のレポートや写真を見ると、度外なゼイタクに感じる。

後藤智江は、イラク攻撃など昨今の戦争をみて、
「ダンサーとして反戦と平和を願う行動」を続けていくのである。

では、私は、世界に対して、なにを訴えていけるのか?

これも対策思案中。


☆BBブランチ終了

2001年6月より始めた、
引用:BBブランチ(別称馬場塾)
今年の本科(3期生)の卒業で、いったん終了しました。

いくつか理由はあるが、私が残したい「生き方のエキス」を受け止めるだけの
人材の確保と、馬場的固有文化の土壌形成が出来てきたからです。

開講当時のカリキュラムも、さすがに3回使えば陳腐化するし、
卒業生が、馬場校長のマネゴトから、自分の生き方に
シフトするために、もう少し、伝承したい部分があり、
新規生徒の募集中止というのが、正しいと言えるでしょう。

喜怒哀楽が充満する「その場」こそカリキュラム!!
と信じて、3年間、12人の卒業生を送り出して、
「ああすればよかった」「こうすればマシだった」と
反省も多い中、システム屋としてのズルさ、からか
「あとで出来る事は後回し」というところ.....。

資料作成や、営業での交渉、交際など
机上や室内では出来ないことばかりが残ってしまったけど、
OJTが可能な場合は、少し展開したいと考えています。

つまり、あとで出来ること、補講を開催しようという企み。

BBブランチ(別称馬場塾)


☆503撤収

数名の有志で始めた、
引用:アイルテクノロジーズ(株)
創業の場所
また馬場塾BBブランチの教室、
そして、まさはる君的ネットワークセンター、
であった城崎町503号室を、昨年末で退去しました。

一般住宅向けマンションのため、電源基幹が60Aしかなく
このままでは、ホスティングの数も限界があり、やむなくセンター移転。

私の住居と隣接という理由で、24時間体制の管理であったわけで。

BBブランチも、同様に24時間登校OKの教室でした。

2001年春先、現アイルテクノロジーズ社長とふたりして
あれこれ持ち込み、事務所らしく仕上げ、また教室に見せかけ?したわけでして
精神的にも出発点であった503号室でした。

昨年11月にネットワークセンターも移転済みで、BBブランチも長期休暇に入り
503号室の存在意義は薄れたため、退去することに。

すっかりモノがなくなって、ガランとした部屋を見たら、少し......。

起業時のメンバーも、それぞれ事情が変化し、アイルテクノロジーズの継続
そのものも、503の撤収と共に、今年一年かけて、考えていこうと思います。


☆2004年のキーワード☆

今年のキーワードは1つ
エンタテインメント

ITが進化して、電子化・メール化が進む中、
文字やメッセージで、感情や重点を表す、
デジタル言葉遊びのような文化ができつつあると感じています。

お得意とする部分でありますが、果たして、そうなのか?
と、これまたアマノジャク的に、思い出したわけです。

百聞は・・・というコトワザにあるように
その前に人が立った写真で見せられた鯨の大きさの迫力は
いくら文書で説明されてもわかりきれないに例えます。

意思の疎通や確認が、個体間の通信の意義だとすると
より効果的に伝えなければ、誤解も生じます。

大分県でセレブ?な、書道家とご一緒する機会があり、
作品を拝見する機会がありました。

書道が、意思を伝えるための記号であるなら、
活字が発明された段階で、書家の役目は終わったはず。

しかし、書家によって、文字の力強さ・繊細さを
文字の意味以上に伝えることが出来るのであれば
それはエンタテインメント。

意味に気持ちを乗せて、伝えることのおもしろさを
人間は求める傾向にあるのかしら?

例えば、生きとし生ける万物「恋心」の伝達には、
ありとあらゆる手段が考え出され、試され、消費されてきました。
詩も歌も、舞も書も、クジャクのそれも、そうだと聞きます。

ビジネスでもおなじ事だと思っています。
売りたい人が、客を買いたい気にさせる。
欲しい人が、売ってもらう状況を作る。

オニギリ1つ売るも買うも、恋心と同じだと定義します。

ならば、今年はエンタテインメント性の高い仕事ぶりを目指そう。

そう決定しました。

美しい名刺交換 とか
犯人を推理したくなる見積価格 とか
感動の嵐を呼ぶ電話の取り方 とか
自分の人生を重ねてしまうメールタイトル とか

となると、今の風を取り入れ続けなければならず、
また、披露の機会も作らねばならず。

これまでのメール至上主義に少し上乗せして、戸外活動も、今年は増えるかと。

追伸
 とはいえ、私、自分に酔いがちなので、要注意.....イタタ

雅治&真凪の「東京日帰り小旅行」

我が家、恒例「満3歳直前東京旅行」

満3歳前日まで、交通機関や各施設入場料が無料だから
と、そんな理由で、詩音の時代からはじまったこの企画。

次女、真凪も、例外なく実施する事となった。

準備

私にとっては、気がかりのタネであった。

長女詩音が3歳前の時期と違い、明らかに一家全員、
生活の様相が変わっており、まったく同じ事が自分の意志だけで
進められなくなっていた。

例えば、自分だけ置いて行かれる事を理解できる姉妹の存在。
(詩音出発の時、真凪は乳児だったので、目立った反応はなかったが
今回は、さすがに詩音の感情の受け止め方に、夫婦して苦慮した)

今回の旅行も、話はずっと頭にあったし、話題にも出てきた。

あるいは、姉妹ともに連れて行くか、それか一家でいくか。

時間は刻々と、満3歳を迎える2004年8月16日にせまる。

1度は、7月29日に計画をした。

仕事先などにも、同日の不在を連絡し始めたところ、
台風の影響があり、8月2日に延期を決定。

しかーし、7月29日まで、航空券片道26200円が
7月30日より、片道32300円なのだった。
(夏期ピーク料金と言うそうな、年間で最高値)
ああ、29日にいけばよかった。

さて、前日8月1日

これまた恒例により、緊急用携帯電話を真凪に装着する練習。
詩音の時も、この同じ電話機を持たせた。

機体に「この子を保護した方は090-・・・へご連絡下さい」
とシールが貼られているのだ。

もしも、迷子になったとき、こちらから電話をかけ、
本人から今居る場所の周囲状況を聞き出そうという計画である。

だが、この作戦、幸い1度も実行されたことがなく、効果は不明のままである。

当日、6:40
前夜、早々に寝かせたのが良かったのか、本人の意識によるものなのか、
「パパと東京タワーにいくんじゃないの?」と問うと、シャッキリ起きあがった。

大分ホーバー

多少の身支度をして、7:00タクシーにて、大分ホーバーへ。

私は、手荷物が嫌いで、旅行でも持たない主義。

とはいえ、真凪の着替えパンツなどで、ポーチ程度にはなった。

真凪お気に入りの、肩掛けポーチに詰め込んで「自分が持つ」と
足取り軽やかにホーバー基地ロビーを闊歩するが、
「パパー、重たいからパパもって」と、出発から15分で荷物係交代。

ホーバー乗船出発は、7:40なので、しばらくはロビーにて待機する。

帰省していた家族が自宅に戻る、と思われるのが数組。
業務利用者なども乗船開始したが、室内はがら空き。

着席は、これも恒例「左窓際最前列」
ここだと、前(ワイパーあるし)も横も、見えるのである。

今日最初のタダ乗り、ホーバークラフト 大人2750円

機体は、「ドリームサファイヤ号」
波もなく、安定した航行で、無事、大分空港ホーバー基地に到着。

このホーバー基地ロビーに、なぜか亀がいる水槽がいて、しばらく、そこでタイムロス。
「飛行機みよう」とキリを付け、長い動く歩道に乗って、ANAカウンターへ。

大分空港出発

ネット予約済みの番号を伝え、航空券を購入。

本日2番目の、タダ乗り、大分東京航空券(大人は32,300円)

搭乗券を受け取り、2Fの出発ロビーに向かうが、チッコ!

私もなれたもんで、さっさと抱えて、男性トイレ洋式に駆け込み
スルスル、ほい!、・・・、デタ、はい、ジャー、と....。

しかし、詩音の時と違って、続いてパパも用足しなのだ。

というのが、
|====(雅治&詩音の「東京日帰り小旅行」より抜粋)
|また、「所用の姿」を見せるべきか否か?という葛藤もある。
|結論として、個室の前に立たせて、戸の透き間から
|離れないことを確認しての所用は、集中できないのである。
|おとなしく、待っていた詩音だった。
|=========
こんな経験が、前回あったため、今回は、同室用足しとなった。

私も、成長?したものだ。

恒例でいうと、このあと、時間までホットドック&コーヒータイムなのだが
真凪もあまり空腹でないというので、手持ちのスナックで時間を過ごす。

私は、「写るんです」を探しに、館内をうろつくがみつからず、
記憶を頼りに、ボディーチェック後の、搭乗口ショップに行く。

ここには、あるのだ。
なぜ、表側にはないんだろう、見つけられなかっただけなのか?

定刻9:00出発に向け、お子様連れや体の不自由な方の優先搭乗に従って
まずは、ボーディングブリッジに向かう。

本日の搭乗機を後ろに記念撮影。

上り飛行機

機体は、B767なので、適度な大きさ、座席は40A 後方左窓側
なので、上り線は富士山が見える側だ。

カウンターで座席指定の際に
「どこでもいいが、子供が一緒なので、周囲に迷惑がかからないような場所に」
とお願いすると、トイレが近く、子供用にも1席あけてくれる。

3歳未満の子供が無料なのは、大人がダッコして乗るのが前提なのである。
なので、ひとり1席で乗せたければ、子供料金(半額)が必要なのだが
ギチギチ満席でない限りは、こういう措置をとってくれるみたいだ。

ただしながら、さすがに3歳未満の子供を一人で乗せて、
大人用のシートベルトを付けさせるには、万一のとき
腹部切断なども考えられるため、離発着時はダッコすることにしている。

## もちろん、ダッコした上に二人してベルトをしないように ##

着席し、真凪はなんだか、様子がわからず、窓の外の他の機体に
目を向け、「あー、ひこうきー」とはしゃいでいる。

そう、乗り物は見てるのと、乗るのでは、ちと意味が違うのだ。
乗っている自分を自分で見ることができない現象が理解できるか?

今日は、風向きの問題か、いつもとは逆向きに滑走して離陸。

雨は降っていないモノの、厚い雲の層を、いくつも通過し
そのたびに、「入ったー、出たー」と、大騒ぎ。

私も気を遣って「ラピュタがいるかな」「姫ねーさま飛んでくるかなー」と
歩み寄りのネタでアプローチするが、彼女は決まって、冷静に
「なんで?」 と返してくる。 トホホ.....。

飛行機の体感重力として、上昇中でも旋回中でもあまり差が無く
機体が左右にロールしていることを、シリで感じるのが難しいが
真凪は窓外の雲の動きから、自分が地表に対して傾斜していることを
把握できるようで、機体がロールするたびに「おっとっとっと」と喜ぶ。

酔わないのだろうか?

水平飛行に移り、機内サービスが始まってすぐに、お子様グッズが届く。
ANAなので、ポケモンネタである。

真凪は、ミニ絵本をすぐに指定した。
(パパは、B767のスケールモデルが欲しかったのに)

オレンジジュースをもらって、手持ちのウエハースをバリバリ食べながら
寝たり起きたりで、やがて静岡上空。

窓の外になにやら三角の黒いものが、真凪にはっきり見えた。
「あれはね、大きなおやまで、名前をふじさん、といいます」
教えたら、気に入ったようで、黒い大きなおやまを認識可能に。

今の時期、頭は白くないし光線の都合で黒く見えたが、
一般的な白い頭で青い富士山の写真や絵を見たときに
同じモノとわかるのは、果たしていつなのか、楽しみである。

次第に、高度がさがり、千葉上空を旋回しながら降下していくと
景色から、ロールを感じ「おっとっとっと」と大騒ぎ。

うみほたるを左に東京湾を滑り降りていく途中、
沿岸開発で、海の色が濁っている境界があって、
「あそこ、色がちがうねー、なんで?」と、しきりに気にしていた。

かなりの振動で、着陸したが、どうも真凪はこの振動が好きなようだ。

羽田空港到着

ほどなく、ゲートに到着し、10:30、いよいよ東京での1日が始まる。

まずは、二人して、チッコ!

長い通路を、動く歩道で移動するが、乗り・降り、を上手にできる自分が
うれしくて、何度も乗り降り。(まあ、ANA到着だと4回はあるな)

モノレール

訪問先1件目は、私の仕事先に顔見せで、(株)キッズ 北原殿
JR浜松町駅から、徒歩10分程度であるため、モノレールで移動。

本日3番目のタダ乗り、モノレール、大人470円

ホームに行くと、出発直前で、空席もあったので、乗り込む。
ANAのゲートから乗り込むと、進行方向最後尾になるわけで。

動きだし、しばらくして地上に出たとき、真凪は
「パパー、なんで、後ろ向きなの?」とおっしゃる。

うーん、確かに疑問だー。

子供の率直な疑問に、その子の年齢のボキャブラリーの範囲で
うまく回答するには、「パソコンは感電する」と信じる人に
Excelを教えられる私にしても、困難だ。

「じゃ、パパの方向いて、だっこしようか」と、解決!
したのか、わからないけども、「パパの方向いて、よかったねー」と、
いまも言ってるところからすると彼女にとっては、解決なのかもしれない。

大井競馬場あたりで、さすがに早起きのリバンウンドで寝てしまう。

JR浜松町に到着し、タクシー乗り場前で、訪問先キッズ北原氏に電話。
ところが、不在のようで、伝言を残す。11:04

気温も高いし、返答がいつになるのかわからないので、予定を変更し、
東京タワーに移動開始。

東京タワー

タワー前で、北原氏から、電話。11:26
もう、移動してしまったことから、再度12:30にアポイント。

抱きかかえたまま、タクシー移動し・展望台チケット購入と、
なにやら、姉詩音とまったく同じ状況となった。

なので、前回とまったく同じように、東京タワービル中2階トイレ前のベンチで
起きるのを待つことに。

なんと、まあ、歴史は繰り返すのか。

ベンチに寝かせて数分でおきて、目に見えたプーさんキャッチャーに
「あー、プーさんがあった」と、大はしゃぎ。

自走も可能なようなので、さっそく、展望台エレベーターに。

本日4番目の、タダ乗り、東京タワー展望台(大人は1,420円)

もぎりのおねえさんから、キャラクター「のっぽん」の缶バッチをもらい
さっそく胸に付ける。

150mまで、一気にあがって、展望台窓際に座らせる。

あまり状況がわからず、しばらくぼーぜん。

TV型の望遠鏡200円を、見たがあまり気に入らず、
旧式100円の望遠鏡がいいとおっしゃるので、そちらに。

それでも、気分がノラず、250m特別展望台に。

詩音の時は、待ち無しで、シラけた雰囲気の特別展望台だったが
今日は、エレベーター5回待ちくらいの混雑。

3組ほど、外国の方もいたが、大半は孫に会いに来た
ジジババ付き家族づれ、かな。

ママにコール

順番がきて、ぎゅーぎゅーに詰め込まれたエレベータに一気にあがり
展望台窓際で、写真をとったら、すぐ降りた。

だって、特別展望台って狭いし、なにもないところだ。

再び、150mまで降りてきて、カフェで、休憩。

真凪は、タワーサンデーとフライポテト、で私はアイスコーヒー

ここでママに電話。12:09
ママと詩音は、石亭(石焼きビビンバ)で昼食中だったらしい。

しばらく、アイスクリームを食べつつ、ケチャップたっぷりポテトを
たべながら(味覚は、どうなのよ?)、休憩。

さて、北原氏のところに移動を開始する。

エレベーターで、地上ビル4Fに到着し、順路を間違えて
屋上プレイランドにでてしまい、遊具でひと遊び。

東京タワービルを後にタクシーめざして、1Fロビーから
表に出ようとしたとき、東京タワーマスコットの
「ノッポン(浴衣バージョン)」が出てきた。

無料のようなので、記念写真をとって、バイバイ。

パパ仕事先に子連れで訪問

タクシーで、北原氏のオフィスがある、芝一丁目へ。
移転後、訪問したことがなく、タクシーのうんちゃんに
住所と、金杉橋というキーワードでさぐりながら移動。

なんだ、自社ビル(親会社)なので、すぐわかって、降車。
ICビル、4Fへ。

北原氏には、事前に次女が同行と、伝えてあったが
社員はわからず、ちいさな子連れがきてます、とケゲンそう。

北原氏と面会かない、1Fのインターネットカフェに。

すかさず、チッコ

真凪には、イチゴヨーグルトを用意してくれたが、
なんだか、果肉イチゴが張り付いているのが気になって飲めず。

しばし、仕事の話などしながら、時折、子供の話題に行ったり来たり。

そこに、インターナショナルクリエイティブ小林社長が通り
ご紹介頂いて、ご挨拶。

お台場の冒険王フリーパス差し上げましょう、お誘い頂いたが
真凪には無理な内容なので、失礼ながら辞退。

13時になっていたので、近所の江戸前天ぷらの店に。

ごま油ぶりぶりの濃い天ぷらでした。

真凪は、ハゼ天と穴子天が、気に入った。
ハゼ天は、大分じゃ、なかなか無いからなー。

私の定食を、1/3ほどたいらげて、麦茶こぼして、お店をあとに。

北原氏と別れ際
「今度、真凪ちゃんのおうちにきていいよー」とバイバイ。
最近の決めゼリフらしい。

京浜東北線

徒歩で、JR浜松町駅に行き、そこから京浜東北線、大森駅に移動。

本日5番目のタダ乗り、京浜東北線、大人160円

「パパ、なんで、電車すわらなかったの?」
「あなた、寝てて、パパにダッコされてたでしょ?」
「そうよねー、よかったよねー」と、なにがよかったのかなー。

しながわ水族館

大森駅から、タクシーで、しながわ水族館に。

ここも、詩音の時と同じコースの1つ。

NISMO本社横を抜けると、品川区民公園があり、
その1施設が、しながわ水族館である。

公園を通り抜けなければ、水族館に入れないので、
暑い中、館内で体力発揮にそなえ、ダッコで移動。

入り口、自動販売機で、チケットを購入。

本日6番目のタダ乗り、しながわ水族館、大人1100円

入ってすぐは、淡水の水槽で。

ここの水族館の水槽の多くは、床近くまであるので
子供の目線でも、真横に魚を見ることができる。

また、下部はベンチになっており、すわって
ガラスにほおずりしながら見られるのである。

詩音がお気に入りだった、東京湾のさかな水槽に
体長30センチくらいのエイが、垂直にこちらに手を振るように
泳いでいる水槽がある。

同じく、お気に入りのようだ。

入館してすぐ、14:30のアシカショーがはじまって、
急いで、ショーエリアにいくが、ここも東京タワーとおなじように
混雑していて、十分に見える場所には近づけなかった。

アシカのフラフープくらい見たはずなのだが、どうだったのだろう?

ショータイムは、そんな感じなので、その終了を待つと
一般展示も混雑するだろうからと、私たち二人は、一般展示に。

また入り口付近まで戻り、水槽を見て回る。

真凪はちいさいという事もあるが、人の間をスルスル抜けて、
最前面まで、あっというまに行き、ガラスに張り付く。

存分に鑑賞したら、またスルスルと帰ってくる。

そんなことを、繰り替えていたら、地下にある、ドーム水槽の
ガラストンネル部分に入る。

ウミガメの大きなのが来たときには、大はしゃぎだ。

詩音と来たときにみた、白いクエも健在で、
同じように、そのクエを背景に写真をとった。

※写ってなかった。

冷水系をぬけ、珊瑚礁の展示には、ナンヨウハギの大小が泳いでおり、
「ドリー、ドリー」と言ってた。

この水族館は、うみたまごとちがって、カクレクマノミは、居なかった。
居たのかもしれないけど、押し出しはなかった。

淡水系の展示は、前回も疑問に思ったが、薄暗く、雷のおとがしており
両生類誕生という黎明期の地球の再現かとおもうが、
小さい子供は、爆泣きが必ず、1〜2名いた。

特別展示に、小笠原諸島展があったが、なぜかコウモリとか
光るキノコとか、水族でない?ような展示だった。

アシカ・イルカプールの地下は、ガラスになっており、横から
見えるわけだが、滞在時間中は、イルカを見ることはなかった。

最終ブロックは、大きなサメがいた。

真凪と比べると、大きな個体だが、わかるかな?

15:00くらいになり、16:00のイルカショーを待つか
迷ったモノの、真凪もかなり疲れてきたようで、口数もすくなく、
このまま1時間、館内ですごすよりか、空港に移動して
少し休ませてから、活動がいいかと、水族館を後にする。

屋外の「クジラのヒレ」モニュメントで記念撮影。

品川区民公園は大きな池?があるのだが、
泳いでいるのは、コイでなく、ボラ、なぜだ。

公園を抜けて、通りにでて、タクシーに。
若干、混雑していたが、なんとか空港に。

羽田空港出発

車に乗り込んだ時点で、倒れてしまった真凪は、
そのまま、抱えられ、空港内に入る。

時計をみると、16:00過ぎ。

フライトの18:20までは、かなりあるので、
繰り上げ変更の可能性を検討するが、都合のいい時間のがなく
予定通りの搭乗とする。

さて、どうしたもんかと、ひとまずは、座る場所をさがそうと、
手続きカウンターまえのベンチを、見回すが、
さすがに、人が多く、穴場に移動。

ガレリアの上の階に、レストラン街があるが、
その滑走路側に面したレストラン左右に、非常口にむかう
通路があり、そこにはトイレがある、そしてベンチがある。

ようやく、そこに真凪を横にさせて、しばらく寝かせる。

まるで、浮浪者か?

大分に状況をメールし、空港お迎えにする。

1時間ほど寝かせるつもりだったが、30分ほどで、起きた。

おなか空いたということで、「なにがいい」と聞くと、
「お寿司」とのこと。

都合良く、寝てたベンチのある裏隣は、寿司屋である。

さっそく、店に入り、真凪はジュニア寿司
お子様ランチというところだが、おもちゃ付きを
真凪は、見本で見ていた。

江戸前寿司ということだが、最近、まれにみる、
うまくない寿司だった。

羽田空港で寿司の時は、いつも旧JAS側の2F寿司岩なので
ここは初めてなのだが、いやはや。

ひとしきり、二人でたべたあと、帰り際に
おかみさんが、「あ、おもちゃあります、これどうぞ」と、
銀のプラメッキの髪飾り・クシ・鏡もどき、のセット。

これとまったく同じもの、大分の宅配寿司「銀の皿」の
子供寿司のおまけで、先日、手にしたばかり。

日本全国、寿司屋のおまけは、このセットなのかしら?

空腹が解消された真凪は、エンジン全開。

ガレリア最上階は、結婚式場など有り、イベントスペースになっているが、
この日は「ロボット展」が開催されていた。

もちろん、AIBOや会話をするキティーなど、もろもろが勢揃い。

番犬ロボットに握手を、とおねえさんにいわれ、手を出したら、
ググッと動いて、退いてしまう真凪。

そういえば、このロボット、福岡リバレインで見たぞ。

おもしろくないので、
2Fのトイショップに、真凪から詩音へのおみやげを選びに。

ディズニー中心だったのに、ハリーポッターやら、何でもアリの店になってた。

あれこれウロウロした結果、ディズニー・マリー・マグカップに決定
真凪、自分のは、ストロー付き姫マグカップ。

パパからは、ふたりにプーさんのワンピースを。

買い物をして、ロビーにでると、なにかわからないが、
大きなクジラ?のアド風船があるので、それを背景に最後の記念写真。

1Fの食品館で、ママ用焼き芋きんつばを、1セット購入。

ボディーチェックで、携帯などは、土産物バックに移して電源OFF
鍵や硬貨は、面倒なので、ポケットにいれたままで。

二人で、検査機を通過したら、「ピンポーン」
「あー、鍵、ポケットでした」と、下手に出るお父さん。

でも実は、真凪が胸に付けていた、東京タワーの缶バッチだった。

私は、無関係の犯人捜査に、違う件できりだし自爆するキャラなのか.....?

到着時と同じく、長い長い動く歩道を乗り継ぎ、ANAバスターミナルに。

幼稚園向け土産に、空飛ぶデカドラを購入し、本日の買い物最後。

下り飛行機

バスターミナルに行くと、もう搭乗が始まっており、
早々に、バスに乗り込み、搭乗機へ。

本日7番目の、タダ乗り、東京大分航空券(大人は32,300円)

帰りも同じく、カウンターで、「子供が迷惑を・・・・」と
右窓側最後尾に、座席を構えた。

順調に滑走し、上昇に入ったら、窓の外に大きな黒いおやまが。
「あー、大きな黒いふじさんが」と、大はしゃぎ。

8時間ぶり?くらいで、富士山と再会。

下に見える町並みに、機体の傾きを感じて
「おっとっとっと」と、言いながら、高度を増し、
やがて、水平飛行に。

機内サービスに先立ち、お子様グッズが届くが
またしても、朝と同じ、ポケモンのミニ絵本を選ぶ。

別に、詩音におみやげにと、同じモノを選んだのではなく、
単に目についたモノで、ほしかったモノがそれ、という、
真凪の中の選択システムが、安定した動作をしたということか。

お飲み物のサービスで、「おじょうちゃんは何にしますか?」
という問いに「お茶」と応える、渋い2歳児。

お茶を飲みつつ、コーヒービーンを3つづつもらっては食べて
絵本見て、うとうとして、チッコして、やがて機体は降下体制に。

そこで事件は、起こった。

機長の許可

小刻みな揺れの中、雲に出入りを繰り返しながら、
機内もシンと静まりかえっていた。

私の隣の小さな姫様は、「チッコ」と、おっしゃる。

漏らしては大変、と抱きかかえ、立ち上がる私。

機内の6人のキャビンアテンダント(CA)に緊張が走り、
すぐそばのCAが、事情を察知して
「着陸までもちませんか?」
「うーん、ムリでしょう、トイレ、ダメですか?」
「・・・わかりました、機長に確認します」

最後尾のインターフォンから、チーフパーサーに
事情が伝えられ、たぶんにそこから機長へ。

1分もかからなかったと思うが、
「お客様、いまから2分ほどは気流が安定するので
機長から、特別に許可がでました、お急ぎください」

座席が最後尾なので、立ち上がり、振り向けばトイレである。

しかし、着陸のため使用しない前提のその場は、積み出し廃棄物などが収納されてた。

CAが、それを即座に片づけ、大きなお父さんと小さな娘さんは
狭い狭い化粧室に入る。

大騒ぎの割には、・・・チョロ・・・・デタ と、小降り。

「急がせてすみません」とCAの指示で、速やかに座席に。

CA6人が、完了のサインを、親指立てて、連絡する。
私も、参加しようと思ったが、やめた。

ふと、壁面をみると、プロジェクターに屋外映像が出ていたので
そのくらいの着陸高度だったと、あとでわかった。
(そりゃ、機長の特別許可だわなー)

前方カメラ映像に、着陸誘導灯が映し出され、滑走路が近づくにつれ
真凪のドキドキは高まって、着陸の衝撃で、窮するかと思えば
「わーい」だって。

どうも、着陸の上下の振動が大好きになったようだ。

大分空港到着

機体が停止し、最後尾から通路を移動するさいに
CAから「またね」と言われ、
「今度、真凪ちゃんのおうちにきていいよー」とバイバイ。
最近の決めゼリフらしい。
CAは「ほんとにいいの!」と、大喜び。
そんなこと言うお子様は、そういないか。

到着ロビーを歩きながら、自分のポーチを持つといい、首にかける。

階段をおりて、ガラス越しに、詩音やママの姿をみて、そちらに駆け出す
「おい、そっちじゃ出られないから、こっちきて」と引き戻され。

「うたねちゃーん!」と、絶叫し、13時間ぶり、4人そろう。

我が家恒例の「満3歳直前東京旅行:真凪編」無事終了。

これは、いつまでも続くのだろうか?

To Be Continued…….. Thank you!!

2003年に向けて

☆2003年を迎えるにあたり☆

2003年、年男(36歳)です。

昨年は、システム事業・ITスクール事業・主夫(パパ)業、それぞれ
自分の中では、合格ラインでいけたとおもっております。

どちらかといえば、それらの任務より、子供たちが周囲を吸収し
成長することのシステムに興味をおぼえて、観察という名の
怠惰な日々であったのかもしれません。

貴重な経験の1つに、習作「海辺の小瓶(出会い系サイト)」で
名誉毀損事件が発生し、警察署に供述調書を提出したことですね。

また、doクラフトは12月25日に13周年を迎え14年目にはいりました。
(実質は、baba@docom.co.jp というネットサーバーでしか残っていませんが)

その13年間で出会った中、30もの会社が倒産などで無くなっていきました。

共に徹夜したり、馬鹿笑いして飲みながら未来を語り合った友人も含まれます。

そんな友人の苦労を話しでしか理解できなかった間に、私は
小規模でなんとか回る地位を得ており、現状、収支共に安定しております。

もちろん、みなさまとの環境下故、いまがあったと思い、
せめて社会に恩返しだと、技術・精神の継承に、ITスクールを開講しましたが
順調に卒業生が素立つ度に、「もう一度、しっかりと作品を残したい」と欲もでてきました。

でも言い換えれば、お金と責任の壁を乗り切れなかった友人たちと共感できる
同じ土俵に立ちたいがため、今更「稼ぎ」に挑戦したいと、青臭い感情かもしれません。

なんのために、doクラフトを起業したのか?
もしくは、サラリーマンを辞めてまで、したかったことはなんだったのか?

思い起こせば、自分の主義主張と手応え感ではなかったかと思われます。

なんてことを、ボツボツ考えながら、2003年は、ちと
仕事をしようとおもっています。

家業関係も、今年は、監査役を拝命し、楽しみにしております。

また、10年近く、関わってきました、美術・芸術を
本格的に応援するたために、NPO法人を設立しました。

特定非営利活動法人エンジョイターミナル
http://www.pref.oita.jp/13010/37jokyo/37npojokyo.htm 66番

今年も、自分を信じて、「やっぱオマエはそうだよな」と言われるよう
やっていきたいとおもいます。


☆2003年のキーワード☆

2003年(36歳年男) 年間指針

キーワードは、
・手応え
・金儲け
・主義主張
・コミュニケーション

の4つをテーマにやっていこうと考えております。

・手応え
 手応え感が、最高の報酬と考えています。
 人も、あるいは草木動物も、手応えを求めて日々があると思っています。
 私も、ずっと手応え感を求めて生きてきました。
 拍手や誉められることを期待して、時にはモテたいがために。
 社会に参加し、少人数だとしても会社組織を考える立場に求められるのは
 利益向上であることは周知の事実で、私の苦い過去の経験上、
 それを追求するのを、これまで避けてきていました。

・金儲け
 doクラフトの看板で、この13年の間に、30もの関係先が消滅しました。
 そのほとんどが、お金と責任の問題によるものと思われます。
 そんなに「金を稼げるやつがエライ」のか?と、愛情主義できておりましたが
 そんなことでいいのならやってみるか?と、いつもののノリで、
 いまさら金儲けを実践していく年にしたいと思います。

・主義主張
 これまで自分自身を商品として生活をしてきました。
 今後もそうであるなら、商品の特性やメリット・デメリット・機能・用途など
 明確に提示する必要があり、それは私の主義主張に等しいと考えています。
 私自身の主義主張に加え、私がやろうとしていること、
 あるいは興味を持っていることも、きちんと説明する責任があると
 感じており、その機会を設けることや、手法を確立したいと考えています。

・コミュニケーション
 自分という商品を売る事を生業にするのであれば、
 売り込みとアフターメインテナンスをしっかりと体制すべきですが
 商品の性格上、メリットを生かせるお客様にしかお売りできません。
 そのためには、私自身をしっかりと理解してもらえるよう、
 また商品が性能を十二分に発揮できるよう、お客様を理解する事が不可欠です。
 主義主張言いっぱなし手法はワンウエイのつながりであり問題も多いなら、
 話をし、話を聞き、見て、見せて、味わい、触れ、感じ取る双方生を積極的にやっていきます。
 そのために、従来のデジタルネットワークも効果的に使用しながら、
 歴史的・日本的に有効とされるコミュニケーション手段も、研究あるいは実際に
 着手することも、この2003年の大きなテーマだと考えています。


2003年は、

手応え感を得るために、取得利益向上を目指し、
主義主張(商品ラインナップ)を明確にして
コミュニケーション(セールスプロモーション)を行う。

そういう1年にしていきます。

雅治&詩音の「東京日帰り小旅行」

我が家では、

子供たち

満3歳前の公共交通機関
無料までの間に、

パパと二人で、
東京タワーにいく慣例がある。

きっかけ

それは、突然の決定だった。

9日の夜、4人で近所の居酒屋「若大将」で飲食の中、話題に出てきた。

「詩音ちゃん、来月で3歳かー」「ああ、飛行機が有料になる」
「なら、それまでに、飛行機のろうかなー」
「のるぅ、飛行機のるうー」

以前から、飛行機に乗りたいと、願っていた詩音であった。

6ヶ月くらいの時、曾祖父の授賞式の為に、
2泊3日で、東京経験がある彼女だが、
自分の意識の中では、記憶にないのかもしれない。

5月9〜12日で、東京ビックサイト(国際展示場)で
おもちゃショー(おもちゃのメーカが新作を発表する展示会)が
開催されており、雅治は毎年、それを見に行きたいと考えていた。

「じゃ、詩音ちゃん、それにいこうか!」と10日の日帰り東京行きを決定。

飛行機の空席状況をインターネットで確認し、
朝8:30大分発と夕方18:55羽田発を確認した。

おもちゃショーは、11・12日に、一般公開されて、
業者でなくても、入場が可能だが、10日は、おもちゃ販売業者が
メーカーと仕入の話する商談日であり、入れない。

そこで、仕事の関係先にネゴして、10日に入れるように
パスを欲しいと依頼するが、「パスはあるけど、子供はだめだ」
という回答であった。

つまり、本来の目的だった、「おもちゃショーの見学」は不可能となり
雅治と詩音が、東京に行く意味は、消え失せたのである。

とはいうものの、詩音は「飛行機、ひこうきー」と言い続けるし
まあ、雅治も、行けば仕事先への顔出しなど、要件がなくもない。

そこで、インターネットで再度、空席を確認して、予約を入れる。

この時点で、大きな問題は、
(1)なにをしに、いくのだろう?
(2)詩音(雅治)が、朝6:00に起きれるのか?
(3)大人でもキツイ、東京日帰りに詩音は大丈夫か?
であった。

さらには、迷子や行方不明などの事故に巻き込まれないようにしなければ。

深夜だというのに、その迷子対策などを、手配する。

まずは、雅治が何台も持っている携帯電話の1つを
詩音の緊急連絡用にして、こちらからかけたら、詩音が出る練習。
「ピピピピ」「もしもし」「詩音ちゃん、いまどこ?」
「あのねー、あのねー、テレビみてるの」「・・・・・」
果たして、役に立つのだろうか。

次の対策は、その携帯電話にシールを貼った。
「この子を保護した方は090-3737-6512へご連絡ください。」
雅治の携帯電話を明記した。
果たして、役に立つのだろうか。

交換おむつバックや、小銭や、ウエットティッシュなどなど。

すっかり、準備が終わって、寝たのは、2:00を過ぎていた。

いろいろと、疑問もあるが、「詩音が飛行機タダだから」という
理由を信じて眠りに就き、やがて、朝を迎えた。

出発

6:00、一足先に起きて、現在の現地天候を
TVやインターネットで確認する。

いま、日本全国、あちらこちらにインターネットから
見ることができる、監視カメラが多くあり、
現在の現地の様子を、そのまま見ることが可能である。

大分ホーバーが、7:15の為、7:00ホーバー基地着を目指して、
お見送りの佐和子・真凪も起きる。

心配された詩音も、着替えさせている間に、目をさまし、
自走によって、車に乗り込んだ。

大分ホーバー

朝2番のホーバーなので、混雑もなく、
今日最初のタダ乗り、ホーバークラフト 大人2750円
ちなみに、保護者は、有料なのである、当たり前だ。

窓際にすわり、基地の窓から、手を振る佐和子・真凪に
こちらも答えて、定刻出発。

雨だったので、海上はまったく視界が通らず、
なにも面白みはないが、波風の一切無い状態は幸い。
(真さに、凪?)

空港側基地に、到着し、ながーい歩く歩道で、
他の乗客はその上でも歩くため、私ら二人は
あっという間に、取り残されてしまう。

大分空港出発

8時ちょっと前に、JASカウンターに到着し、
インターネットで予約の通り、2人分の搭乗券を手にする。
本日2番目の、タダ乗り。(大人は21,900円)

出発カウンターで、ホットドックと飲料を二人でとる。
詩音はソーセージで、雅治は残ったパンを食べる。

ここで、大問題。
雅治が、トイレ(大)に行きたくなったが、どうしたものか?
ロビーに待たせておくのも、問題があるし。
かといって、一緒に個室に入れる大きさでもなし。
また、「所用の姿」を見せるべきか否か?という葛藤もある。

結論として、個室の前に立たせて、戸の透き間から
離れないことを確認しての所用は、集中できないのである。
おとなしく、待っていた詩音だった。

搭乗時間も近いので、携帯電話をはずしたりとゲートを
くぐり、いよいよ、出発が近づく。

売店で、写るんです・飲料・ハイチューイチゴを、購入した。

チケットゲートを、自分で差し込み、半券ももらって、
ボーディングブリッジにすすむ。

途中で、本日搭乗の機体を背景に記念写真。

上り飛行機

飛行機側の配慮なのか、本来、1席2名で座るべきところを
横の席を空席にしておいてくれた。
離発着の際はしっかりと、抱きかかえていなければならないが
水平飛行中は、詩音も、1座席にすわって、機内サービスの
アップルジュースと、おみやげにもらった「ゼンマイ人形」で
ご機嫌の、1時間20分でした。

羽田空港到着

羽田に到着し、まずは、詩音からママに到着コール。
「もしもし、あのね、飛行機のったー」

モノレール

羽田から、モノレールにのって、浜松町まで移動。

3番目のタダ乗り、モノレール、大人470円

ところが、整備場駅(地上にでた辺り)で、眠ってしまい、
せっかくのモノレールを、知らぬまに、浜松町へ、結局、起きず。

東京タワー

タクシーで、目的地の1つ、東京タワーに移動、まだ起きず。

東京タワーに到着して、エレベータ前のロビーに入るが、まだ起きず。

そこで、しばらく階段の途中にあるベンチで、起きるのを待つ。

10分ほどして、目を覚ましたので、入場券を買う
4番目のただ乗り東京タワー入場券、大人1900円

150mまで登り、あいにくの雨模様の東京を一望するが、
「・・こわい....」らしい、窓から離れてしまう。

東京タワー、失敗か? と、窓に近づかないように、展望台内をまわると
TVカメラ型の双眼鏡を発見、TVの両側にハンドルがあり、
それを、回すと、その方向がTVに写るのである。

それが、気に入って、景色になれてくると、窓も怖くなくなったようだ。

窓際にすわって、写真もOK。

続いて、最近開設された、地上250m展望台へ。
5番目の、ただ乗り、250mエレベータ 大人600円
そういえばそうなのだが、このエレベータは外にあるのだ。
つまり、エレベータのボックスの外は、外気であり、
雨であれば、びしょぬれであるが、なんと、室内に
雨漏りをするのである、たいしたものだ。

さて、上がってはみるものの、150mも250mも、景色は変わらず
あまり、面白くもないので、すぐに降りる。

ママにコール

150m展望台に戻り、お昼ゴハン、
チーズハムサンドと、オレンジジュースで、一休み。
ここで、ママにコール、理事長先生は役員会だったようだ。

修学旅行も多いので、紛れないように、地上施設へと降りる。

3Fに常設されている、不思議なアート展にはいり、
東京タワーのマスコットキャラクタ「のっぽん」と記念撮影。

でも、その他、飛び出すゴリラや、逆さに見える絵など作品は
「怖い」ということで、早々に退出。

次の目的地、「しながわ水族館」にタクシーで移動。

車内で寝てくれればいいのに、と思うが、ずっとゴロゴロしてた。

しながわ水族館

大森の日産NISMO本社前で、タクシーをおり、
しながわ区民公園という、かなり広い敷地の中にある水族館で、
大分銀行本店<=>パルコ、程度の距離を、雨の降りしきる中
抱っこして、歩くことになる。

なぜなら、傘をさして、手を引くと、背の高さがあまりに
違うので、詩音は傘の効果が得られないのである。

とはいえ、噴水があったり人工池があったりして
整備された公園を、雨のしっとりとした中に
歩くのは、ちと気持ちもいい。

6番目のタダ乗り、水族館入場  大人1100円

入ってからは、淡水・沿岸・湾内と、それぞれの生息域を
分けられた水槽で、大分のマリーンパレスとちがい、
足下から水槽が位置しており、子供の目線でも
魚の泳ぐ姿を真横から見ることができる。

詩音も大喜びである。

沿岸の水槽に、20センチほどのアカエイがひらひらとしているのが
面白く、白い腹をこちらに向けて垂直におよいでいると
手のひらがこちらに向かってバイバイをしているように見え
詩音も「おさかなさん、バイバぁイ」としている。

アザラシもいたのだが、あまり興味を示さず。

ここの水族館は、大きな水槽の上からの観察と
ドームトンネルで下からも見ることができる。

ちょうど、ウミガメ用に、ワカメを与えていたのだが
詩音には、それが野菜にみえたらしく
「かめさん、おやさい、たべなさい」と、アドバイス?!

クエなど、詩音より大きなさかなもいるのが、横から下から上からと
見えるたびに、「おーきーぃー」と、感激の様子。

順路としては、冷水系(北海のさかなたち)でエビなどをみたが、
あまり気にめさないようで。

タコや針千本などもダメ、珊瑚礁のきれいな水槽もあまり気にならず。

熱帯コーナーでは、演出上、部屋が暗くなったり落雷の音が怖くて
ピラルクとは大きなモノが多かった、早々に出てくる。

今回、なんといっても、お気に入りは、イルカであった。

ここは、イルカのショーがあるが、ショープールは
そのままイルカ水槽になっている。

もちろん、ショーの会場には、時間以外も入ることができ
イルカが泳いでいる姿を、見ることが出来るし、
地下の部分もガラス張りになっており、水中で、
イルカが目の前を横切る姿を、見ることが可能である。

詩音は、「くじらさん」と言うが、たいそうお気に入り。

一通り、施設内を見て回ったあとに、
グッドタイミングで、イルカショーが始まった。

屋外なため、雨の中のショータイムだったが
会場の前列は屋根が無いため、誰も座っておらず、
雅治&詩音は、わざわざ傘を掲げて最前列に陣取る。

この日は、幼稚園と障害児、老人ホームなどが
団体で見学に来ており、平日ながら会場は満員。
(最前列は誰もいないけど)

イルカが飛んだり、まわったりするのに、詩音も大喜び。
会場が拍手に包まれると喜んでたが、その雰囲気も楽しかったのかな。

会場のお約束で、ハイジャンプの着水で、しぶきがかかりますよ!
との事であったが、二人は傘があるので、よけて大丈夫。

なめてかかっていた、傘無し見学者は、濡れるのを避けるため
下がった位置に座っていたのに、大きなしぶきにずぶぬれ。

大きなお父さんと小さなお嬢さんの二人は、器用に傘を動かし
どしゃぶりのようなしぶきをかわしていたのであった。

銀座行軍

一時間後に、アシカショーも控えていたが、
ちょっと、きつくなってきたようなので、
水族館をあとにした。

そう、水族館での出来事で、幼稚園児の団体は
移動中に、強力な結束で、手をつないでいた。
その長蛇の列は、消して切れることがないため、
一度、進路を遮られてしまうと、待つしかない、
と、貴重な体験をしたことを付け加えておく。

来館の時と、逆の道順で、詩音を抱えたまま、公園を通り
幹線道路にで、タクシーで、銀座まで。

30分程度の移動中であったが、この間に、少し
睡眠してくれれば、いいのに、と思った通り、
詩音は寝てしまった。

これが、雅治にとって、試練の始まりだとは、
この時点で気づくはずもなかった。

港区を抜けて、中央区にはいり、銀座4丁目交差点が
近づくので、詩音を起こそうとするが、起きない。

やがて、三越前に到着し、抱えたまま降りて、銀座三越に入る。

デパート内のどこかのベンチで、休んでおけばまた起きるであろう
と思っていたが、東京には、ベンチはないのである。

かといって、カフェは、狭っくるしい小さなイスとテーブルばかりで、
子供を抱えたまま、ゆっくり出来る場所は、普通にはないのである。

座りも出来ず、抱えたまま、地下のイートインスタンドで
飯でも食おうと思ったら、三越はまだイートインは1軒もなく
困ったところに、すこし、目が覚めた詩音。

「三越しかありません」という生チョコがあったので
「詩音ちゃん、これママに買おっか?」「うん」
と、あいずちしたかとおもうと、また寝てしまった。

チョコの紙袋をさげて、荷物ももって、詩音ももって
雅治の銀座行軍は、帰りの飛行機の時間も考慮して
このまま、銀座三越から有楽町駅まで歩くことを決意するのである。

幸いにも、銀座は、どの方向にも地下道があり、
雨に濡れることはなかったけども、蒸し暑さと
詩音の体温もあって、あつくてあつくて。

どうにかして、座れるところはないか、と
道すがら、レストランやカフェの広そうなところを探すが、
まったくなく、このままでは、互いに体力の消耗は避けられない。

そこで、どうすれば、詩音を横にできるのか?考えた結果
座敷がある店を探すことにし、好都合に、目の前にはそば屋があった。

そば屋なら、座敷はあるので、店に飛び込み、おばちゃんに
「座敷いいかな?」と、案内してもらう。
昼飯時を大きく過ぎた15時くらいなので、OKだった。

タタミに置くと同時に、詩音は起きてしまい、
起きだちの大泣きで、店内響き渡る。

すぐに、ハイチューを口にいれて、静かになる。

天重も食べたかわからないまま、店をあとにして、
有楽町マリオンにはいり、トイレでおむつ交換。

移動中の、エレベーターやエスカレータでは
だっこされ、肩越しに後ろの人と仲良くなり、
「ばいばーい」と、にぎやかな、もんで。

駅前の「マツモトキヨシ」によってみたが、何もなく。
と思ったら、アガリクスのパッケージをもって出てくる。
「ちょっと詩音ちゃん、戻してきなさい」
どうも、パッケージにアガリクスの写真がのっているが
「きのこの山チョコレート」などにも見えて、
お菓子かと思ったのか?

山手線

有楽町から浜松町まで、山手線で移動する。

7番目のタダ乗り 山手線 大人130円

浜松町に到着し、ホームに降り立つと
となりの線路が、京浜東北線・東海道線・新幹線など複数あり
「あ、詩音ちゃん電車きたー」「ばいばーい」
「あ、詩音ちゃん新幹線きたー」「ばいばーい」
「あ、詩音ちゃん電車きたー」「ばいばーい」
「あ、詩音ちゃん新幹線きたー」「ばいばーい」
「あ、詩音ちゃん電車きたー」「ばいばーい」
と、当然のことながら、切れるはずもなく、しばらく
二人は、その場で手を振り続けることになる。

飽きてしまい、改札を通って、6時間ぶりくらいの
東京モノレールに。

8番目のタダ乗り モノレール 大人470円

席に座るため、一台乗り越し、次の便にふたりでゆっくりと座る。

今度は、寝ることなく、羽田まで、景色を楽しんだ。

羽田空港出発

羽田について、おみやげコーナーに、プレイステーション2と
操縦桿型のJETでGOを発見して、それで遊ぶ。

電車もそうだったが、詩音は、実は運転したかったのか?
でも飛行機は、大人になってもそう簡単に運転できないのだけど。

JASカウンターで、チェックイン
本日9番目の、タダ乗り。(大人は21,900円)

さすがに、お腹もすいてきて、「おうどんたべたーい」とこと。

うどん屋で、結構食べたら、元気も回復し。
空港ビル屋上の、展望台にあがり、ディズニー50周年JETを見送る。

ショップ街で、まなぎちゃんのおみやげをさがすが、
イーヨーのぬいぐるみに決定。

まだ、しばらく時間があるので、カフェでアイスクリームをするけど
そろそろ疲れてきたのか、文句が多くなる。

搭乗開始まで、もう30分前にちかづき、ボディーチェックを通る。

ママのお使いで、お菓子を買いに、端から端まで移動する。

そんなこんなで、時間もちかづき、バスターミナルに移動すると、
もう、搭乗の開始のアナウンス。

小さいお子様をお連れの方は、優先的にご案内します、
って、窓口にいったら、もう、関係なしに、乗り込み開始。

しかたなく、最後までまっていると、バスの最後に乗り込むことになったが
乗り込んで、狭い車内に入り込み、詩音が叫ぶ。
「いいよー、ドアしめて、いいよー、しめていいよー」
周囲、おかしくてたまらず、笑い出すひとも。

すると、そばの方が、詩音に席を譲ってくれたが、
一人では座らないと、雅治から離れないため、もう1方も席をたち
「お父さんも、一緒にどうぞ」と、譲ってくださった。

ギュウギュウ状態の車内で、親切もありがたいが、
大きなお父さんは、移動も大変で、かなりの方に
協力をいただいて、譲られた席に座る二人だった。

下り飛行機

機内に乗り込み、誘導灯がきれいとか、言っていたが
飛び上がってすぐに、寝てしまう詩音。

1時間35分間、ずっと寝ていました。

大分空港到着

着陸のショックで、目をさまし、ボーディングブリッジを
歩いている最中に、起きた。

到着ロビーで、お迎えのママをみて、14時間ぶりの感激の再開。

4人が揃ったところで、帰宅の途についた。

雅治&詩音の「東京日帰り小旅行」は、14時間の間に
陸・海・空の、それぞれの交通手段を乗り継いで行きながら
「無事に帰宅」というおみやげを持って幕を閉じたのだった。

To Be Continued…….. Thank you!!

次女「真凪」の誕生

39週間、母親の胎内で過ごしてきた事から歴史を刻み始める。

生まれたその夜に、父・母・姉と1つの部屋で過ごす中で、

姉 詩音の大きな声に驚くでもなく、まるで風も波もない

静かな水面の様に、目を閉じて眠っている。

生まれ出て、4人家族になったのではなく、胎内にいる

時から、4人であったと、改めて気付かされました。

すると、真凪は、この数ヶ月の3人の会話を聞いていた

ということでしょうね。

ママが体重コントロールに大変な思いをしたのも。

お姉ちゃんがトムとジェリーを見ないと寝ない事も。

パパの「産まれるまで禁酒宣言」がウソだったことも。

産声も静かに生まれ出て、姉がそばで騒いでいようと、

淡々と自分のペースで、これからも過ごすのでしょう。

それは、まさ(真)に凪のようだと、感じました。

※凪(なぎ):海で風がなく波が静かな状態

[旺文社国語辞典より]
個性派揃いの山崎家に、また新キャラクターの参加です。

メダルを狙えるファミリーを目指して.....。